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リナの仮面は夜にほどける

掲載日:2026/06/05

 駅前の再開発区域は、夜になると街の裏側みたいな顔をする。


 昼間は工事車両の音と作業員の声でざわついているのに、日が落ちると、仮囲いの白い壁ばかりが妙に明るく見える。まだ開業していない商業ビルのガラスには、通行人の姿が薄く映り、遠くの駅ビルだけが、眠らない都市のふりをして光っていた。


 桐谷蓮は、そのガラスに映る自分を確認した。


 長い栗色の髪。柔らかく整えた目元。落ち着いた色のワンピース。細く見える腰の線。胸元には自然な丸みを作るパッド。胴にはシルエットを整えるための補正具を着けている。


 鏡の中の人物は、蓮ではなかった。


 「リナ」だった。


 完璧に作った、年上の女。


 声も作れる。仕草も作れる。歩き方も、笑い方も、視線の外し方も、何度も練習した。蓮は女装そのものを遊びとは思っていなかった。自分の武器だと思っていた。


 相手の警戒をゆるめるための武器。


 油断させ、近づかせ、面倒な状況に巻き込まれたと思わせるための武器。


 そして最後に、金を出させるための武器。


 蓮は、それが悪いことだと分かっていた。分かっていながら、やめなかった。


 金が必要だった、という理由はある。だが、それだけではない。相手が自分の作った姿を信じ、言葉に引っかかり、勝手に動揺していくのを見ると、蓮は自分が少しだけ世界に勝っているような気がした。


