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三ノ⑤

 翌朝、彼方の目覚まし時計代わりになったのは、「ねぼうしたー‼!」という佳苗の絶叫だった。

 その頼もしい大音量を発したくなるのもわからなくはない。早起きできたと思っていた彼方でさえ、正直血の気が引きかけた。

 起きたら、窓の外は黄昏時だったからだ。

 急いで飛び起きた二人は、着替えもそこそこに居間へ降りたが、そこにはのんびりと朝食の用意をしているフローレンスとのんきに新聞を読み漁っているエドガーがいた。

「ごめんなさい! 寝坊しました!」

「あら。寝坊なんてしてないわよ。むしろ早起きだわ」

 へっ、と佳苗は素っ頓狂な声を上げる。

「あ、言ってなかった? この世界には『朝』というものがないの。一日は二十四時間あるけど、夕方から夜が一日に埋まってるの。太陽が昇り切らないからね。……ごめんんなさい、最初に教えておくべきだったわね」

「い、いえ……」

 佳苗はほっと息をついて席に倒れこんだ。彼方は資料の再確認をしに荷物を置いてある寝室へ戻った。そこには、一応、書いてあった。

『そこには朝がない。太陽の存在感があまりない。同じ二十四時間でも、そこには夕方から深夜しか存在しない』

 目を通していたはずなのに、それを忘れていた。寝坊と勘違いしたことよりも、この資料を結果として見逃していた自分の失態が、彼方にとってはよっぽどがっくりくることだった。

「まあ、私たち以外の人たちが朝を迎えると、だいたい同じような反応するから、気にすることじゃないわよ」

「うう、すみません……」

「気にしない気にしない。さ、どうぞ」

 フローレンスは人間二人に、フレンチトーストと紅茶を差し出した。紅茶の香ばしさと、フレンチトーストに絡めたシロップが、調査隊二人の食欲を引き出した。さっきまで各々の理由で落ち込んでいた二人は、デザートのフルーツを食べ終えるころには立ち直っていた。フローレンスの料理は、落ち込む人を元気づける作用があるらしい。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 佳苗と彼方はいったん寝室に戻って、調査の準備を整えた。紺のジャケットに、金色の三本足烏が刺しゅうされた赤色の腕章を通し、カバンに必要器具がすべてそろっているのを確認。佳苗は髪を適当にまとめて右肩に流す。

 彼方は、もう一度資料を読み込んだ。資料に穴が開くほどの眼力でそれをにらんでいた。

(もう取りこぼしはないな)

 満足して部屋を出る。下では、佳苗以上に騒がしい声量のマーシィが二人を呼んでいた。

「はよーっす! 調査隊おふたりさん、今日一日よろしくおねがいしまーす!」

「あっ、よろしくお願いします……!」

 玄関先に待ち構えていたマーシィに、佳苗はおもわずぺこっと頭を下げる。この世界の調査を手伝うと、マーシィが買って出ていた。今日はマーシィにこの世界を案内してもらうことになっていた。

「じゃ、フロー。行ってきます。夕飯前には帰しますんで」

「ええ。行ってらっしゃい。楽しんできてね」

「行ってきます」

「失礼します」

 エドガー夫妻の家を出た調査隊二人は、初めて悪魔の世界を実感した。


「まず基礎知識からっすね。まあ歩きながらでもいいでしょう。ここは『悪魔の世界』。由来は、悪魔が住んでるからっていう、まあ当たり前のもんっすけど。で、一日は二十四時間。これは地球と同じっすね。んで、朝がない」

 佳苗は支給された手帳に、律儀に書き込んでいく。ICレコーダーも希望すれば支給されるのだが、佳苗はこちらのほうがいいらしい。やり方はアナログに思われても、佳苗のメモはうまい。大切な部分をきちんと選び取って、最低限の単語と文章で必要な情報を書き込んでいく。彼方は、佳苗のこの能力を素直に頼っていた。自分は話半分に聞いていても、彼女のそういった能力を駆使すれば、たとえ聞き漏らしても問題はない。……もっとも、聞き漏らすなんて失態をさらすつもりもないのだが。

