婚約者の浮気相手に「彼を譲って」と言われたので、快く譲ってあげました
恋人に贈る花を選ぶのは、思いのほか難しい。
私は店前で花を見ながら悩んでいた。
赤い薔薇は情熱的すぎるし、白い百合は少々重たい。かといって、黄色いチューリップでは意味を知っている相手に誤解されるかもしれない。
そんなことを考えていると、店主に話しかけられる。
「お客様、贈り物ですか?」
「ええ。婚約者の誕生日が近いものですから」
「まあ、素敵ですね」
店主が微笑む。
私も微笑み返した。
婚約者の誕生日を祝うのは、これで三度目だ。
一年目は手袋を贈った。二年目は万年筆を贈った。そして三年目の今年は、花にしようと思ったのだ。
品物を選ぶのが面倒になったわけではない。
決して。
「……あら?」
店先を離れようとしたとき、通りの向こうから見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。
私の婚約者、伯爵令息のヴィクトル。
そして、彼の腕にしがみつく見知らぬ女性。
二人は実に楽しそうだった。
ヴィクトルが女性の耳元で何か囁くと、彼女は頬を染めて彼の肩を叩いた。
私は咄嗟に花屋の陰に隠れた。
婚約者が浮気をしている現場に遭遇したとき、どのような顔をすればよいのか分からなかったのだ。
しばらくして、二人は通りの角を曲がっていった。
私は手に持った花を見下ろした。
「……返品できるかしら」
花屋の店主が、何とも言えない顔をしていた。
……。
花の話である。
もちろん、花の話だ。
◇
翌日。
私は王都の菓子店で、紅茶を飲んでいた。
昨日のことを父に話したところ、「婚約者同士で話し合いなさい」と言われた。
母には「相手の女性を調べてみたら?」と言われた。
どちらも正しい。
けれど、私は少し違うことを考えていた。
ヴィクトルとは、三年間の婚約期間を過ごしてきた。
優しいところもあったし、楽しい思い出もある。
ただ、最近は私との約束を忘れることが増えていた。
誕生日の贈り物を渡しても、礼を言うだけでろくに見もしない。
私が観劇に誘っても、忙しいと断る。
その一方で、昨日の彼は随分と楽しそうだった。
私といる時よりずっと。
まあ、いい。
人の心は変わるものだ。
問題は、変わった心を持ったまま、何食わぬ顔で私と結婚しようとしていることだった。
あの様子を見ると、最近仲良くなった、というわけではないだろう。
なのに、私に何も言ってこない。
それどころか、結婚の話をどんどん進めていた。
だからこそ、私も離れられなくなっていたのだが。
もう愛なんて一欠片もないのに。
そんな時。
「失礼いたしますわ」
突然、目の前に女性が座った。
昨日、ヴィクトルと歩いていた女性だ。
彼女は私を上から下まで眺めると、にこりと笑った。
「わたくし、リリアと申します。ヴィクトル様のことで、お話があるのです」
「……そうですか」
「単刀直入に申し上げますわね。ヴィクトル様を、わたくしに譲っていただけません?」
思わず紅茶を吹きそうになった。
危ない。
こんな所で吹き出すわけにはいかない。
「……譲る?」
「ええ。ヴィクトル様は、わたくしを愛していらっしゃいます。わたくしも彼を愛しています。ですから、あなたが身を引いてくだされば、みんな幸せになれると思うのです」
リリアは、まるで慈善活動でも提案するように言った。
私はカップを置いた。
「……それは、ヴィクトル様ご本人もおっしゃっているのですか?」
「もちろんですわ!」
「では、なぜお一人で?」
「それは……あなたが婚約者だからまずは私が、と」
「……なるほど」
私は頷いた。
「では、ヴィクトル様にお伝えください」
「何をですの?」
「婚約破棄承知いたしました。ようやく負債を返品できて嬉しいです、と」
リリアの笑顔が固まった。
「……返品?」
「ええ。私も、あの方をずっと大切にしてきましたの。でも、最近は不良品だったのではないかと思い始めまして」
「なっ……!」
「約束は忘れる。人の話は聞かない。贈り物には無関心。そのうえ、婚約者のいる身で別の女性と逢瀬を重ねる。購入――婚約時には、そんな説明はありませんでしたわ」
「あなた、ヴィクトル様を物扱いするの!?」
「そちらが譲れとおっしゃったので、品物――景品のように扱うのがお好きなのかと」
リリアは顔を真っ赤にした。
私は優雅に紅茶を飲んだ。
