婚約破棄された辺境伯令嬢ですが、実は聖女の力など必要なく女神でした~冷酷公爵様とモフモフに溺愛されながら、弱った領地を蘇らせます~
王宮の大広間は、金の燭台と白い花で埋め尽くされていた。磨き上げられた床には、貴族たちの靴音と衣擦れが重なり、楽団の音色まで甘く聞こえるはずだった。
アレクシア・フォン・ローゼンベルクは、ローゼンベルク辺境伯家の長女として、その夜も第一王子ラインハルトの婚約者の席に立っていた。背筋を伸ばし、扇を胸元で閉じたまま、目の前にいる男の顔を見つめていた。
「アレクシア。お前との婚約を破棄する。聖女エレナこそが、私の真の伴侶だ」
第一王子ラインハルト・フォン・アルディオンは、王国の第一王子として、誰もが聞こえる声でそう告げた。広間の空気が一瞬だけ薄くなり、楽団の音が遅れて止まった。
彼の腕には、エレナ・リュミエールが寄り添っていた。ローゼンベルク家で義妹のように育った少女で、今は神託で選ばれた聖女として王宮中にもてはやされている。平民から回復魔法が使える逸材として、ローゼンベルク家に見いだされ、養われていた少女だ。
「ラインハルト殿下、今のお言葉は、この場に集まった方々の前で取り消せないものになります」
「脅しか? 辺境育ちの令嬢が、王族である私に向かってずいぶん強い口を利くな」
「脅しではございません。殿下の言葉を、そのまま受け止めているだけです。それにエレナは、我が故郷の平民の出。私を辺境育ち呼ばわりするのは、彼女にも不名誉では?」
「ならば、エレナと同郷な事を誇りに思うがいい。彼女を見出した家という事だけは評価してやる。お前のような口の悪い冷たい女を、これ以上隣に置くつもりはない」
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。驚きではない。悲しみでもない。長く持たされていた重い箱を、ようやく床に置いたような感覚だった。
八歳の頃から、王太子妃になるための教育を受けてきた。笑い方、歩き方、言葉の選び方、食事の手順、他家の令嬢への返事まで、一つずつ体に刻みつけてきた。
ラインハルト殿下の顔色を読むことも、その一つだった。彼が退屈している時、怒りたい時、誰かを見下したい時、周囲より先に察して言葉を選んできた。
「アレクシアお姉様、ごめんなさい。でも、これは運命なのです」
エレナは淡い桃色のドレスを揺らし、申し訳なさそうにまぶたを伏せた。だが、彼女の指先はラインハルト殿下の袖をつかみ、離れる気配は少しもなかった。
「エレナ、顔を上げて。あなたが望んだ言葉なら、せめて正面から聞かせてちょうだい」
「わたしは望んでなんていません。ただ、神様が殿下とわたしを結びつけたのです」
「神様は、ずいぶん都合よく夜会の日を選ぶのね」
「お姉様、そんな言い方はひどいです。わたし、ずっと苦しかったのに」
周囲から、かすかな笑いが漏れた。何人かの令嬢が扇の陰で目を細め、若い貴族の男たちは、面白い見世物でも始まったように肩を寄せ合っている。
ローゼンベルク辺境伯家は、王都から遠い北の地を守る家だった。雪深い山脈と魔物の森に接し、華やかな噂よりも、泥にまみれた報告のほうが多い。
だから王都の貴族たちは、うちを貧しい田舎者だと笑った。けれど、その食卓に並ぶ麦も、暖炉にくべる魔鉱石も、北の道を通って運ばれたものだとは考えない。
「ふん。領地は貧しく、貢ぎ物もろくに出せない。お前は王子妃としての華もなければ、彼女のような聖女の力もない」
「殿下がそうお考えなら、それで構いません。ですが、ローゼンベルク家が何を担ってきたか、ご存じですか」
「辺境で魔物を相手にしているだけだろう。王都に必要なのは、エレナのような癒やしの力だ」
「そうですか。では、殿下にとって不要なものを、これ以上お届けする必要もありませんね」
ラインハルト殿下の眉が動いた。意味が分からない時の顔だった。昔から変わらない。分からないことを分からないと言わず、相手を見下すことで隠そうとする。
