三ノ②
学校からまっすぐ駅へ向かい、彼方は電車に乗り込んだ。埼玉に置かれた調査隊は、彼方と佳苗の定期券内で収まるほどに近いところにある。おかげで学校並みに通いやすかった。
なぜ設置した都道府県が、埼玉県と大阪府なのか、彼方は一度上司に聞いてみた。上司が言うには、調査隊総長の実家が埼玉県にあるからとのことだった。そんな理由で埼玉に設置していいのかと鋭く突っ込みたくなったが、彼方も埼玉県に住んでいる手前、通いやすさには感謝しているので不問にしてみた。
まだ昼さがりのため、車内は混雑していない。彼方は空いている席を見つけてそこに腰を下ろす。この仕事に就いてからまだ一か月も経たないが、この期間で今回に入って三件目の調査というのはあまりに多すぎる。体力には多少自信のあった彼方も、車内の快適な温度と疲労によりつい眠ってしまった。それでも目的の駅に着いたら目がはっきり覚めた。
駅を出て、通いなれた道を心持早足で進む。東京の都会と違って、ここは都会になりきれない田舎の匂いがする。田舎とは言っても、電車やバスなどの交通機関はそれなりにしっかりしているし、コンビニやデパートといった店も充足している。ただ、人通りが少しだけ少ない。おかげで、人を避けるための集中が必要なくて楽になれる。彼方は、いまだに調査隊の設置県が埼玉であることに疑問を抱いていたが、この時は感謝しないではいなかった。
埼玉の調査隊は小さな一軒家を事務所代わりにしている。とても小さい家だが、必要な資料や施設は充分に備わっているので、不足はなかった。泊りがけの調査になることも予想されるから、人数分のベッドは確保されているし、生活に必要な電化製品は最新式のものがそろっている。
仕事部屋に入ると、孝太が一人で資料を作成していただけで、ほかは誰もいなかった。
「こーちゃん」
彼方に気づいた孝太は、いったん手を止め、彼方に向かってニヒル(と本人は言っているが実際はそんなものはかけらもなかった)に笑いかけた。孝太は佳苗の三つ上の兄で、高校を卒業してすぐこの調査隊に就職した。その顔は、どこか佳苗とよく似ている。
「おーう。ナタ坊。早かったな」
「うん。ほかの人は?」
「ああ、もうそろそろ来るんじゃないかな。あれ、わが妹とは一緒ではなかったのかな」
彼方は首を横に振った。
「用事で遅くなるんじゃないの? 召集かかったの昨夜でずいぶん急だったし、学校の用事入れちゃったんだと思うよ」
「うむ。まあ、ならば仕方ない。みんなが来るまで待つとしようか。あ、コーヒー飲む?」
「飲む」
孝太はそそくさと台所に立ってコーヒー豆を挽き始めた。別にインスタントでもいいんじゃないのという彼方の提案に、「ダメよ! インスタントよりこっちのがおいしんだから!」と力強く否定された。孝太という人間は、本人が思っている以上によくできた人間だ。律儀ともいう。泊まり込みの仕事になったら食事を作るのはほとんど孝太が率先してやるし、事務所内の掃除や洗濯も暇さえあれば引き受けるし、冷蔵庫の中に保存してある飲み物やお菓子が切れないように、こまめに補充しているのも孝太の仕業だ。しかも、お菓子は季節に合わせて買ってくるという律儀っぷりで、隊員からは主夫すぎると評価されていた。
彼方は冷蔵庫を開けてみる。中には、プリンとゼリーが大量に保存されていた。隊員一人につき一個ずつでも余る量だ。
「……ねえこーちゃん。これ、少し多くない?」
「え? そう? 一人五個くらい食べると思って買ってきたんだけど」
「一度にそんな食べるのはこーちゃんだけだよ」
「そうかねえ。経費で落ちるからいいんだけどさ」