「ここの世界をまとめてるのは魔王レイモンド様。三代目っす。魔王といっても、独裁的なとこはないと思います。この世界がうまく立ち行くための権限を持ってて、世界レベルでなんか起きた時は魔王様の決定が一番です。そのほかには、まあ簡単な人事異動とか魔王様自身のお仕事とかありますねえ。なんて言うんすか? こう、まあ、大統領?」

「魔王、ねえ」

「悪魔の王ですから魔王っす」

 わかりやすいなあ、と彼方は相槌を打つ。

「この世界のできたきっかけってわかりますか?」

 今までの説明をメモし終えた佳苗は、聞いた。

「あー、それは知ってます。もう悪魔の常識で。地球に人類が登場した時にはもうこの世界はできてたんすよ。自然発生っすね。ちょっと違うとこもありますけど、この世界の構造はだいたい地球と同じっす」

 マーシィはぐりんっと首を回し、ついてきた人間二人に熱視線を惜しみなく贈った。突然のまなざしに、二人はたじろいだ。

「でね! こっからっすよ! もしかしたら悪魔ってのは、もとは人間と同じだったんじゃないかって説もあるんすよ‼!」

 マーシィの目はきらきらと輝き、熱狂ともとれる説明があふれ出る。

「根拠はいっぱいありますよ? 身体構造も世界の構造も、生活水準も言語も、ほっとんど一致するんすよ! 多少の誤差はありますけど、その誤差は人間と悪魔を分かつ要素になったんじゃないかって! あ、ちなみにこの説唱えたのはウチのじいさまっす」

 マーシィの熱弁は、佳苗にも彼方にも言葉を挟ませる余裕を持たせなかった。彼女は半分小躍りしながら、地球の特定の人間にとっては異端審問にかけられかねない説を無邪気に語る。が、一通り説き終えたあとで、我に返った。

「……あ。ごめんなさい。つい熱くなっちゃいました……」

 マーシィは猫の耳のような両端をした帽子を目深にかぶりなおす。少しその目はしゅんとしていた。

「いえ、興味深い論です。できれば、論文とかあったら、主要なものをコピーさせてもらいたいんですけど」

 佳苗がそういうとマーシィはさっきまでの落ち込みが嘘のように、またきらきらを取り戻した。

「お任せください! じゃあウチの家に案内します! そこに論文置いてあるんで」

 マーシィは佳苗と彼方の手を取り、家まで連れてきた。

 その家というのが、妙におどろおどろしい雰囲気を醸し出す洋館だった。夕方だからか、周囲に植えられている木々がどれも枯れているからか、お化け屋敷と偽っても誰もが納得しそうな建物だった。

 彼方は幽霊でも出そうなもんだと考えているだけだったが、その隣にいる佳苗の顔は真っ青だった。その意をくみ取ったかのように、マーシィは「幽霊なんて出ないから大丈夫っすよ~」と話してくれた。それでも怖いものは怖いもので、佳苗は無意識に彼方の腕にしがみついていた。これが結構強い。緊張して余計に力が入っているのだろう。

(痛え……)

 彼方はしかめっ面になるのをこらえ、無表情をなるべく貫き通した。

「じゃあ、論文持ってきますね。こっちが客室なんで、のんびりしててください」

 マーシィは二人を客室に案内して適当に座らせると、そそくさと部屋を出て行った。

 案内役が不在となった今、調査隊の少年少女は調査隊での時間を得ることとなった。

「なんか、すごい世界だったね」

 佳苗はそうつぶやいた。この言葉には、彼方も同意した。朝のない世界があるなんて、考えたこともなかったし、「悪魔」と称される割にはやたらと平和な場所だ。町並みはホラーチックで切り裂きジャックでも出てくるのがお似合いな雰囲気を持っていたが、住人達は人間に熱烈な愛情を持っている。

