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婚約者の浮気相手に「彼を譲って」と言われたので、快く譲ってあげました

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/10/20


 恋人に贈る花を選ぶのは、思いのほか難しい。

 私は店前で花を見ながら悩んでいた。


 赤い薔薇は情熱的すぎるし、白い百合は少々重たい。かといって、黄色いチューリップでは意味を知っている相手に誤解されるかもしれない。

 そんなことを考えていると、店主に話しかけられる。


「お客様、贈り物ですか?」

「ええ。婚約者の誕生日が近いものですから」

「まあ、素敵ですね」


 店主が微笑む。

 私も微笑み返した。


 婚約者の誕生日を祝うのは、これで三度目だ。

 一年目は手袋を贈った。二年目は万年筆を贈った。そして三年目の今年は、花にしようと思ったのだ。

 品物を選ぶのが面倒になったわけではない。

 決して。


「……あら?」


 店先を離れようとしたとき、通りの向こうから見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。


 私の婚約者、伯爵令息のヴィクトル。

 そして、彼の腕にしがみつく見知らぬ女性。

 二人は実に楽しそうだった。

 ヴィクトルが女性の耳元で何か囁くと、彼女は頬を染めて彼の肩を叩いた。


 私は咄嗟に花屋の陰に隠れた。

 婚約者が浮気をしている現場に遭遇したとき、どのような顔をすればよいのか分からなかったのだ。

 しばらくして、二人は通りの角を曲がっていった。

 私は手に持った花を見下ろした。


「……返品できるかしら」


 花屋の店主が、何とも言えない顔をしていた。


 ……。

 花の話である。

 もちろん、花の話だ。









 ◇


 翌日。

 私は王都の菓子店で、紅茶を飲んでいた。


 昨日のことを父に話したところ、「婚約者同士で話し合いなさい」と言われた。

 母には「相手の女性を調べてみたら?」と言われた。


 どちらも正しい。

 けれど、私は少し違うことを考えていた。


 ヴィクトルとは、三年間の婚約期間を過ごしてきた。

 優しいところもあったし、楽しい思い出もある。

 ただ、最近は私との約束を忘れることが増えていた。

 誕生日の贈り物を渡しても、礼を言うだけでろくに見もしない。

 私が観劇に誘っても、忙しいと断る。


 その一方で、昨日の彼は随分と楽しそうだった。

 私といる時よりずっと。


 まあ、いい。

 人の心は変わるものだ。


 問題は、変わった心を持ったまま、何食わぬ顔で私と結婚しようとしていることだった。


 あの様子を見ると、最近仲良くなった、というわけではないだろう。

 なのに、私に何も言ってこない。

 それどころか、結婚の話をどんどん進めていた。

 だからこそ、私も離れられなくなっていたのだが。

 もう愛なんて一欠片もないのに。


 そんな時。


「失礼いたしますわ」


 突然、目の前に女性が座った。

 昨日、ヴィクトルと歩いていた女性だ。

 彼女は私を上から下まで眺めると、にこりと笑った。


「わたくし、リリアと申します。ヴィクトル様のことで、お話があるのです」

「……そうですか」

「単刀直入に申し上げますわね。ヴィクトル様を、わたくしに譲っていただけません?」


 思わず紅茶を吹きそうになった。

 危ない。

 こんな所で吹き出すわけにはいかない。


「……譲る?」

「ええ。ヴィクトル様は、わたくしを愛していらっしゃいます。わたくしも彼を愛しています。ですから、あなたが身を引いてくだされば、みんな幸せになれると思うのです」


 リリアは、まるで慈善活動でも提案するように言った。

 私はカップを置いた。


「……それは、ヴィクトル様ご本人もおっしゃっているのですか?」

「もちろんですわ!」

「では、なぜお一人で?」

「それは……あなたが婚約者だからまずは私が、と」

「……なるほど」


 私は頷いた。


「では、ヴィクトル様にお伝えください」

「何をですの?」

「婚約破棄承知いたしました。ようやく負債を返品できて嬉しいです、と」


 リリアの笑顔が固まった。


「……返品?」

「ええ。私も、あの方をずっと大切にしてきましたの。でも、最近は不良品だったのではないかと思い始めまして」

「なっ……!」

「約束は忘れる。人の話は聞かない。贈り物には無関心。そのうえ、婚約者のいる身で別の女性と逢瀬を重ねる。購入――婚約時には、そんな説明はありませんでしたわ」

「あなた、ヴィクトル様を物扱いするの!?」

「そちらが譲れとおっしゃったので、品物――景品のように扱うのがお好きなのかと」


 リリアは顔を真っ赤にした。

 私は優雅に紅茶を飲んだ。