エレナが不安そうに彼を見上げた。彼女もまた、言葉の奥にあるものを掴めずにいる。けれど、勝ったと思っている顔だけは隠しきれていなかった。
「アレクシアお姉様、どうしてそんな怖い顔をするのですか。殿下を困らせるのはやめてください」
「困っていらっしゃるのは殿下ではなく、あなたでしょう。勝ったはずなのに、まだ安心できない顔をしているもの」
「ひどいです。わたしは、お姉様にも幸せになってほしいだけなのに」
「その言葉は、私の婚約者の腕から離れてから聞きたかったわ」
エレナの唇がわずかに震えた。周囲の笑いが一段浅くなり、誰かが息を飲む音がした。
ラインハルト殿下は、そんな空気を断ち切るように一歩前に出た。白い礼服の胸元に下がる宝石が揺れ、燭台の光を受けてぎらりと光った。
「もうよい。アレクシア、お前には王都に留まることを禁じる。明朝までに荷をまとめ、辺境へ帰れ」
「承知しました。婚約破棄を受け入れ、王都から退きます」
「ずいぶんあっさり認めるではないか。泣いてすがるほどの可愛げもないのだな」
「殿下の前で泣く稽古までは、受けておりませんでしたので」
広間の奥で、年配の貴婦人が扇を閉じる音がした。大きな音ではなかったのに、その場にいた何人かがそちらを見た。
ラインハルト殿下の顔に、赤みが差した。怒りを隠しきれない時、彼はいつも唇の端だけを歪める。今もそうだった。
「最後まで生意気な女だ。聖女エレナの慈悲にすがるなら、少しは扱いを考えてやってもよいぞ」
「慈悲は結構です。ローゼンベルク家には、雪を割って咲く花のほうが似合います」
「負け惜しみを。辺境へ帰れば、お前など誰にも見向きされぬ」
「それなら安心です。ようやく、殿下のお顔色を伺わずに眠れますから」
言ってから、胸の奥がかすかに熱くなった。怒鳴り返したわけではない。泣き崩れたわけでもない。それでも、長い間飲み込んできた言葉が、ようやく喉を通った。
エレナはラインハルト殿下の袖をつかむ指に力を込めた。彼女の爪が白くなっているのが見えた。
「殿下、もうよろしいではありませんか。お姉様もきっと、今は混乱しているだけです」
「エレナは優しすぎる。これほど侮辱されても、お前はまだ庇うのか」
「だって、お姉様は家族のような方でしたから」
「家族のように思う相手から、婚約者を奪うのは大変だったでしょうね」
エレナの目が、大きく見開かれた。次の瞬間、涙が浮かぶ。泣く準備があまりにも早くて、少し感心してしまった。
ラインハルト殿下が怒鳴ろうと息を吸う。だから、その前に扇を閉じ、深く一礼した。
「第一王子ラインハルト殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
広間中の視線が、私が下げた頭に集まっていた。額にかかる髪飾りが頬に触れ、冷えた金属の感触だけが妙にはっきり残る。
顔を上げると、ラインハルト殿下は勝ち誇った顔をしていた。エレナは涙を浮かべたまま、その奥で薄く笑っていた。
「ただし、これよりローゼンベルク家は、王家へ捧げてきた一切の務めを終えます」
「何を言っている。婚約を失った娘が、勝手に何かを終えるつもりか」
「殿下が不要とおっしゃいました。でしたら、不要なものをお持ちするのは失礼に当たります」
「また遠回しな物言いを。もっと分かるように言え」
「王都へ流していた北の魔力を、今夜限りで止めます」
その瞬間、広間の燭台が一つだけ揺らいだ。風はない。窓も閉じられている。けれど、火は小さく傾き、まるで遠い北の雪を思い出したように青みを帯びた。
誰も、すぐには口を開かなかった。意味を理解した者は青ざめ、理解していない者は笑い損ねた顔で固まっている。
ラインハルト殿下だけが、まだ勝利の中に立っていた。
「止めるだと? お前一人に何ができる。辺境伯家の娘ごときが、王都を脅かせると思うな」
「脅かすつもりはありません。ただ、殿下のお望みどおり、田舎令嬢らしく北へ帰るだけです。それに、またエレナにも侮辱になってますよ」