「落ちるの? そんなんで大丈夫なの、この機関? 日本の政治家口説き落として建てた民間の機関のはずだよね? ムダ金使うなって随所からひんしゅく買うんじゃないのこれ」
「大丈夫大丈夫。その辺は全部総長がやってくれるよ」
「入隊した俺が言うのもなんかあれだけど、先行きが不安だよ」
「大丈夫大丈夫。ウチのメディア対策は万全だから。テレビに大きく報道されなきゃ誰も気にしなーい」
「いや、まあその通りだけどさ。なんでだろう。こーちゃんの”大丈夫”はなんか大丈夫な気がしないよ」
「失礼ね、ナタ坊! 俺様の大丈夫ほど安心できる言葉はないじゃない」
「総長の”心配無用”ならとてつもない安心感があるんだけどねえ」
総長は、日本の調査隊をまとめているリーダーで、世界各地を走り回っている多忙な人だ。入隊式の際顔を合わせたことがあり、入隊祝いに食事をごちそうしてもらったこともあって、彼方は総長の人柄を知った。総長の下で働くなら、これほど安心できる仕事もないだろう。現地調査員という一番危険な役職についていても。
「さっ、入ったわよ、コーヒー。プリンも食べようか」
孝太は談話用のテーブルにコーヒーの入ったカップを置いた。椅子に腰かけた彼方は、カップを少し揺らす。
「ほれ、プリン」
孝太が彼方に差し出したプリンは、五個だった。彼方は盛大にため息をつく。
「あのさあ、こーちゃん。一気に五つもプリン食べたらさあ、気持ち悪くなるって」
「そう? 俺様平気なんだけど」
彼方はコーヒーをちびちびとすする。突如、吹き出しそうになってどうにかこらえた。カップをテーブルに置いて、静かに孝太を睨みつける。
「こーちゃん? これ、砂糖とミルクどれくらい入れた?」
「ん? まあかるくスプーン十杯くらい? あ、ミルクは適当」
「どこが軽くだよ甘すぎるよ! これもうコーヒーじゃない。激甘のカフェオレだよ。あー、懐かしい感じがする。小学校の給食で出たやたら甘いコーヒー牛乳思い出したっ」
「そ、そう? 俺様普段からこれくらい入れるんだけど」
「いつもそんなに甘くしてたら、いつか糖尿病になっちゃうよ」
「こないだの健康診断見たらねえ、至って健康だったわ。国民のお手本にしたいってほめられちゃった」
まあそりゃそうだろうなあ、と彼方は納得した。孝太は人並み以上に甘いものを摂取するが、それ以外は至って健康的な食生活をこころがけている、酒も煙草もとらないし、軽い運動を日ごろから行っている孝太に、不健康がつけ入る隙はなかった。
「で? また調査の仕事が来たんでしょ? 今回はどこ?」
甘すぎてもせっかく孝太が入れてくれたコーヒー(という名の激甘カフェオレ)を無理やり喉に流し込み、彼方は吐き気をぐっとこらえた。度が過ぎるとはいえ、甘いものを摂取したことで少しは頭がすっきりしてきたようだ。出されたプリンは、もう食べる気がしない。彼方に仕事の話をふられ、孝太はああ、と思い出したように声を出す。
「そうなの。詳しいことは三島さんに聞かないとわかんないんだけど、俺様が聞いたところによると、どうも前二件と違う世界らしいのよね」
「違う、ね」
孝太にすぐ聞かず、自分の頭でとりあえず考えるのは、彼方の癖だった。結論が出るのにそれほど時間はかからなかった。前の二件の世界は、どちらも十代ほどの少年少女の描いたノートによって生み出された世界だ。今回は、おそらくノートの世界じゃないのだろう。彼方の向かいに座って劇物並みに甘ったるいコーヒーを飲み干しておきながら軽々とプリンを平らげるこの少年の役目は、現地調査員を地球から監視し、安全を維持するためにいろいろと指示するオペレータである。異世界の詳細資料を握っているのは、データ管理人を任されている三島栄という女性だ。