「確かにね。名前に騙されちゃうのかな。悪魔ってつくくらいだから、危ないところだって先入観が動いちゃうんだろうね」

「そうだよね。でもあたしが一番気になったのは、人間と悪魔がもともとは一緒の種族だったって話」

 ああ、と彼方は相槌を打った。

「あれさあ、あたしとしては全然気にならないし、問題にもしないんだけど、ほかの国の人たちが聞いたらなんていうのかな」

「少なくとも俺たちみたいに好意的な印象を受けることはないだろうね」

「だよねえ。報告書ってさ、ほかの国の調査隊にも一応送るんだよね」

「うん。この世界を調査したがるのは日本くらいじゃない? うちほど宗教に寛容な国はないんだからさ。カルト団体でさえ自由にやりたい放題できるんだから」

「か、彼方君……それは言っちゃまずいよ」

「言い過ぎはさておき、幸運だったかもね。日本だからここの調査任されたんだろうし」

 真面目な会話をしていると、マーシィが何冊か雑誌を抱えて戻ってきた。

「お待たせーっす! 提供用の論文雑誌なんすけど、どーぞどーぞ」

 彼方はマーシィから何冊かの雑誌を受け取った。ぱらぱらとページをめくってみると、どれも見たことのある文字がつづられていた。英語と日本語のものはあったが、悪魔の言葉らしきものを乗せたものは見当たらなかった。

「どしたんすか?」

 マーシィは彼方を覗き込む。

「悪魔の言葉ってないの?」

「ありますよお。でもお二人は人間でしょ。人の言葉のほうがいいと思って。あ、こっちのが悪魔の言葉で書かれた論文っすね。こっちも持ってきます?」

「いいんですか? いただきます」

 原本という言葉が好きな佳苗がそれを受けとった。リュックに仕舞い込む。

「じゃ、引き続き案内でもしますか」

 論文をもらった調査隊二人は、マーシィに連れられて悪魔の街を歩き回った。

 悪魔の世界は夕方から夜しかないが、悪魔たちは朝を知らないわけではないらしい。むしろ悪魔の世界よりも人間の世界である地球に合わせた体内時計をしている悪魔が多数だそうだ。

 悪魔の世界成立以来、悪魔は常に人間の隣で生きてきた。悪魔は人間に知恵と炎を与え、人間はその与えられた二つを巧みに使いこなし、悪魔以上の賢さを得たのだという。

 その賢さというのは、主に文字を開発したこと、料理をすること、文明を発展させたこと、文化や娯楽を作り上げたことなど、枚挙にいとまがない。

 宇宙に世界が生まれ、生物が登場してから、人間が登場するまでそういった賢さを持っていた種族はいない。一つだけあるとしたら、それは神である。

 神は世界を作り、人間を創られた。その人間と分かれたのが、悪魔らしい。

 なぜもともと一つだった種族が分かれたのか、悪魔の世界ではまだ議論中らしい。いくつか説はあるようだが、どれも決定打に欠け、今後の研究の発展如何によっては突き止められるだろう。

 ……というような趣旨の話を、彼方は聞いていた。佳苗はというと、やっぱり真面目な表情でメモを取っていた。佳苗と彼方には、悪魔と人間の違いというのがよくわからない。

 目の前にいるマーシィは、見た目は普通の人間と変わらない。明らかに日本人顔ではないが、体の構造はおそらく相違はないはずだ。

「あの、決定的な違いがあるから人間と悪魔は分かれたんですよね?」

 昼食も適当に終わらせ、食べ物屋でのんびりしている際、佳苗はマーシィにそう聞いた。

「ん? そうっすよ」

「その違いってなんなんですか? あたしの目には、みんな同じように見えるんです。悪魔の世界って聞いてちょっと力んでたんですけど、こうも同じだと、朝のない地球だって錯覚しちゃうんです」

