リナの仮面は夜にほどける
駅前の再開発区域は、夜になると街の裏側みたいな顔をする。
昼間は工事車両の音と作業員の声でざわついているのに、日が落ちると、仮囲いの白い壁ばかりが妙に明るく見える。まだ開業していない商業ビルのガラスには、通行人の姿が薄く映り、遠くの駅ビルだけが、眠らない都市のふりをして光っていた。
桐谷蓮は、そのガラスに映る自分を確認した。
長い栗色の髪。柔らかく整えた目元。落ち着いた色のワンピース。細く見える腰の線。胸元には自然な丸みを作るパッド。胴にはシルエットを整えるための補正具を着けている。
鏡の中の人物は、蓮ではなかった。
「リナ」だった。
完璧に作った、年上の女。
声も作れる。仕草も作れる。歩き方も、笑い方も、視線の外し方も、何度も練習した。蓮は女装そのものを遊びとは思っていなかった。自分の武器だと思っていた。
相手の警戒をゆるめるための武器。
油断させ、近づかせ、面倒な状況に巻き込まれたと思わせるための武器。
そして最後に、金を出させるための武器。
蓮は、それが悪いことだと分かっていた。分かっていながら、やめなかった。
金が必要だった、という理由はある。だが、それだけではない。相手が自分の作った姿を信じ、言葉に引っかかり、勝手に動揺していくのを見ると、蓮は自分が少しだけ世界に勝っているような気がした。
その感覚が、やめられなかった。
今夜の相手は、駅から少し離れた歩道を一人で歩いていた男だった。
黒いコート。革靴。手には紙袋。年は三十前後。顔立ちは地味だが、姿勢が崩れていない。歩きながらスマートフォンを確認しているが、画面に集中しすぎてはいない。
蓮は一瞬だけ迷った。
少し手ごわそうだ。
だが、手ごわい相手ほど、崩したときに大きく払うことがある。
蓮は息を整え、リナの声を作った。
「すみません」
男が足を止めた。
「はい」
「このあたり、タクシー乗り場ってどこか分かりますか?」
男は駅の方向を見た。
「この道を戻って、横断歩道を渡った先です。駅の北側にあります」
「ありがとうございます。私、方向音痴で」
「駅の明かりが見えるので、そこへ向かえば大丈夫です」
男はそれだけ言って、歩き出そうとした。
蓮は逃がさなかった。
「あの……すみません。少しだけ、一緒に歩いてもらえませんか」
男の動きが止まる。
「どうしました」
「さっきから、誰かにつけられている気がして」
男は蓮の後ろを見た。
人影はない。駅前から流れてくる人の気配はあるが、この歩道はほとんど空いている。遠くで自転車が一台通りすぎただけだった。
「それなら、交番へ行きましょう」
蓮は内心で舌打ちした。
普通なら、「大丈夫ですか」と聞く。少し不安そうな顔をする。相手を守る自分に酔う。
だが、この男は最初から具体的だった。
「交番までは……大げさにしたくなくて」
「つけられているなら、大げさではありません」
「でも、怖くて」
「では、人通りの多い道を通りましょう」
男は淡々としていた。
「僕は真壁といいます。駅の北側までなら一緒に行きます」
「あ……ありがとうございます。リナです」
「分かりました」
名前に反応しない。
顔も見すぎない。
蓮は、少しだけやりにくさを覚えた。
二人は駅へ向かって歩き出した。
蓮は真壁の半歩後ろを歩いた。ヒールの音が、夜の歩道に軽く響く。仮囲いの白い壁が続き、ところどころに貼られた工事予定の紙が、夜風に小さく揺れていた。
「お仕事帰りですか?」
蓮が聞いた。
「ええ」
「遅いんですね」
「今日は少し」
「大変そう」
「そちらも?」
「私は、友達と会っていて」
言いながら、蓮は相手の反応を探った。