「口だけは減らんなアレクシア。後悔しても知らぬぞ。王家に背を向けた女を、誰が守ると思っている」
「その心配までしていただけるとは、最後に少しだけ婚約者らしいお言葉でしたね」
唇の端だけで笑うと、ラインハルト殿下の顔がさらに赤くなった。エレナは何かを言いかけたが、声にはならなかった。
もう十分だった。これ以上、この広間に立っている必要はない。
扇を胸元に戻し、踵を返した。背中に突き刺さる視線も、漏れ聞こえる囁きも、驚くほど遠く感じた。
大広間の扉が開く。廊下から流れ込んだ夜気が、頬の熱をさらっていった。
王宮の奥で、また一つ燭台の火が揺らいだ。次に揺れるのは、この広間では済まない。
◇
ローゼンベルク辺境伯領へ戻った日の空は、雪混じりの灰色だった。王都では春の花が咲き始める頃だというのに、北の風はまだ頬を刺す。
アレクシア・フォン・ローゼンベルクは、馬車の窓から見える山脈を眺め、小さく息を吐いた。白く染まった森と、遠くで煙を上げる村々を見ていると、胸の奥に張りついていたものが少しずつほどけていく。
「お嬢様、本当にお一人で王都を出てしまわれるとは……」
向かいに座る老執事グレイグが、困ったように眉を下げた。ローゼンベルク辺境伯家に四十年以上仕えてきた男で、幼い頃からアレクシアを見守ってきた人物だった。
「ラインハルト殿下の顔を、これ以上見続けるほうが辛かったもの。むしろ、遅すぎたくらいよ」
「ですが、婚約破棄まで大広間で宣言されるとは……あまりにも酷い扱いです」
「お父様なら、王都の連中らしいで終わらせるでしょうね」
グレイグが苦笑した。厳格なローゼンベルク辺境伯は、王都の貴族たちを昔から好いていない。
北の領地は、魔物の被害が絶えなかった。冬になれば吹雪で村が閉ざされ、春になれば雪解け水で道が崩れる。
それでも、領民たちは土地を捨てなかった。痩せた畑を耕し、鉱山を守り、夜になれば火を囲んで笑う。
アレクシアは、そういう光景が好きだった。
「嬢様、王都からの使者が追って来る可能性があります。少なくとも、辺境伯様には先にご相談を」
「ええ。でも、その前に確認したいことがあるの」
「……地下祭壇ですか」
グレイグの声が低くなった。
ローゼンベルク城の地下深くには、代々の当主しか立ち入れない祭壇がある。そこには古い魔導書が封じられ、領地の根幹に関わる秘密が眠っていた。
アレクシアは幼い頃、一度だけ父に連れられてそこへ入ったことがある。薄暗い地下で、巨大な魔法陣が青白く光っていた。父は、その中央で短く言った。
『お前が継ぐことになる』
何を、と聞き返す前に、額へ触れられた。その瞬間、膨大な魔力が体の奥へ流れ込み、視界が銀色に染まった。風の流れ、大地の脈動、水脈の音、森のざわめき。世界そのものが、生き物のように呼吸している感覚だった。以来、アレクシアは自分の力を隠して生きてきた。
王都に知られれば、王家に囲われる。便利な道具として扱われる。それだけは嫌だった。
「お嬢様。王宮の連中は、辺境伯家を甘く見ております。ですが、あの方々は知らないのです」
「ええ。北が何を支えているのか、何も知らない」
馬車が城門をくぐった。
ローゼンベルク城は、王都の宮殿のような華やかさはない。灰色の石で築かれた堅牢な城で、吹雪の中でも揺るがぬ要塞のようだった。だが、アレクシアにとっては、この場所こそ帰るべき家だった。
◇
夜になり、アレクシアは一人で地下祭壇へ向かっていた。長い石階段を降りるたび、空気が冷えていく。壁に埋め込まれた魔石灯だけが、淡い青色で足元を照らしていた。最奥の扉の前で立ち止まり、そっと指を触れる。瞬間、銀色の光が扉全体に広がった。
重い音を立てて開いた先には、巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。床一面を覆う古代文字が、呼吸するように明滅している。祭壇中央には、一冊の古い魔導書が置かれていた。
「久しぶりね」