 その感覚が、やめられなかった。


 今夜の相手は、駅から少し離れた歩道を一人で歩いていた男だった。


 黒いコート。革靴。手には紙袋。年は三十前後。顔立ちは地味だが、姿勢が崩れていない。歩きながらスマートフォンを確認しているが、画面に集中しすぎてはいない。


 蓮は一瞬だけ迷った。


 少し手ごわそうだ。


 だが、手ごわい相手ほど、崩したときに大きく払うことがある。


 蓮は息を整え、リナの声を作った。


「すみません」


 男が足を止めた。


「はい」


「このあたり、タクシー乗り場ってどこか分かりますか?」


 男は駅の方向を見た。


「この道を戻って、横断歩道を渡った先です。駅の北側にあります」


「ありがとうございます。私、方向音痴で」


「駅の明かりが見えるので、そこへ向かえば大丈夫です」


 男はそれだけ言って、歩き出そうとした。


 蓮は逃がさなかった。


「あの……すみません。少しだけ、一緒に歩いてもらえませんか」


 男の動きが止まる。


「どうしました」


「さっきから、誰かにつけられている気がして」


 男は蓮の後ろを見た。


 人影はない。駅前から流れてくる人の気配はあるが、この歩道はほとんど空いている。遠くで自転車が一台通りすぎただけだった。


「それなら、交番へ行きましょう」


 蓮は内心で舌打ちした。


 普通なら、「大丈夫ですか」と聞く。少し不安そうな顔をする。相手を守る自分に酔う。


 だが、この男は最初から具体的だった。


「交番までは……大げさにしたくなくて」


「つけられているなら、大げさではありません」


「でも、怖くて」


「では、人通りの多い道を通りましょう」


 男は淡々としていた。


「僕は真壁といいます。駅の北側までなら一緒に行きます」


「あ……ありがとうございます。リナです」


「分かりました」


 名前に反応しない。


 顔も見すぎない。


 蓮は、少しだけやりにくさを覚えた。


 二人は駅へ向かって歩き出した。


 蓮は真壁の半歩後ろを歩いた。ヒールの音が、夜の歩道に軽く響く。仮囲いの白い壁が続き、ところどころに貼られた工事予定の紙が、夜風に小さく揺れていた。


「お仕事帰りですか?」


 蓮が聞いた。


「ええ」


「遅いんですね」


「今日は少し」


「大変そう」


「そちらも?」


「私は、友達と会っていて」


 言いながら、蓮は相手の反応を探った。


 真壁は質問してこない。余計な興味を示さない。だが、無関心でもない。歩く位置、街灯、防犯カメラ、周囲の出入口。そういうものを確認している。


 警戒されている。


 蓮は作戦を変えた。


「あ、すみません」


 わざと足をもつれさせる。


 相手の腕に軽く触れ、そこから話を作るつもりだった。けれど真壁は自然に一歩横へずれた。蓮の手は空を切り、体勢だけが少し崩れた。


「大丈夫ですか」


 真壁は手を出さずに言った。


「大丈夫です。すみません、ヒールに慣れてなくて」


「無理に急がなくていいです」


 親切ではある。


 だが、距離を詰めない。


 蓮は笑った。


「真壁さんって、慎重なんですね」


「そうかもしれません」


「女の人に頼られても、あまり嬉しくないタイプですか?」


「嬉しいかどうかで判断する話ではないので」


 蓮は返す言葉を失いかけた。


 真壁は厄介だった。


 善人ぶらない。かといって冷たくもない。相手に気を持たせない。だが、助けないわけでもない。


 蓮が狙う「隙」がない。


 駅前の明かりが近づいてくる。このまま行けば、人の多い場所に出てしまう。蓮は立ち止まった。


「やっぱり、あっちから行けませんか」


 蓮は仮囲いの脇にある細い道を指した。


 工事区域の裏へ続く道だ。暗いが、抜け道はある。蓮は事前に確認していた。


 真壁はその道を見た。


「あちらは遠回りです」


「でも、駅前に出るのが怖くて」


「つけてくる人がいるなら、明るい場所へ行く方が安全です」


「真壁さん、私のこと疑ってます?」


「確認しているだけです」


「ひどいです」


「ひどいと思うなら、ここで別れましょう。駅はすぐそこです」


 蓮は黙った。


 ここで泣きそうな顔をする。声を震わせる。被害者の顔になる。それで相手が慌てれば、流れは戻せる。


 蓮は目を伏せた。


「私、本当に怖いだけなのに」


「それなら、なおさら交番へ行くべきです」


「もういいです」


 蓮は少し声を硬くした。


「真壁さんみたいな人に頼んだ私が悪かったです」


「そうですか」


 真壁はそれ以上追わなかった。


 蓮は、腹の奥が冷たくなるのを感じた。


 このままでは失敗する。


 失敗だけならいい。だが、顔を見られ、声を聞かれ、場所も知られた。蓮の中で、焦りがふくらんだ。


 ならば、先に仕掛けるしかない。


 蓮はバッグから封筒を取り出した。中には、相手を動揺させるために用意した紙が入っている。詳しいことを書く必要はない。ただ、面倒な状況を連想させるだけでいい。


「真壁さん」


 蓮は声を低くしないよう気をつけた。


「これ以上、私を怒らせない方がいいですよ」


 真壁が振り返る。


「どういう意味ですか」


「私が何をされたって言うかは、私が決められるんです」


 真壁は表情を変えなかった。


「金銭を要求するつもりですか」


 あまりに早い返答だった。


 蓮は一瞬、言葉に詰まった。


「……何を言ってるんですか」


「駅周辺で、似た相談が複数ありました。声をかけ、人気の少ない場所へ誘導し、相手を困らせて金を要求する」


「言いがかりです」


「今の会話は記録しています」


 真壁はスマートフォンの画面を見せた。


 録音中だった。


 蓮の背筋に、冷たいものが走った。


「最低ですね。盗み聞きみたいなことして」


「自分が関わる会話を、状況確認のために記録しています。判断は専門家に任せます」


「ふざけるな」


 声が崩れた。


 女声の膜が破れ、低い地声が少し混ざる。


 真壁の目が、そこで初めて蓮を正面から見た。


「声を作っていましたね」


 蓮は喉を押さえた。


「何の話ですか」


「無理に続けなくていいです」


「うるさい」


 完全に地声だった。


 夜の歩道に、リナではない声が落ちる。


 真壁は驚かなかった。


 蓮は反射的に逃げ出した。


 細い道へ走る。ヒールが不規則に鳴る。補正具で整えた身体は、走るには窮屈だった。息が浅くなる。長いウィッグが視界の端で揺れ、胸元のパッドがずれて、服の下で違和感を作る。