「三島さん、俺たちに仕事ができた日は必ずと言っていいほどここに来るの一番乗りじゃなった?」
「たぶん、資料が見つからないんでしょ。それだけ未開の地ってことになるんじゃないかしら」
「前回前々回だって、もらった資料はぺらっぺらだったよ。これ以上資料を薄くされたらどーしろっての」
「いーじゃないの。その分資料を自分たちでおこせれば、また日本の活躍になるってもんよ」
「それが嫌なわけじゃないけど、こうも未開の地同然の場所ばっかりってのもね……」
「なんだいナタ坊。怖気づいたのかい?」
「まさか。ただ、こういうのが何度も続くと、物事を腹黒く考える俺としては、なーんかひっかかるわけですよ」
彼方はポットに残っていたコーヒーをマグカップに注ぎ、そのままそれを喉に流した。普段ブラックを飲む方ではないが、あんなに甘いものを口にしたら反動で苦いものをとりたくなるのは当然のことだった。
孝太がカップを台所の流しに片づけているとき、データ管理人である三島栄と埼玉調査隊指揮官である如月太一が事務所に来た。
「あら、早いのね」
「おはようございます、三島さん、如月指揮官」
彼方は堅苦しくあいさつした。三島は短いのが勿体ないくらいの艶めいた黒髪を所持していて、淡い色で統一された服装は周囲に落ち着きを与える。隣の如月は、服装こそこぎれいに整えているが、髪がくしゃくしゃしていて身なりのよさが半減してしまっている。
「指揮官はよせや、ナタ」
如月は勘弁と呼称を改めさせた。彼はリーダーシップのある男性ではあったが、だからと言って高い身分や地位を欲しているわけではなかった。埼玉調査隊を取りまとめる役目を担ったのも、世界の調査隊すべてを統べる総長や、日本支部責任者である宗像からの頼みがあってのことだった。
「指揮官は指揮官ですから」
「やめてくれ。俺はそういうのが似合わないんだよ。どうしても敬称したいなら如月お兄さんと呼べ」
「自分の年考えろって突っ込みできない年齢なので遠慮します、如月さん」
「突っ込める年齢だったらいいのかよ」
「そうね。あなた二十四だものね。まだギリギリ『お兄さん』は通用するからね」
「そういうお前だって俺とタメだろ、栄」
「女の年を突っ込むのは野暮じゃないのかしらね、太一?」
三島は如月の冗談を軽く受け流す。
「お二人、コーヒー飲みます?」
「いただきますわ、孝太君。あ、お砂糖とミルクは自分で入れるから、コーヒーを注いだらそれ以上のことはしないでちょうだいね?」
さすがだ、と彼方はひそかに感心した。穏やかでゆったりとしたこの女性は、しなやかで抜かりない性格を持ってもいる。
「あら、そうですか? じゃそうしますわ」
孝太は三島にブラックコーヒーと砂糖壺を差し出した。ちなみに、何も言わなかった如月は、劇的甘口のコーヒーを出されたのは言うまでもない。
「孝太……俺はマックスコーヒーを所望した覚えはないんですが?」
「そうでしたっけ?」
しかし、食べ物を粗末にしてはいけないという無意識の道徳により、如月は胸焼けを思い知りながら全部飲み干した。孝太に悪気はない。
のんびりと茶菓子をつまみながら談笑しているうちに、佳苗ともう一人のオペレーターである中野水鳥が到着した。
「遅れてすみません!」
元気よく事務所のドアを開けた息切れ状態の現地調査員と、その後ろにひっそりと控えていた新卒のオペレータがやってきた。よほど急いでいたのか、佳苗の髪はところどころふり乱れていて、せっかくきれいにまとまっていた片側ポニーテールが台無しだった。
「わたしも、遅れまして申し訳ありません。人身事故で電車が止まりまして。佳苗さんとは電車内で鉢合わせしました」