近づくと、魔導書が微かに震えた。まるで持ち主の帰還を待っていたようだった。アレクシアは手袋を外し、そっと表紙へ触れる。その瞬間だった。膨大な銀色の魔力が、彼女の体から溢れ出した。魔法陣が一斉に輝き、地下全体が震える。空気が唸り、城の外から雪崩のような音が響いた。
「……っ」
苦しくはなかった。むしろ、長く閉じ込めていた呼吸をようやく吐き出した感覚だった。髪がふわりと浮き上がる。銀色の光が指先から流れ、大地へ沈み込んでいく。
すると、領地全体で変化が起き始めた。凍りついていた川が流れ出し、痩せた畑に、小さな緑が芽吹く。魔物たちの遠吠えが止み、森の気配が穏やかに変わっていく。
アレクシアは目を閉じた。分かる。山脈の向こうの風まで感じる。地下深くの鉱脈が脈打ち、水脈が歌うように流れている。
「これが……ローゼンベルクの力」
王都では、聖女エレナの奇跡が持て囃されていた。だが、あれは表面だけの光、ただの回復魔法にすぎない。本当に国を支えていたのは、大地そのものへ流れ込む魔力だった。ローゼンベルク家は代々、それを守り続けてきた。
王家に恩を売るためではない。王国全体が崩れぬよう、見えない場所で支えていただけだ。
「もう、隠さなくていいのね」
ぽつりと漏らした声が、静かな祭壇へ溶けていく。その時だった。祭壇奥の魔法陣が、強く脈打った。銀色の光が集まり、一匹の獣が姿を現す。雪のように白い毛並み。氷のように青い瞳。巨大な狼だった。
普通の魔獣ではない。古代から女神に仕える守護獣だと、古文書で読んだことがある。狼はアレクシアの前まで歩いてくると、静かに頭を垂れた。
私は、そのモフモフとした毛を、なでてみる。
「……私を主と認めるの?」
問いかけると、狼は喉を鳴らし、彼女の手へ鼻先を押しつけた。思わず笑みが零れる。
モフモフした彼を、思いっきり抱きしめた。
「大きいのに、甘え方は犬みたいね」
頭を撫でると、狼はさらに擦り寄ってきた。冷たそうに見えた毛並みは驚くほど柔らかい。その時、地下祭壇の扉が勢いよく開いた。
「アレクシア!」
ローゼンベルク辺境伯クラウス・フォン・ローゼンベルクが、険しい顔で入ってくる。厳格な父として知られる男だが、娘の姿を見た瞬間、その表情が止まった。
「……継承が、完了したのか!しかし、これほどの力とは。今まででは考えられん」
「お父様」
辺境伯の視線が、銀色に輝く魔法陣と白狼へ向く。しばらく沈黙した後、彼は深く息を吐いた。
「王都の連中には、絶対に渡さん」
「え?」
「ようやく決断した。お前を王家へ差し出したことが、そもそもの間違いだった」
アレクシアは目を瞬かせた。父は昔から厳しかった。褒めることなど滅多になく、感情を表に出さない。
だから今の言葉は、想像していたよりずっと胸に響いた。
「お前はローゼンベルクの娘だ。王家の飾りではない」
「……はい」
「好きに生きろ。領地は、お前の力を拒まん」
アレクシアは唇を噛んだ。泣きたくはなかったのに、胸の奥が熱くなる。王都では、一度も言われなかった。役目を果たせ、笑え、耐えろ、失礼のないように振る舞え。そんな言葉ばかりだった。けれど今、初めて、自分の存在そのものを肯定された気がした。
白狼が彼女の肩へ鼻先を押しつける。その温もりに触れながら、アレクシアは小さく笑った。
一方その頃、王都では異変が起きていた。王宮を照らす魔石灯が次々と明滅し、治癒院では魔導具が動かなくなり始めていた。聖女エレナは青ざめた顔で祈りを捧げるが、いつもの光が集まらない。
「どうして……どうして治らないの……!」
負傷した騎士の傷口は閉じず、魔導士たちは額に汗を浮かべながら詠唱を繰り返している。
そして、ラインハルト・フォン・アルディオンは、苛立った声を玉座の間へ響かせていた。
「アレクシアのせいだ! あの女が何かしたに違いない!」
だが、その怒声は、もう北には届かなかった。
◇
ローゼンベルク辺境伯領に春が訪れ始めていた。