「返品先は、ヴィクトル様のご実家でよろしいでしょうか。それとも、あなたのお宅に直接お届けいたしましょうか?」

「失礼な女ね!」

「まあ。婚約者のいる男性を奪いに来た方に、礼儀を説かれるとは思いませんでしたわ」


 リリアは勢いよく立ち上がった。


「後悔しますわよ!」

「しないと思いますが、覚えておきますわ」


 彼女は足音も荒く店を出ていった。

 私は冷めかけた紅茶を飲み干した。


 さて。

 これで話が済めばよかったのだけれど。







 ◇


 その日の夕方、ヴィクトルが我が家を訪ねてきた。


「セシリア! 君はリリアに何を言ったんだ!」


 開口一番、それだった。

 私は読んでいた本を閉じた。


 今まで隠してきていたのだから、もう少し時間が経ってから来ると思ったのだけれど。

 随分とご立腹のようだ。

 当然でしょうけど。


「ごきげんよう、ヴィクトル様。お話でしたら、座ってどうぞ」

「ふざけるな! 彼女が泣いていたんだぞ!」

「それはお気の毒に」

「君が謝れ!」

「お断りします」


 ヴィクトルは絶句した。

 どうやら、私が素直に謝ると思っていたらしい。

 もうあなたの言いなりになると思ったら大間違いだ。


「君は私の婚約者だろう!」

「ええ。ですから、お尋ねしたいことがあります」


 私は彼の目を見た。


「リリア様とお付き合いされているのですか?」

「そ、それは……」

「はいか、いいえで結構です」

「……愛しているのは君だ!」


 質問の答えになっていない。

 私はため息をついた。


「ヴィクトル様。私との婚約を続けたいのですか?」

「当然だ! 君は伯爵夫人になるのだからな!」


 ああ。

 そういうことか。

 彼は私を愛しているのではない。

 私と結婚する未来を、手放したくないだけなのだ。

 婚約破棄するとなると家同士の問題にもなるし、能力的にも私は手放したくないのだろう。

 ……自分で言うのもなんだけど。

  そして、リリアとの恋も手放したくない。


 欲張りな人。


「――もういいですわ。婚約を解消いたしましょう」

「なっ……!」

「あなたはリリア様を愛しているのでしょう? でしたら、どうぞそちらへ。

 リリア様もそれをお望みのようでしたし」

「君は後悔するぞ! 私ほどの相手は、そうそう見つからない!」

「ええ。そうかもしれませんね」


 私は微笑んだ。


「ですから、どうかリリア様を大切になさってください。返品や交換を繰り返すのは、あまり感心いたしませんもの」


 ヴィクトルは怒鳴り声を上げたが、父が現れると急に口をつぐんだ。

 父は彼の大声を聞いて降りてきたようだ。


 父は淡々と告げた。


「娘が嫌だと言っている。帰りなさい」


 ヴィクトルは最後まで私を睨んでいたが、結局、何もできずに帰っていった。

 その背中を見送りながら、私はようやく肩の力を抜いた。








 ◇


 それから半年後。

 私は街の小さな花屋で働く青年と、少しずつ親しくなっていた。


 彼は私の話をよく聞いてくれる。

 花の名前を教えてくれるし、私が選ぶのに迷っていると、急かさずに待ってくれる。

 そして何より、私が贈った花を、ちゃんと見て喜んでくれる。


「セシリアさん。今度、一緒に食事でもいかがですか?」

「ええ、喜んで」


 私は笑った。

 恋というものは、案外、こんなところから始まるのかもしれない。


 その帰り道、偶然、ヴィクトルとすれ違った。

 彼は私を見て、何か言いたそうに口を開いた。

 けれど、隣にいたリリアが彼の腕を引いた。


「ヴィクトル様、早く行きましょう」


 彼は振り返らずに歩いていった。

 どうやら、返品先でもいろいろと問題があるらしい。


 私は少しだけ同情した。

 ほんの少しだけ。


 そして、隣を歩く青年に尋ねた。


「ところで、花束を贈るなら、どの花がおすすめですか?」

「贈る相手によりますね」

「では、大切な人に贈るなら?」


 青年は少し考え、優しく微笑んだ。


「相手が好きな花が一番ですよ」


 私は目を瞬かせた。


 そうか。

 花を選ぶというのは、相手のことを考えることなのだ。

 自分が褒められたいからでも、見栄を張りたいからでもない。

 ただ、相手に喜んでほしいから。


「……素敵な考え方ですね」

「そうですか?」

「ええ。とても」


 私は彼と並んで歩き出した。


 もう、誰かを返品する必要はない。

 最初から、お互いを大切にできる人を選べばいいのだから。


 ちなみに後日、元婚約者のヴィクトルから復縁の申し込みが届いた。

 私は丁寧に返事を書いた。


『返品済みの商品につき、再購入はいたしかねます』


 もちろん、送料は着払いにしておいた。

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