 後ろから真壁の足音が追ってくる。


 だが、乱暴な追跡ではなかった。一定の距離を保ち、逃げ道をふさぐように動いている。


 蓮は角を曲がった。


 そこで、足が止まった。


 警備員が二人、通路の先に立っていた。


「止まってください」


 蓮は振り返った。


 真壁が追いついていた。


「最初から仕組んでたのか」


「あなたが脇道へ誘導しようとした時点で、警備員に連絡しました」


「罠じゃねえか」


「あなたが仕掛けようとしたことに対する対策です」


 蓮は後ずさった。


 その足元に、小さな段差があった。


 ヒールが引っかかり、身体が傾く。倒れはしなかった。だが、頭が大きく揺れた拍子に、ウィッグの固定が外れた。


 栗色の髪が片側へずれる。


 蓮は慌てて押さえた。


 だが、もう遅かった。


 短い黒髪が、額のあたりから見えていた。


 真壁も警備員も、笑わなかった。


 それが、蓮には余計に苦しかった。


「見るな」


 蓮は低く言った。


「見るなよ」


 真壁は視線を少し外した。


「逃げなければ、必要以上に見ません」


「ふざけんな」


 蓮はバッグを握りしめた。その拍子に、ファスナーが開いた。中からメイクポーチ、封筒、予備のパッドが床に落ちた。


 白い舗装の上に、作り物の部品が散らばる。


 蓮は動けなかった。


 完璧だったはずのリナが、道具に分解されていく。


 ウィッグ。メイク。補正具。パッド。声。


 それらは蓮が時間をかけて組み上げた鎧だった。その鎧が、他人の前でただの物として転がっている。


 蓮は自分でウィッグを外した。


 もう隠しても意味がない。


 夜風が短い髪に触れる。汗で前髪が額に貼りついていた。メイクは崩れ、片方の目元には黒い線がにじんでいる。リップも端だけ残っていた。


 リナの顔は、半分だけ残っていた。


 半分だけ残っているから、余計にみじめだった。


「桐谷蓮さんですね」


 真壁が言った。


 蓮は目を見開いた。


「なんで名前を知ってる」


「以前の相談記録に出ていました。確定ではありませんでしたが、今日の件で確認が必要になりました」


「俺が男だからか」


「違います」


 真壁は即答した。


「あなたが人をだまして金を取ろうとしたからです」


 蓮は言い返せなかった。


 その答えは単純すぎた。


 女装だからではない。


 男だからではない。


 騙そうとしたから。


 逃げ場のない答えだった。


「説教かよ」


「事実確認です」


「むかつくな」


「そうでしょうね」


 警備員の一人が、警察に連絡している。もう逃げられない。


 蓮は壁にもたれた。息が苦しい。胴の補正具が締めつけている。蓮は自分で留め具を少し緩めた。体型を作るための道具が、今はただ重かった。


 真壁は視線をそらしたまま言った。


「必要なら、身なりを整える時間はあります。ただし、逃げないでください」


「気を遣ってるつもりか」


「見世物にする必要はありません」


「さっきまで追い詰めてたくせに」


「犯罪の疑いを止めることと、外見を笑うことは別です」


 蓮は黙った。


 怒鳴り返したかった。だが、怒鳴る理由が見つからなかった。


 女装を笑われたなら、怒れた。


 気持ち悪いと言われたなら、罵れた。


 でも真壁は、そこを攻撃しない。


 蓮が悪かった部分だけを、まっすぐ指してくる。


 それが一番きつかった。


 蓮はメイクポーチを拾い、鏡を開いた。


 ひどい顔だった。


 ファンデーションは汗でまだらになり、アイラインは崩れ、リップは中途半端に残っている。リナでも蓮でもない顔。作りかけで、壊れかけの顔。


 蓮はティッシュを取り出し、自分で頬を拭いた。


 黒い筋が落ちる。


 赤い色が薄れる。


 リナが消えていく。


 桐谷蓮が戻ってくる。


 だが、それは解放ではなかった。


 負けて、引きずり戻されただけだった。


「なあ」