雪解け水が川を満たし、灰色だった畑には少しずつ緑が戻っている。冬の終わりには閉ざされていた街道にも荷馬車が行き交い始め、城下には久しぶりに活気が戻っていた。
城の執務室で報告書を読んでいたアレクシア・フォン・ローゼンベルクは、小さく目を細めた。
「北鉱山の採掘量が三割増加……?」
「はい。さらに、枯れていた第二水脈まで戻ったとの報告です」
老執事グレイグが、興奮を抑えきれない声で続ける。
「村の者たちも驚いております。例年なら春先は飢えに怯える時期ですが、今年は土の状態がまるで違うと」
「急激に変わりすぎると、不安になる人もいるわ。配給を増やして、街へ医師も回してちょうだい」
「承知いたしました。しかし、お嬢様は少し働きすぎです」
「領地が動き始めた今が、一番大事な時期なの」
ペンを置きながら答えると、窓の外から遠吠えが聞こえる。白狼だった。
地下祭壇で契約を結んで以来、彼は城の周囲を縄張りのように歩き回っている。今では領民たちも恐れるどころか、「お嬢様の守り神」と呼び始めていた。
「今日も元気ね」
窓を開けると、白狼がすぐ下から見上げてきた。青い瞳が陽光を受け、氷の結晶のように輝いている。アレクシアが笑って手を振ると、白狼は喉を鳴らした。
その時だった。城門側から、鋭い警鐘が響いた。空気が変わる。兵士たちの怒鳴り声と、馬の足音が重なって聞こえた。
「何事ですか」
グレイグが窓へ近づく。街道の先から、黒塗りの馬車がゆっくり近づいていた。護衛騎士たちは全員黒い軍服に身を包み、統率の取れた動きで周囲を警戒している。
ローゼンベルクの騎士たちが緊張するのも無理はなかった。その紋章を、誰もが知っている。
「……帝国の黒狼紋」
アレクシアが呟いた。隣国グランツ帝国。王国と長く睨み合いを続けている大国であり、その中でも特に恐れられているのが、シュヴァルツ公爵家だった。
「まさか、あの方が直接……」
グレイグの声が硬くなる。黒い馬車が止まり、扉が静かに開いた。先に降りた騎士たちが一斉に片膝をつく。そして最後に、一人の男が姿を現した。黒髪、鋭い銀色の瞳、長身を包む軍装は無駄なく整い、歩くだけで周囲の空気が張り詰める。
ヴォルフガング・フォン・シュヴァルツ公爵、帝国最強の将軍。戦場で無敗を誇り、氷の公爵と恐れられる男だった。
「……本当に来たのね」
アレクシアは思わず呟いた。王都にいた頃から、何度か名前だけは耳にしていた。冷酷、無慈悲で敵国の将すら震え上がる男。そんな噂ばかりだった。だが、窓越しに見える男は、噂以上に危険な存在に見えた。力がある。圧倒的な魔力を隠しもせず立っている。まるで吹雪の中心が人の形を取ったようだった。
「お嬢様、すぐに兵を――」
「いいえ。敵意はないわ」
「ですが、あの男は」
「分かってる。でも、本当に侵略するつもりなら、こんな人数では来ない」
ヴォルフガング公爵は、城を見上げていた。そして、不意に視線が合った。銀色の瞳が、真っ直ぐアレクシアを捉える。その瞬間、背筋が熱くなった。見透かされた気がした。王都で纏っていた、ただの辺境伯令嬢という仮面を。
◇
応接間には、重たい沈黙が落ちていた。アレクシアの向かいに座るヴォルフガング公爵は、一度も無駄な動きを見せない。紅茶にも口をつけず、ただ静かに彼女を見ていた。グレイグですら、珍しく落ち着かない顔をしている。
「シュヴァルツ公爵閣下。本日はどのようなご用件でしょう」
「単刀直入に言おう。君に会いに来た」
「……私に?」
「ローゼンベルク領で起きた変化を調べていた」
低い声だった。感情を抑えているのに、不思議と耳へ残る。
「枯れていた土地が蘇り、魔物が森へ戻り、鉱脈が活性化した。さらに、王都では逆に魔力が不安定化している」
ヴォルフガング公爵の指が、机を軽く叩く。
「偶然にしては出来すぎている」
「公爵閣下は、ずいぶん辺境事情にお詳しいのですね」
「興味があった。特に、婚約破棄された令嬢には」
アレクシアのまつげが揺れた。探るような言葉だった。だが、嘲笑は混じっていない。
「王都では、さぞ面白い見世物になっているのでしょうね」