「あー、それの説明がまだでしたね。一番大事なことなんに」

 マーシィはがたんっと音を立てて席を立つ。調査隊二人のもまとめて払った。

「それについては魔王様に聞いたほうがいいでしょう。今からお連れするんでついてきてください」

 ちょうど食後の小休止も終わったことだし、とマーシィは調査隊の人間二人を手招きする。

 佳苗と彼方は、顔を見合わせ、いそいそと彼女について行った。



 まだ昼下がりだというのに、この世界の空はオレンジ色に染まっている。からりと晴れた青空とは無縁だとはわかっていても、彼方にとっては異質だった。それでも周囲にすぐなじんでしまう体質なのは助かった。

 二度目の訪問とはいえ、相手は世界をまとめる魔王である。威厳と誇りに満ちた世界の統率者は、それだけで自然と畏敬の念がこぼれてしまうものだ。

「人間と悪魔の違い? マーシィ、それは一番に教えるべきことじゃないのかな」

 佳苗と彼方は応接室に通さされた。向かいのレイモンドは、のんびりと足を組んで適当に茶菓子をつまんでいた。

「いやあ、忘れてましたよ。すいませんねえ」

「まあいいや。マーシィなら仕方ないかな。……さて、私が教えるべきことは、何かな?」

 もったいぶった言い方だ、と彼方は心中で毒づいた。知っている上でじらす話し方が、彼方は嫌いだった。その逆、佳苗は別段気にしていないようだった。

「人間と悪魔の違いです」

「ああ、そうだっけ」

 レイモンドはふっと笑ってティーカップをテーブルに置いた。ちょうど紅茶のお代わりを持ってきた使用人らしき長身の男性に、一言二言と言葉を与えた。その男性は一礼してすぐに去り、またすぐ戻ってレイモンドにある書類を渡した。

「この書類、わかるかな。悪魔の言葉を無理やり邦訳したものなんだけど」

 レイモンドから差し出された書類に書かれた言葉は、一応はわかる。だが、その言葉の羅列が何を意味するものなのか、理解できなかった。

「罪人リスト? なんです、これ」

 彼方は後味の悪いような気持だった。表情は苦々しさを表し、それがレイモンドに対する嫌悪感にもなりかねなかった。

「文字どおりの意味だよ。罪を犯した者たちを、私たち悪魔が過不足なく裁くんだ」

「その人に罪があるかどうかなんて、基準でもあるんですか?」

「あるよ。それが悪魔の嗅覚」

「きゅうかく……?」

 佳苗は首をかしげた。

「そう。悪魔はね、生物の罪の匂いをかぎ取ることができる。そういう嗅覚を持ってるんだ」

 レイモンドは自分の鼻をつんとつついた。

「この嗅覚は結構頼りになるんだよ。おかげで、『仕事』が円滑に進むんだよね」

「仕事って、何のことですか?」

「生物の罪を裁くこと。これは悪魔や人間に限らない。動植物や神だって対象に入ってるよ。とにかく生きてるものはね、みんな罪を蓄積していく。その罪ってのはそのものが贖罪の心を覚えたことから償いが始まるんだ。普通はそこで罪の匂いは消える、つまり罪が洗われるってことね。だけど、たまにあるんだよ。贖罪の心がなく、償う気持ちがない生物ってのが。そういう者たちの罪を強制的に償わせるのが、私たち悪魔の仕事」