「返品先は、ヴィクトル様のご実家でよろしいでしょうか。それとも、あなたのお宅に直接お届けいたしましょうか?」
「失礼な女ね!」
「まあ。婚約者のいる男性を奪いに来た方に、礼儀を説かれるとは思いませんでしたわ」
リリアは勢いよく立ち上がった。
「後悔しますわよ!」
「しないと思いますが、覚えておきますわ」
彼女は足音も荒く店を出ていった。
私は冷めかけた紅茶を飲み干した。
さて。
これで話が済めばよかったのだけれど。
◇
その日の夕方、ヴィクトルが我が家を訪ねてきた。
「セシリア! 君はリリアに何を言ったんだ!」
開口一番、それだった。
私は読んでいた本を閉じた。
今まで隠してきていたのだから、もう少し時間が経ってから来ると思ったのだけれど。
随分とご立腹のようだ。
当然でしょうけど。
「ごきげんよう、ヴィクトル様。お話でしたら、座ってどうぞ」
「ふざけるな! 彼女が泣いていたんだぞ!」
「それはお気の毒に」
「君が謝れ!」
「お断りします」
ヴィクトルは絶句した。
どうやら、私が素直に謝ると思っていたらしい。
もうあなたの言いなりになると思ったら大間違いだ。
「君は私の婚約者だろう!」
「ええ。ですから、お尋ねしたいことがあります」
私は彼の目を見た。
「リリア様とお付き合いされているのですか?」
「そ、それは……」
「はいか、いいえで結構です」
「……愛しているのは君だ!」
質問の答えになっていない。
私はため息をついた。
「ヴィクトル様。私との婚約を続けたいのですか?」
「当然だ! 君は伯爵夫人になるのだからな!」
ああ。
そういうことか。
彼は私を愛しているのではない。
私と結婚する未来を、手放したくないだけなのだ。
婚約破棄するとなると家同士の問題にもなるし、能力的にも私は手放したくないのだろう。
……自分で言うのもなんだけど。
そして、リリアとの恋も手放したくない。
欲張りな人。
「――もういいですわ。婚約を解消いたしましょう」
「なっ……!」
「あなたはリリア様を愛しているのでしょう? でしたら、どうぞそちらへ。
リリア様もそれをお望みのようでしたし」
「君は後悔するぞ! 私ほどの相手は、そうそう見つからない!」
「ええ。そうかもしれませんね」
私は微笑んだ。
「ですから、どうかリリア様を大切になさってください。返品や交換を繰り返すのは、あまり感心いたしませんもの」
ヴィクトルは怒鳴り声を上げたが、父が現れると急に口をつぐんだ。
父は彼の大声を聞いて降りてきたようだ。
父は淡々と告げた。
「娘が嫌だと言っている。帰りなさい」
ヴィクトルは最後まで私を睨んでいたが、結局、何もできずに帰っていった。
その背中を見送りながら、私はようやく肩の力を抜いた。
◇
それから半年後。
私は街の小さな花屋で働く青年と、少しずつ親しくなっていた。
彼は私の話をよく聞いてくれる。
花の名前を教えてくれるし、私が選ぶのに迷っていると、急かさずに待ってくれる。
そして何より、私が贈った花を、ちゃんと見て喜んでくれる。
「セシリアさん。今度、一緒に食事でもいかがですか?」
「ええ、喜んで」
私は笑った。
恋というものは、案外、こんなところから始まるのかもしれない。
その帰り道、偶然、ヴィクトルとすれ違った。
彼は私を見て、何か言いたそうに口を開いた。
けれど、隣にいたリリアが彼の腕を引いた。
「ヴィクトル様、早く行きましょう」
彼は振り返らずに歩いていった。
どうやら、返品先でもいろいろと問題があるらしい。
私は少しだけ同情した。
ほんの少しだけ。
そして、隣を歩く青年に尋ねた。
「ところで、花束を贈るなら、どの花がおすすめですか?」
「贈る相手によりますね」
「では、大切な人に贈るなら?」
青年は少し考え、優しく微笑んだ。
「相手が好きな花が一番ですよ」
私は目を瞬かせた。
そうか。
花を選ぶというのは、相手のことを考えることなのだ。
自分が褒められたいからでも、見栄を張りたいからでもない。
ただ、相手に喜んでほしいから。
「……素敵な考え方ですね」
「そうですか?」
「ええ。とても」
私は彼と並んで歩き出した。
もう、誰かを返品する必要はない。
最初から、お互いを大切にできる人を選べばいいのだから。
ちなみに後日、元婚約者のヴィクトルから復縁の申し込みが届いた。
私は丁寧に返事を書いた。
『返品済みの商品につき、再購入はいたしかねます』
もちろん、送料は着払いにしておいた。