「いいや。愚かな話だと思った」
「……え?」
「宝石を泥の中へ捨てておきながら、その価値に気づいていない」
ヴォルフガング公爵は、そう言って初めて紅茶へ口をつけた。アレクシアは少しだけ言葉を失った。王都では、誰もそんなふうに言わなかった。役に立つか、王家へ利益をもたらすか。求められたのは、そればかりだった。
「公爵閣下は、私を買いかぶりすぎです」
「君は、自分を過小評価しすぎだ。私には強い魔力感知能力がある。魔力について隠し事は出来ないぞ。私は、この力で戦場を生き抜いてきた」
即答だった。銀色の瞳が逸れない。まるで逃がす気がない視線だった。
「君は、王国全体の魔力流動を動かした。それほどの力を持つ存在を、私は他に知らない。」
「……っ」
「少々の回復魔法の得意な少女など、比べる対象にすらならん。あれが聖女とは笑わせる。目先の色恋に走った王太子も、王太子の顔色を伺って間違った神託も並べる王都の神官共も、救いがたい」
その言葉に、アレクシアは息を呑んだ。エレナが聖女として持て囃されるたび、ずっと比べられてきた。冷たい、地味だ。華がない、癒やしの魔法も使えない。そう言われ続けた。だから今の言葉は、思った以上に胸へ刺さった。
「私は、聖女でも女神でもありません。ただ、この土地を守りたかっただけです」
「それを成せる者を、人は女神と呼ぶ」
静かな口調だった。だが、嘘を言っている顔ではなかった。その時、応接間の扉が勢いよく開いた。
「お嬢様!」
若い騎士が飛び込んでくる。
「王都から使者です! 第一王子殿下の命令書を持っております!」
空気が変わった。グレイグの眉間に皺が寄る。アレクシアはゆっくり息を吐いた。
「……通しなさい」
しばらくして、豪奢な衣装の使者が入ってきた。だが、ヴォルフガング公爵の姿を見た瞬間、顔色が変わる。
「しゅ、シュヴァルツ公爵……!?」
「用件を続けろ」
低い声だけで、使者の肩が跳ねた。使者は慌てて封書を差し出す。
「アレクシア・フォン・ローゼンベルク! ラインハルト殿下は、あなたへ帰還を命じられております! 王都の混乱は、あなたにも責任が――」
「責任?」
アレクシアは静かに聞き返した。
「王家が不要と切り捨てた令嬢に、どのような責任がございますか」
「そ、それは……しかし!」
「婚約を破棄し、領地を侮辱し、追放同然に北へ返したのは、そちらでしょう」
使者の額に汗が浮かぶ。そして何より、隣に座るヴォルフガング公爵の存在が恐怖だった。彼は腕を組んだまま、冷ややかに口を開く。
「帰って伝えろ」
「ひっ……!」
「彼女は、もう王国だけのものではない。この世界に必要な方だ」
部屋の空気が凍ったようだった。使者は青ざめた顔で後退る。アレクシアは、その横顔を見つめていた。
冷酷な男だと聞いていた。けれど今、彼女を脅すどころか、王都から守ろうとしている。
「公爵閣下」
「何だ」
「どうして、そこまで私へ肩入れなさるのですか」
ヴォルフガング公爵は、少しだけ目を細めた。その表情を見て、初めて気づいた。この人は最初から決めていたのだ。王都に捨てられた令嬢を奪うと。
「簡単な話だ」
彼は立ち上がり、アレクシアの前まで歩いてきた。そして、片膝をつく。応接間にいた全員が息を止めた。
「私は、君を望んでいる」
大きな手が差し出される。戦場で剣を握ってきたはずの手なのに、不思議と乱暴さを感じなかった。
「アレクシア。私と結婚してくれ」
その言葉に、アレクシアの心臓が大きく跳ねた。
◇
応接間へ、暖炉の火が静かに揺れていた。アレクシア・フォン・ローゼンベルクは、差し出された手を見つめたまま、しばらく動けなかった。ヴォルフガング・フォン・シュヴァルツ公爵は、片膝をついた姿勢のまま待っている。急かす気配はない。だが、その銀色の瞳だけは、一瞬たりとも逸れなかった。
「……公爵閣下は、求婚にも奇襲を使われるのですね」
「戦場では、迷った側が死ぬ」
「女性への求婚で使う言葉ではありません」
