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三ノ③

 学生服とを脱いで、Yシャツの上に調査隊のジャケットを羽織る。そして、その左腕には、金色の三本足の鳥が刺繍された腕章を装着する。三本足の鳥は、日本神話のヤタガラスを表している。ヤタガラスは、神武天皇の遠征の際、神から遣わされ、神武天皇を導いたとされる烏だ。この導きを、地球と異世界双方を繁栄と発展へと「導く」という訓に転じさせた。このシンボルマークは日本でしか通用しないようなものだが、日本調査隊責任者である宗像亮の演説が世界中の調査隊員の心を掴み、全世界で採用されている。

 次に荷物をチェックした。通信機がもう一人の現地調査員と、オペレーターと連絡を取れるよう確認し、ズボンのポケットにしまう。翻訳機は正常に作動している。右耳に装着した。携帯電話には、通常これから向かう世界のデータマップが入っている。といっても、今回はそれすらないのでこの調査で「悪魔の世界」のマップをこちらがデータとして入力しなければならない。緊急コールも、マニュアルどおりのチェックをしたが、異常はなかった。この、爆弾の起爆スイッチのようなこれは、現地調査員の命をつなぐスイッチといっても問題なかった。それを押せば、六十秒後に現地調査員を強制的に地球の登録された場所へ送還するというシステムになっている。未開の地を調査する際は、そこが安全かどうかも分からないから、もしもというときのために即行で開発された備品だった。起動まで六十秒かかるのは、電波受信から作動までどうしても必要とする時間らしい。それまでの六十秒間は、自分の命は自分で守れといわれている。そのための、護身用の武術を春休みの研修期間にみっちり叩き込まれた。銃器やナイフなどの護身用武器も携帯を許可されている(むしろ、義務づけられている)。銃器といっても中身はペイント弾や麻酔弾で殺傷能力は恐ろしく低い。武器は護身のためであって、誰かを傷つけるためのものではない。

 よし、と彼方は完璧にチェックを終わらせ、仕事部屋に戻る。ちょうど、佳苗も仕度を終えたところだった。

「あ、彼方君」

「ん。ちょうどよかったね」

 仕事部屋に戻ると、出かける準備を万全に整えた如月がいた。その手に、車の鍵をもてあそばせている。

「お二方、準備はいいかい? じゃ、送ってくよ」

「どこまで行くんですか?」

「こっから車で一時間くらいのとこに、ちょっとしたカフェがある。そこから『悪魔の世界』に入ってもらうぜー」

「なぜにカフェ?」

「そこに、『悪魔の世界』に通じる扉があるんですよ。さ、乗れ乗れ。今のうちに寝とけ寝とけ」

 佳苗と彼方は二人仲よく後部座席に乗り込んだ。エンジンがかかると、いつの間にか音楽が流れ出てくる。顔に似合わず、有名なアニメソングが流れてきた。

「如月さん……あんた……」

「哀れみを含みに含みまくった声色で言うな‼ いいじゃねえかいい曲なんだから!」

「いや、別に如月さんがアニソン聞いてようが洋楽聞いてようが電波ソング聞いてようがべつにいいんですよ。個人の趣味に首突っ込むのは下衆のやることですから。でも……あんまりです如月さん。俺、如月さんはかっこつけてジャズとか聴くと思ってたのに……この裏切り者」

「お前が勝手に妄想したんだろうが! 俺は悪くないだろ言いがかりもいいとこだ!」

「……というのは冗談ですけど」

「じょーだんかよ⁉ やめてくれよ真顔でジョーク言うの! お前が言うと本気なんだか違うんだか分からんのだから!」

「俺なりのジョークくらい汲み取ってくださいよ。あんたそういうのは得意なんだから」

「否定はしないけどね、ナタ相手だと難しいのよ。それと静かにしとけ。こっちも音量下げるから。カナ嬢ちゃんが起きる」

 彼方はいつの間にか自分の左肩に頭をこてんと乗っけている少女を横目で確認した。静かに寝息を立てて眠っている。これを向こうへ引き剥がすのは酷だ。如月が、車内に流れている音楽の音量を下げた。おかげで車の中は、かすかに聞こえてくるアニメソングと車を走らせると出るごうごうという特有の音で満ちる。

 如月が運転席からよこした眠気覚ましのガムを噛んでいるためか、最近寝不足気味だったのに、彼方はちっとも眠気を感じなかった。ぼーっと、窓の外の風景を眺めたり、バックミラーから指揮官を覗き見たりして、耳に自然と入ってくる音楽を楽しんでいた。