 蓮は鏡を見たまま言った。


「最初から、俺が男だって分かってたのか」


「いいえ」


「じゃあ、いつ分かった」


「声が崩れたときです」


「それまでは?」


「よくできていると思いました」


 蓮は手を止めた。


「褒めてんのか」


「事実です」


「本当にむかつく」


「それも、よく言われます」


 蓮は少しだけ笑った。


 乾いた笑いだった。


「俺、女装は完璧だったんだよ」


「外見は」


「外見だけかよ」


「行動が不自然でした」


 蓮は真壁を見た。


「どこが」


「困っている人の動きではなく、場所を選んでいる人の動きでした」


「……そこか」


「そこです」


「次は気をつける」


「次はない方がいい」


「冗談だよ」


 蓮は鏡を閉じた。


 遠くから警察車両のライトが近づいてきた。サイレンは鳴っていない。静かに、確実に、終わりが近づいてくる。


 蓮は床に置いたウィッグを拾った。


 栗色の髪は、まだきれいだった。手入れには時間をかけていた。毛流れも自然に整えていたし、近くで見られても違和感が出にくいように選んだものだった。


 これをつければ、またリナになれる。


 少なくとも、鏡の前では。


 だが、今夜はもう無理だった。


 蓮はウィッグを雑に丸めず、崩れないように畳んだ。


「真壁」


「はい」


「女装って、悪いことじゃないよな」


「悪いことではありません」


「男がやっても?」


「関係ありません」


「じゃあ、俺の何が悪かった」


 真壁は少しも迷わなかった。


「他人をだまして、金を取ろうとしたことです」


 蓮は目を伏せた。


 単純な答えだった。


 けれど、単純だからこそ、逃げられなかった。


 警察官が到着し、真壁と警備員が状況を説明した。録音のこと、防犯カメラのこと、蓮が封筒を出して金を要求しようとしたこと。蓮は黙って聞いていた。


 言い訳なら、いくらでも思いついた。


 冗談だった。


 誤解だった。


 怖くて混乱していただけだった。


 けれど、どれも口にできなかった。


 真壁に見破られたからではない。


 自分で、自分の嘘に飽きてしまったからだ。


 警察官に促され、蓮は歩き出した。


 ヒールのかかとが少し欠けている。歩くたびに、音が不規則に跳ねた。作った優雅さはもうない。ウィッグは手の中。メイクは半分落ち、補正具は緩めたままだ。


 リナはもういなかった。


 いるのは、桐谷蓮だけだった。


 車に乗る前、蓮は振り返った。


「なあ、真壁」


「何ですか」


「俺、そんなに下手だったか」


「女装は上手でした」


「じゃあ何が下手だった」


「人を見ることです」


 蓮は黙った。


「相手が何を恐れるかは見ていた。でも、相手が何を守ろうとしているかは見ていなかった」


「説教じゃないのか、それ」


「事実確認です」


「最後までそれかよ」


 蓮は苦笑した。


 警察官に促され、車に乗る。


 ドアが閉まる直前、真壁の声が聞こえた。


「女装をやめる必要はありません」


 蓮は顔を上げた。


「でも、人を傷つけるために使うのは、やめた方がいい」


 ドアが閉まった。


 車は静かに走り出した。窓の外で、真壁と警備員と仮囲いの白い壁が後ろへ流れていく。


 蓮は膝の上のウィッグを見た。


 栗色の髪。


 作り物。


 武器。


 鎧。


 そして、もしかしたら別の何かにもなれたかもしれないもの。


 蓮は、それを強く握らなかった。


 崩れないように、両手でそっと支えた。


 夜のガラスに映る自分の顔には、まだ少しだけメイクが残っていた。だが、そこにリナはいなかった。


 蓮は小さく息を吐いた。


 負けた。


 完全に負けた。


 けれど、自分が何に負けたのかだけは、ようやく分かった気がした。

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