真壁は質問してこない。余計な興味を示さない。だが、無関心でもない。歩く位置、街灯、防犯カメラ、周囲の出入口。そういうものを確認している。
警戒されている。
蓮は作戦を変えた。
「あ、すみません」
わざと足をもつれさせる。
相手の腕に軽く触れ、そこから話を作るつもりだった。けれど真壁は自然に一歩横へずれた。蓮の手は空を切り、体勢だけが少し崩れた。
「大丈夫ですか」
真壁は手を出さずに言った。
「大丈夫です。すみません、ヒールに慣れてなくて」
「無理に急がなくていいです」
親切ではある。
だが、距離を詰めない。
蓮は笑った。
「真壁さんって、慎重なんですね」
「そうかもしれません」
「女の人に頼られても、あまり嬉しくないタイプですか?」
「嬉しいかどうかで判断する話ではないので」
蓮は返す言葉を失いかけた。
真壁は厄介だった。
善人ぶらない。かといって冷たくもない。相手に気を持たせない。だが、助けないわけでもない。
蓮が狙う「隙」がない。
駅前の明かりが近づいてくる。このまま行けば、人の多い場所に出てしまう。蓮は立ち止まった。
「やっぱり、あっちから行けませんか」
蓮は仮囲いの脇にある細い道を指した。
工事区域の裏へ続く道だ。暗いが、抜け道はある。蓮は事前に確認していた。
真壁はその道を見た。
「あちらは遠回りです」
「でも、駅前に出るのが怖くて」
「つけてくる人がいるなら、明るい場所へ行く方が安全です」
「真壁さん、私のこと疑ってます?」
「確認しているだけです」
「ひどいです」
「ひどいと思うなら、ここで別れましょう。駅はすぐそこです」
蓮は黙った。
ここで泣きそうな顔をする。声を震わせる。被害者の顔になる。それで相手が慌てれば、流れは戻せる。
蓮は目を伏せた。
「私、本当に怖いだけなのに」
「それなら、なおさら交番へ行くべきです」
「もういいです」
蓮は少し声を硬くした。
「真壁さんみたいな人に頼んだ私が悪かったです」
「そうですか」
真壁はそれ以上追わなかった。
蓮は、腹の奥が冷たくなるのを感じた。
このままでは失敗する。
失敗だけならいい。だが、顔を見られ、声を聞かれ、場所も知られた。蓮の中で、焦りがふくらんだ。
ならば、先に仕掛けるしかない。
蓮はバッグから封筒を取り出した。中には、相手を動揺させるために用意した紙が入っている。詳しいことを書く必要はない。ただ、面倒な状況を連想させるだけでいい。
「真壁さん」
蓮は声を低くしないよう気をつけた。
「これ以上、私を怒らせない方がいいですよ」
真壁が振り返る。
「どういう意味ですか」
「私が何をされたって言うかは、私が決められるんです」
真壁は表情を変えなかった。
「金銭を要求するつもりですか」
あまりに早い返答だった。
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
「……何を言ってるんですか」
「駅周辺で、似た相談が複数ありました。声をかけ、人気の少ない場所へ誘導し、相手を困らせて金を要求する」
「言いがかりです」
「今の会話は記録しています」
真壁はスマートフォンの画面を見せた。
録音中だった。
蓮の背筋に、冷たいものが走った。
「最低ですね。盗み聞きみたいなことして」
「自分が関わる会話を、状況確認のために記録しています。判断は専門家に任せます」
「ふざけるな」
声が崩れた。
女声の膜が破れ、低い地声が少し混ざる。
真壁の目が、そこで初めて蓮を正面から見た。
「声を作っていましたね」
蓮は喉を押さえた。
「何の話ですか」
「無理に続けなくていいです」
「うるさい」
完全に地声だった。
夜の歩道に、リナではない声が落ちる。
真壁は驚かなかった。
蓮は反射的に逃げ出した。