 佳苗は目をぱちくりさせていた。その横で、彼方は嫌なことを聞いたと心底後悔した気がした。

「わかるかな?」

「ええーと、あたしたちにもあるんですか? 罪の匂いっていうのが」

「んー。あるけど微弱だね。きっと償ってるんだと思うよ。普通はそんなもんだ」

 佳苗は熱心にメモを取る。

 彼方は、佳苗に席を外させた。佳苗から不服の声がダダ漏れしたが、なんとか言い含めて先にバートン夫妻の家に帰した。

 マーシィもレイモンドの従者らしき男性もいなくなり、レイモンドと彼方の二人だけになった時、彼方はようやく警戒心をあらわにした。魔王相手によくやるよ、と自嘲した。

「で? 人を避けて聞きたいことって何かな?」

「嗅覚の違いが、人間と悪魔の違いって?」

「そうだよ」

「で、罪を裁いてるって?」

「うん」

「一種族が、生きとし生けるものの行いを裁くって、どうも傲慢じゃない?」

「それは何とも言えないよ。悪魔にとって、罪を裁くのは呼吸をするようなものだ。生きるのに必要な活動といえばわかりやすいかな」

 レイモンドは悪びれることなく、淡々と答えていく。

「……もし、俺に裁くべき罪があるとしたら、あなたはどうやって俺を裁くの?」

「ん? そりゃねえ」

 レイモンドは彼方の反射神経の斜め上を行く速さで彼方の首根っこをつかんだ。魔王の冷えた手が自分の喉をとらえていると認識した時にはすでに遅かった。彼方は、座っていたソファに叩きつけられ咳き込んだ。

「んっ」

 首に張り付く手を引きはがそうとするが、びくともしない。最後の抵抗のように魔王をにらむが、向こうは余裕綽々だった。

「私だったら、血を吸うね」

「血……?」

「そう。私の力だよ。裁き方は悪魔によって違うんだけど」

「罪を持ってるものの血を吸い取ったら、それで罪があがなわれたことになるの?」

「なるよ。罪を負ったものの血ってのは普通のものの血とは味が違うからね。一言でいえばどろどろに濁ってるんだよ。その濁りは穢れともいえるね。穢れを私が吸い取ることで、罪はその分流される。ま、私に限ったことだけど」

 おわかりいただけたかな? と魔王はおどける余裕さえ見せて彼方から手を離した。

「君が大切にしてるあの子がいないから正直なこと白状するとね、本当は私は君を裁くことも考えていたんだよ」

 彼方は喉元を抑えつつ、衝撃の事実らしきことに耳を傾けた。

「俺に、罪があったと?」

「まあね。さっき見せた書類には書いてなかったけど、君も罪人リストに載っかる要素は充分だったんだよ。もちろん君は人間世界の法律に抵触するような罪は犯してない。犯してるのは、まあ、信仰的なものかな」

「俺、七五三して年始には九段坂の神社までお参りしてクリスマスにはケーキ食べるような、標準的な日本人の信仰しか持ち合わせてないんですけど」

「うん。だけどさ、君……誰にでも敵意を持つよねえ?」

 ポケットに突っ込んだ手が、止まった。そのポケットに入っていたのは、護身用の拳銃だ。

「警戒が悪いとは言わないけど、君のはどう考えても度が過ぎてるよ。君の罪はそういう不信感」

「……大きなお世話ですよ」

「そうかもね。しかも、君は恐ろしい子だよ。あの子のいる前では、その敵意や警戒心をしっかり隠してたもの。これだけの人間も珍しい。……だけどね。これは諸刃の剣だよ。君のそういう過ぎた敵意はいつか身を滅ぼすし、人間の利益を損ねるよ」

「忠告ですか」

「君は優秀だからね。失うのは悪魔にとっても大きな損失だからさ。少しは、周囲の人を信頼してもいいんじゃない?」

 レイモンドはそう助言して、彼方を帰した。


 バートン夫妻の家に戻った彼方は、フローレンスの手料理を平らげて適当に入浴した後は寝室でぼんやりしていた。

 佳苗がまとめてくれていたメモの写しをもらって、適当に目を通す。全然、頭に入らなかった。レイモンドに言われて、柄にもなくその言葉を引きずっていたのだ。

 自分が、こういうひねた性格なのはわかっている。両親が厳格すぎて、かといって姉に甘えるのも嫌がった幼少期の自分が今になってこうして自分を形作っているのだ。

(魔王って、如月さんに似てるのかな)