「お前ってさ、何か分からん奴だわな」

 如月はふいにそんなことを言ってきた。

「抽象的すぎて何が分からんのか俺にはわかりかねます」

「ああ、いや、うん。なんつーのかなあ、お前、敵意むき出しっていうのかな」

 声色はいつも通り間の抜けたようなものだったが、この指揮官は彼方の本質をあっさりと見抜いた。

「失礼ですね。高校生で兼務とはいえ、俺だって半分は社会人ですよ? 仕事のときはたとえ嫌いな人とでも割り切るのくらいできます」

「そうだな。お前大人だもんな。ていうか、本当に高校生? サバ読んでんじゃないの? 俺や栄ほどじゃなくても、中野くらい大人びてて、正直怖いときがあるよ」

「九つも年下の部下に恐怖感を覚えるってどれだけ怖がりなんですか」

「そういう次元じゃないのよ。自覚してるかしてないかは知らんけどさ、お前、割と誰にでも警戒心を持ってるからなあ」

 彼方は黙った。

「ウチの代の埼玉調査隊もさ、発足してまだ一ヶ月もないけど、そろそろその警戒心といてくんない? こんな俺でもさ、埼玉調査隊の指揮官なんだ。少しは十五歳らしく甘えてもいいんだぞ?」

「二十四の野郎に甘えるとかふざけたこと抜かさないでください」

「ひどい! じゃあ俺が五十くらいのおっさんになったら甘えてくれるのか!?」

「気持ち悪いんでそれ以上年の話はしないでください」

「強制シャットアウト⁉ 理不尽すぎんだろ」

 如月はぶー垂れながら咳払いした。

 信号が赤で、車が停車していた。いつの間にか、彼方は周囲に気を配るのを忘れていた。

「じゃあさあ」

 今度は、声色ともども、真剣みを帯びていた。バックミラーでその顔を伺うと、如月は年齢相応の表情を引き締めていた。

「お前、なんでそんな警戒心を大事そうに抱えてんの?」

 一瞬、空気が凍った。

 車が、動き出して、凍った空気は一気に溶けた。

 簡単な質問だ。別に数学の証明をしろと言われたわけではない。古文の和歌を訳せといわれたわけでもない。学校で出される問題よりも、簡単な質問のはずだ。

 今、左肩が妙に重く感じる。佳苗が頭を乗っけているから当然なのだが、その重みが、痛いくらいに、突き刺さる。

 アニメソングが、別の曲に変わった。これも別のアニメに使われた音楽だ。

「……如月さん、あんた、割とアニメ見てるほう?」

「そうだな。近所のちびっ子と語り合えるくらいには」

 如月はこれ以上追及してこないようだった。間抜けで九つも年下の部下にこうして口で言い負かされ、孝太に天然で激甘コーヒーを飲まされるような上司でも、その場の空気を確実に読みきるのは誰よりもうまいらしかった。それが、今の彼方にはとても助かった。助かったからこそ、悔しかった。自分の立場が危うくなって、危うくさせた本人に助けられるなんて、ある意味屈辱だった。

(いけない)

 彼方は頬をぺちぺちと叩く。もう仕事中なのだ。私情に支配されてたまるものか。仕事をするときの彼方に切り替えなければ。

「よーし着いたぞ! カナ嬢ちゃんを起こしな」

「はーい。……起きな」

 彼方は優しく佳苗をゆする。もぞもぞを嫌がって目を覚ました。

「あ、彼方君……?」

「着いたって。降りるよ」

「うわっ? あたし、彼方君によっかかっちゃってた⁉ ごめんね?」

「いや、いーよ。いいもん見れたし」

「え、そんなにあたしの寝顔おもしろかった?」

「よだれたらして幸せそうに寝てたよ」

「嘘⁉」

「うん。よだれは嘘」

「あ、そうなの……」

 佳苗は少しほっとして、彼方の後を着いてくる。

 如月に案内されたカフェは、個人が経営している場所で、都会の雰囲気をかもし出しているこの場にはいっそ不似合いで浮いている。中に入ると、カウンターで彼方と同じ年ほどの少年がグラスを丁寧に吹いていた。

「おーっすエリー」

「どうも、如月」

 エリーと呼ばれた少年は待ち構えていたかのように如月にジュースを差し出す。後ろに控えていた現地調査員二人の分も用意してあったらしい、グレープフルーツジュースが置かれた。

「お二人さん、この人がこのカフェの店長。エリーって呼んだって」

「つかぬことをお尋ねしますが、日本人ですよね」

 彼方は如月の紹介を話半分に聞き流して気になっていた箇所を問いただす。

「うん。両親祖父母ともに日本国籍を所持する立派な日本男児ですよ。エリーってのはあだ名」

「あのー、このジュース、いただいていいんですか?」

「うん。タダ。これから仕事でしょ? それ飲んで元気出して」

「いただきます」

 のんびりとジュースを飲み終え、これから仕事だと気を引き締めるころには、如月はすでに消えていた。

 店長のエリーに案内された場所は、店内で一番奥のテーブルだった。よく見ると、そこの壁に茶褐色の扉がある。

「これが、扉?」

「そう。『悪魔の世界』への入り口。この店開いた時にはもう存在してた。先代の調査隊も、ここを通って『悪魔の世界』に行ったらしい」

「そっか。……じゃ、扉、お借りします」

 佳苗は取っ手を握る手に力を込めた。彼方は、息を呑む。

 扉の向こうには、悪魔の世界が広がっているのだ。


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