細い道へ走る。ヒールが不規則に鳴る。補正具で整えた身体は、走るには窮屈だった。息が浅くなる。長いウィッグが視界の端で揺れ、胸元のパッドがずれて、服の下で違和感を作る。
後ろから真壁の足音が追ってくる。
だが、乱暴な追跡ではなかった。一定の距離を保ち、逃げ道をふさぐように動いている。
蓮は角を曲がった。
そこで、足が止まった。
警備員が二人、通路の先に立っていた。
「止まってください」
蓮は振り返った。
真壁が追いついていた。
「最初から仕組んでたのか」
「あなたが脇道へ誘導しようとした時点で、警備員に連絡しました」
「罠じゃねえか」
「あなたが仕掛けようとしたことに対する対策です」
蓮は後ずさった。
その足元に、小さな段差があった。
ヒールが引っかかり、身体が傾く。倒れはしなかった。だが、頭が大きく揺れた拍子に、ウィッグの固定が外れた。
栗色の髪が片側へずれる。
蓮は慌てて押さえた。
だが、もう遅かった。
短い黒髪が、額のあたりから見えていた。
真壁も警備員も、笑わなかった。
それが、蓮には余計に苦しかった。
「見るな」
蓮は低く言った。
「見るなよ」
真壁は視線を少し外した。
「逃げなければ、必要以上に見ません」
「ふざけんな」
蓮はバッグを握りしめた。その拍子に、ファスナーが開いた。中からメイクポーチ、封筒、予備のパッドが床に落ちた。
白い舗装の上に、作り物の部品が散らばる。
蓮は動けなかった。
完璧だったはずのリナが、道具に分解されていく。
ウィッグ。メイク。補正具。パッド。声。
それらは蓮が時間をかけて組み上げた鎧だった。その鎧が、他人の前でただの物として転がっている。
蓮は自分でウィッグを外した。
もう隠しても意味がない。
夜風が短い髪に触れる。汗で前髪が額に貼りついていた。メイクは崩れ、片方の目元には黒い線がにじんでいる。リップも端だけ残っていた。
リナの顔は、半分だけ残っていた。
半分だけ残っているから、余計にみじめだった。
「桐谷蓮さんですね」
真壁が言った。
蓮は目を見開いた。
「なんで名前を知ってる」
「以前の相談記録に出ていました。確定ではありませんでしたが、今日の件で確認が必要になりました」
「俺が男だからか」
「違います」
真壁は即答した。
「あなたが人をだまして金を取ろうとしたからです」
蓮は言い返せなかった。
その答えは単純すぎた。
女装だからではない。
男だからではない。
騙そうとしたから。
逃げ場のない答えだった。
「説教かよ」
「事実確認です」
「むかつくな」
「そうでしょうね」
警備員の一人が、警察に連絡している。もう逃げられない。
蓮は壁にもたれた。息が苦しい。胴の補正具が締めつけている。蓮は自分で留め具を少し緩めた。体型を作るための道具が、今はただ重かった。
真壁は視線をそらしたまま言った。
「必要なら、身なりを整える時間はあります。ただし、逃げないでください」
「気を遣ってるつもりか」
「見世物にする必要はありません」
「さっきまで追い詰めてたくせに」
「犯罪の疑いを止めることと、外見を笑うことは別です」
蓮は黙った。
怒鳴り返したかった。だが、怒鳴る理由が見つからなかった。
女装を笑われたなら、怒れた。
気持ち悪いと言われたなら、罵れた。
でも真壁は、そこを攻撃しない。
蓮が悪かった部分だけを、まっすぐ指してくる。
それが一番きつかった。
蓮はメイクポーチを拾い、鏡を開いた。
ひどい顔だった。
ファンデーションは汗でまだらになり、アイラインは崩れ、リップは中途半端に残っている。リナでも蓮でもない顔。作りかけで、壊れかけの顔。
蓮はティッシュを取り出し、自分で頬を拭いた。
黒い筋が落ちる。
