三ノ①
三、悪魔の世界 「大好きな人間」
「ナタ。今日も早退?」
公立高校昼休み、藤宮彼方は友人の樋口に訪ねられた。
「うん。午後から公欠とって調査隊の仕事」
彼方はそういって、樋口の弁当箱に入っている野菜巻きを当たり前のようにとって口に入れた。
「あ、こら。勝手に取るな」
「いいじゃん。ほら、代わりに俺のトマトあげるよ」
「味気ない交換するな」
「まあ、それはさておき、そういうことだから、授業のノートよろしく」
「あ、そっか。調査隊の仕事だっけ」
そ、と彼方は頷く。
「楽しいか?」
「うん。ウチの調査隊のメンバーってみんな十代から二十代で若いからかな。こっちの意見を理解してくれるし、最近の若者はって嘆くこともないし。仕事自体悪くないからね」
樋口は諦めて素直に彼方のトマトをつまんだ。
「調査隊、か。学校と両立なんてよく許されたよな、学校からも調査隊からも」
「一個抜けてる」
「どれ?」
「家族。これが一番話つけるの大変だったんだよ」
樋口は、ああ、と納得した。
「そっか。ナタの家、ちょっと厳しいんだっけ」
彼方は頷き、かじったおにぎりを飲み込んだ。彼方の家は非常に厳格な家系で、両親は彼方が調査隊の仕事に就くことにいい顔をしなかった。家族内では姉が味方してくれて、何かと便宜を図ってくれたが、それでも子供二人では説得に限界があった。そこで、お向かいさんである桜井家の人にも助けてもらって、高校との両立を認めてくれた。姉の助け舟ももちろんだったが、桜井家の助力は本当に強かった。あの家には、調査隊として働いている孝太がいるし、彼方同様に高校と両立して調査隊に所属することとなっていた佳苗がいる。調査隊に関係している二人がいるおかげで、両親の行き過ぎた心配をねじ伏せることができた。桜井家の兄妹と彼方の姉はなるべく穏便な話し合いにしようとした。それを彼方がことごとく台無しにし、あと一歩で勘当に追い込まれるところだった。そうされかけた本人は、反省も後悔もしていない。
「まーね」
「そういえばさ、同じ年の女の子とペア組んでるんだっけ」
樋口は言う。彼方は昼休みの話題に、調査隊の話、特に仕事の相棒でもあり幼なじみでもある佳苗の話をよく樋口にしていた。
「そう。うちの近所の子でね。中学校までずっと一緒。高校は違ってるけど」
「一緒の高校ならよかったのになあ。ぜひともお近づきになりたかった」
「無理。うちは共学だけど、あっちは女子高だから。公立の」
「へえ。校門の向こうは素敵な楽園なのかな。純真無垢な少女達の神聖なる学び舎って感じの」
「ぐっちゃん。現実を見な」
「夢くらい見てもいいだろ」
彼方は樋口のささやかな夢を容赦なく叩き壊す。いまだうだうだと夢を垂れている友人を尻目に、彼方はさっさと弁当箱を片付けた。そして、うなだれている目の前の樋口に水を差す。
「もうすぐ予鈴鳴るよ。早く食べ終わらないと、授業に間に合わないよ」
「午後の授業休みのナタのほうが早く食べ終わるってどういうことなのよ……」
「普通だよ。ぐっちゃんがおっそいだけ。ごちそうさま」
彼方は弁当箱をカバンの中に突っ込み、席を戻して立ち上がる。
「じゃ、俺はもう行くよ。俺のためにがんばって授業に臨んでね、ぐっちゃん」
そういい残してさっさと教室を出る。目の端に、いまだうなだれている友人がひらひらと手を振っているのが、分かった。
ナタという呼び名は、幼なじみの佳苗がつけた。
小学校時代、クラスメートだった二人は、保育所のころからの古い付き合いのため、男女の枠を超えて仲がよかった。人懐っこく社交的な佳苗は、愛称をもらうほどに誰とでも仲よくなった。その愛称というのが「カナちゃん」。彼方もまた、人を寄せ付けない性格でもつき合いを持ってくれる友達を見つけた。彼方も名前に「かな」がついていたため、彼方の愛称も佳苗とかぶることになってしまった。彼方は名前をそのまま呼んでもいいといったのだが、友達はそれでは納得いかないらしく、幼いながらもいい案を考えていた。そんな時、佳苗が言ったのだ。
「じゃあ、彼方君は、ナタ君!」
名前の前の二文字ではなく、最後二文字を取った、実に安易なネーミングだった。が、彼方はそれをいたく気に入り、中学高校と、友人にはずっと佳苗命名の呼び名「ナタ」を呼ばせていた。名づけた本人は、ずっと彼方君呼びだ。友人からも調査隊の仲間からも、ナタと呼ばれているが、「彼方君」と呼ぶのは佳苗だけだった。名付け親が「ナタ」と呼ばないのはいささかさびしい気もするが、まあいいかと割り切った。もともと呼び名にそれほど頓着しない性格なので、本名からかけ離れたあだ名は別にして、いまさら呼び名でうだうだすることもなかった。
この名をつけた佳苗には、感謝している。彼女は気づいていないが、人づきあいがぎすぎすする彼方にとって、呼び名を与えられたことは良好な人間関係を築くきっかけになった。小さい頃からひねくれていた自分をいつでも助けてくれた彼女に、人並み以上の信頼を持っている。
だからなのか、できる限り彼方は佳苗を守ることが普通になっていた。調査隊として働くことを決めたのは、その仕事をやりたいからなのももちろんだったが、佳苗が深く起因していたのも否めない。昔から好奇心旺盛で、なんにでも手を伸ばす性格の佳苗には、だれか一人ストッパー役が必要だということを近くで見ていた彼方が一番よく知っていた。彼女一人だけを現地に赴かせて調査をさせたら、絶対にどこかから厄介ごとを持ってきてしまう。あの子がそういうことに巻き込まれないよう、自分ができるだけそばについてやれれば少なくとも彼方は安心した。……過度な保護者心だとは分かっていても。現地調査員を志望したのも、そういう理由からだ。
現地調査員というのは、未開の地に赴くのが主な仕事だ。誰も行ったことのない、まったく事前知識を持たないままそこへいかなければならない。それは明らかに、調査隊の役職では一番危険なものだった。裏で誰かを支えたりブレーキ役になるのが一番の彼方が、あえて現地調査員になったのは、もう一人の幼馴染であり佳苗の兄でもある孝太を驚かせた。
(あの子には、俺がついててやらなくちゃ。……まあ、過ぎた庇護欲なのはわかってるけど)
三章突入!