「いーよいーよ。電車が止まるなんて災難だったな。それに今回の仕事は急に入ったヤツだから、佳苗ちゃん、学校の用事とダブっちゃったんだろ? こっちこそ悪かった」
「いえ。大丈夫です」
「佳苗ちゃん、こっちにいらっしゃい。髪、直してあげる」
「あ、ありがとうございます、栄さん」
セーラー服のすそを翻し、佳苗は三島の手招きにてててっと呼び寄せられる。
「じゃあ、今回の仕事の詳細を話すぞ~。佳苗ちゃん、そのまま聞いててくれよ? 栄、話してくれ」
指揮官の指示に、三島は頷いた。佳苗の髪をまとめなおしながら得た情報を器用に整理する。
「今回、ナタ君と佳苗ちゃんに行ってもらうところは、日本名称『悪魔の世界』よ」
「あ、あくま?」
佳苗は思わず裏返った声で聞き返す。じっとしてて、と三島に制され、姿勢を直した。
「得られた情報があんまりに少なくてね。異世界が発見されてからここ二十年くらいで、ここに行ったことのある調査隊も旅行者も極端に少ないのよ。十年くらい前かしらね、先代の埼玉調査隊が、一人の旅行希望者と一緒に行ったきりで、それ以外の人はほとんど赴いてないらしいわ。私の持ってる資料も、先代調査隊からもらったものだし」
これね、と三島は手の空いている彼方に資料を手渡した。彼方はすぐにすばやく、しかしきっちりと目を通した。たった一枚。資料に書かれているのは、日本名称と先代調査隊の残していった情報のみ。その情報はただ一言。「悪魔だからといって、怖がる必要はない」。
「……三島さん。これ、もう資料じゃない」
「そうなのよね。私もそう思う。……はい、終わり」
三島の手によって、佳苗の片側ポニーテールは見事に整えられた。
「……ん? 三島さん、さっき、一般の旅行者も調査隊についてったって言ってましたよね」
「ええ。それがどうかしたの?」
「その人から、話を聞いてないんですか?」
彼方は資料の体をなしていない一枚のぺらぺら上質紙から目を離す。ここに書かれている情報に、旅行者からのものがないのだ。調査隊としての情報は有意義である。が、それと同じくらい、旅行者からの視点を通した情報も貴重である。それがないということに、彼方がひっかかった。
「ああ、駄目だったのよ。その人、三年前の六月に亡くなったみたいで」
「三年前?」
「そう。ずいぶんお年を召されたおじいさんだったらしいわ。気さくな人でね、同行した調査隊の人に、よくいろんなお話を聞かせていたみたいよ。当時の調査隊の人たち、みんな懐かしがっていた」
「お年寄りの人がねえ……」
「左半身が動かない状態でね、車椅子でいったんだけど、それ以外は本当に元気な人だったって」
「……左半身?」
佳苗は聞き返した。
「ええ。本来、身体が健康だっていう基準をクリアしていないと異世界調査に同行させてもらえないんだけど、当時の現地調査員が介護とかの資格を持ってたらしくて、旅行者の補助をするってことで許可が下りたのよ。もっとも、手足を患っている人でも介護者が同行すれば簡単に許可されるんだけどね。別に珍しいことじゃないわよ」
「いえ、それは分かります。でも、なんか引っかかって」
「もらった資料には、何の不自然も見当たらないけど?」
佳苗の煮え切らない態度を彼方がおさめる。
「あ、うん。違うの。ちょっとね」
「そう。じゃ、さっさと準備して。出発しなくちゃ」
彼方は佳苗に資料のコピーを手渡してすぐに別室に向かう。事務所には人が集団で生活するために必要な部屋や設備が完備されている。男女別の寝室が二部屋、そこで制服に着替える。今回の仕事は急に入ったものなので、現在の彼方は学生服のままだ。佳苗も、それは一緒である。
今回の章はナタ君視点です。