赤い色が薄れる。
リナが消えていく。
桐谷蓮が戻ってくる。
だが、それは解放ではなかった。
負けて、引きずり戻されただけだった。
「なあ」
蓮は鏡を見たまま言った。
「最初から、俺が男だって分かってたのか」
「いいえ」
「じゃあ、いつ分かった」
「声が崩れたときです」
「それまでは?」
「よくできていると思いました」
蓮は手を止めた。
「褒めてんのか」
「事実です」
「本当にむかつく」
「それも、よく言われます」
蓮は少しだけ笑った。
乾いた笑いだった。
「俺、女装は完璧だったんだよ」
「外見は」
「外見だけかよ」
「行動が不自然でした」
蓮は真壁を見た。
「どこが」
「困っている人の動きではなく、場所を選んでいる人の動きでした」
「……そこか」
「そこです」
「次は気をつける」
「次はない方がいい」
「冗談だよ」
蓮は鏡を閉じた。
遠くから警察車両のライトが近づいてきた。サイレンは鳴っていない。静かに、確実に、終わりが近づいてくる。
蓮は床に置いたウィッグを拾った。
栗色の髪は、まだきれいだった。手入れには時間をかけていた。毛流れも自然に整えていたし、近くで見られても違和感が出にくいように選んだものだった。
これをつければ、またリナになれる。
少なくとも、鏡の前では。
だが、今夜はもう無理だった。
蓮はウィッグを雑に丸めず、崩れないように畳んだ。
「真壁」
「はい」
「女装って、悪いことじゃないよな」
「悪いことではありません」
「男がやっても?」
「関係ありません」
「じゃあ、俺の何が悪かった」
真壁は少しも迷わなかった。
「他人をだまして、金を取ろうとしたことです」
蓮は目を伏せた。
単純な答えだった。
けれど、単純だからこそ、逃げられなかった。
警察官が到着し、真壁と警備員が状況を説明した。録音のこと、防犯カメラのこと、蓮が封筒を出して金を要求しようとしたこと。蓮は黙って聞いていた。
言い訳なら、いくらでも思いついた。
冗談だった。
誤解だった。
怖くて混乱していただけだった。
けれど、どれも口にできなかった。
真壁に見破られたからではない。
自分で、自分の嘘に飽きてしまったからだ。
警察官に促され、蓮は歩き出した。
ヒールのかかとが少し欠けている。歩くたびに、音が不規則に跳ねた。作った優雅さはもうない。ウィッグは手の中。メイクは半分落ち、補正具は緩めたままだ。
リナはもういなかった。
いるのは、桐谷蓮だけだった。
車に乗る前、蓮は振り返った。
「なあ、真壁」
「何ですか」
「俺、そんなに下手だったか」
「女装は上手でした」
「じゃあ何が下手だった」
「人を見ることです」
蓮は黙った。
「相手が何を恐れるかは見ていた。でも、相手が何を守ろうとしているかは見ていなかった」
「説教じゃないのか、それ」
「事実確認です」
「最後までそれかよ」
蓮は苦笑した。
警察官に促され、車に乗る。
ドアが閉まる直前、真壁の声が聞こえた。
「女装をやめる必要はありません」
蓮は顔を上げた。
「でも、人を傷つけるために使うのは、やめた方がいい」
ドアが閉まった。
車は静かに走り出した。窓の外で、真壁と警備員と仮囲いの白い壁が後ろへ流れていく。
蓮は膝の上のウィッグを見た。
栗色の髪。
作り物。
武器。
鎧。
そして、もしかしたら別の何かにもなれたかもしれないもの。
蓮は、それを強く握らなかった。
崩れないように、両手でそっと支えた。
夜のガラスに映る自分の顔には、まだ少しだけメイクが残っていた。だが、そこにリナはいなかった。
蓮は小さく息を吐いた。
負けた。
完全に負けた。
けれど、自分が何に負けたのかだけは、ようやく分かった気がした。