 如月もまた、彼方の本質を見抜いていた。そして頼れと胸を叩いていた。おそらく、自分はかなり牙と爪を隠していたのだろう。

 実社会において牙を研ぎ爪を隠しておくのは悪いことではない。ただ、彼方の場合はそれが過ぎるのだ。行き過ぎた警戒は疑心暗鬼を呼ぶ。

 このまま自分を守るための警戒心を磨きすぎたら、いつか本当に信頼していた者を犠牲にして、自分は裁かれるのだろう。

「彼方君」

 風呂上りの佳苗が、彼方の寝室に入ってきた。

「ん、何」

 彼方はベッドから身を起こして佳苗を隣に座らせる。

「さっきね、お兄ちゃんから連絡があって、明日の朝には帰って来るようにって」

「こんなに早く? 予定じゃあと二日は滞在してなくちゃなんじゃないの?」

「そのはずなんだけど……なんか、あたしたちで調査してほしい世界が見つかったらしくて……」

「この世界も俺たちじゃなきゃ誰も調査しそうにないと思うんだけど、それよりも優先するってこと? ずいぶん急だねえ」

「うん。それはあたしも言ったんだけど、『とにかく早く帰ってきなさいよろしこ』って」

「そっか。じゃ、あとでバートン夫妻にお礼言っとかなきゃね」

 佳苗はうなずいて、それじゃあ、と立つ。用はその言伝だけだったようだ。

 急に、ふと思い立って、彼方は呼び止めた。

「あのさ」

 うん? と佳苗はドアの直前で振り返る。

「どうしたの、彼方君?」

「ちょっと聞きたいんだけど」

「ん?」

「君は、怖くないの? この仕事」

 おそらく、佳苗はこの仕事の危険さをきちんと理解していない。もしそうなら、あれだけ好奇心をおおっぴらに出して調査をしたりはしない。少しは慎重にするはずだ。

 彼方は、怖い。今回の世界も、前に赴いた二つの世界も、資料が少なく調査記録も満足に受け取れないような未開の地だった。未開というのは誰も知らないのだ。そこが安全なのか危険なのか、外に対して友好的なのか排外的なのか。

 そこで痛い目に遭わされる危険を彼方はある程度可能性として考える。最悪殺されたほうがましなくらいの扱いを受けるかもしれない。

 何より、自分のそばにいる佳苗がそうなるのが、もっとも怖い。そんな臆病心から警戒心や敵意が生まれるのだろう。

「んー、難しいことは、あたしにはよくわかんないや」

 佳苗は苦笑してそう前置きする。そして、簡単に答えて見せた。

「あたしは、彼方君がいるなら、どこにだって行けると思う。だから、怖くないよ」

 彼方は、ぽかんとして佳苗を見上げた。

 この幼馴染は、何もわかっていないのか、わかったうえで言っているのか。ただ彼方に理解できたのは、この少女から自分が絶大な信頼を受けているということだけだ。

「彼方君?」

「……いや」

 彼方は口元を手で覆って顔を伏せる。今、きっと情けない顔をしている。こんな顔、見せられたもんじゃない。

「どうしたの? 具合悪い?」

「平気。ほら、もう遅いから、寝な」

「うん。でも、無理しないでね。お休み」

「おやすみ」

 ドアが閉まる音を確かめて、彼方はベッドに倒れこんだ。

 改めて顔を手で伺うと、かなりほてっていた。赤くなっているんだろうが、鏡で確認したくもない。

 彼方は、今なら、如月の問いに答えられる気がする。

『お前、なんでそんな警戒心を大事そうに抱えてんの?』

 心中で答えた。

(あの子を守るためだったんですよ)

 だが、もうこれほど強い警戒心を抱く必要もなさそうだ。その理由だったあの子は、自分が見ていないうちにずいぶん強くなっていたらしい。ならば、彼女の強さに頼って、少しばかり緩くなっても問題はないのだ。

 彼方は、ふっと笑って寝返りを打った。自分のおかしさに笑いながら、ゆったりと眠りに落ちた。


三章はこれで終わりです。昨日、更新を忘れた私はどつかれてもいいorz

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