「では言い直そう。君を誰にも渡したくない」
あまりにも真っ直ぐだった。飾った言葉ではない。だからこそ、胸へ落ちてくる。王都では、いつも条件ばかり並べられてきた。王太子妃として相応しいか、王家へ利益をもたらせるか、感情より先に価値を測られていた。
だが、この男は違う。力も立場も理解した上で、それでもアレクシア自身を欲している。
「……ずるい方ですね」
「何がだ」
「そんな顔で見られたら、断りづらいでしょう」
ヴォルフガング公爵の目が、わずかに細められた。初めて見る表情だった。笑ったのだと気づくまで、一瞬遅れた。
「では、期待してもいいのか」
「まだ返事はしておりません」
「待つのは得意ではない」
「そう見えます」
アレクシアが小さく笑うと、部屋の空気が少しだけ緩んだ。その時だった。外から激しい遠吠えが響く。白狼だった。続いて、城門側から兵士たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
「お嬢様! 王都の使者が追加で到着しました!」
若い騎士が飛び込んできた。
「追加?」
「は、はい! 第一王子殿下ご本人もお越しになっています!」
応接間の空気が、一気に冷えた。ヴォルフガング公爵の瞳から、熱が消える。
「……ほう」
低い声だった。だが、先ほどまでとは違う。完全に戦場の声だった。
◇
ローゼンベルク城の正門前では、白狼が低く唸っていた。白狼が呼び出した十数頭の氷狼が街道を塞ぎ、その奥に立つ王国騎士団を睨みつけている。
ラインハルト・フォン・アルディオンは、馬上で顔を歪めた。
「何だ、この化け物どもは!」
「殿下、お下がりください! 魔獣が完全に敵意を――」
「黙れ! 辺境伯風情が、王族の前で門を閉ざすなど許されると思うか!」
だが、その怒声に反応したのは騎士たちだけだった。白狼たちは微動だにしない。むしろ、一頭がゆっくり牙を見せたことで、馬が怯えて後退った。
ラインハルトが叫ぶ。
「アレクシアを呼べ! これは王命だ!」
その時、城門がゆっくり開いた。現れたのは、銀色の髪を揺らすアレクシアだった。その隣には、黒い軍服姿のヴォルフガング公爵が立っている。
ラインハルトの顔色が変わった。
「シュヴァルツ公爵……!?」
「騒がしいな。王国では、敗者が押しかけるのが流行しているのか」
「き、貴様! ここは王国領だぞ!」
「だから何だ」
ヴォルフガング公爵は一歩前へ出た。それだけで、王国騎士たちが反射的に身構える。戦場を知る者ほど、この男を恐れていた。
「アレクシア」
ラインハルトは、慌てたように彼女へ手を伸ばした。
「戻ってこい。あの婚約破棄は、少々言い過ぎただけだ」
「……少々?」
「お前も悪かっただろう! 少々、他の女に優しくしただけで、いつも冷たく、可愛げもなく、私を立てようともしなかった!」
「ですので、婚約破棄を受け入れました」
「だが、王都は混乱している! 魔導具は止まり、聖女エレナの力まで弱まって――」
「それで?」
アレクシアの声は静かだった。怒鳴りもしない。だが、その一言でラインハルトは詰まった。
「……え」
「私を不要と切り捨てたのは、殿下です。ならば、不要になったものが消えただけでしょう」
「お、お前は王国の民が苦しんでもいいのか!」
「殿下」
アレクシアは、ゆっくり首を傾げた。
「ローゼンベルク家が北で何を支えてきたか、一度でも聞こうとなさいましたか」
ラインハルトが黙る。
「寒波で閉ざされた村へ、どれだけ魔力を流していたか。王都の魔導炉を安定させるため、何十年も地下泉を維持していたか。殿下は、ご存じなかったのでしょう」
「そ、それは……確かに」
「興味がなかったのでしょう。辺境の田舎令嬢でしたもの」
「しかし、お前達は、その力を隠していたではないか……卑怯だぞ」
ラインハルトの唇が震える。周囲の騎士たちも、動揺を隠せなかった。彼らも知らなかったのだ。王国の魔力基盤の大部分を、ローゼンベルク家が支えていたことを。
「アレクシア……私は、お前を愛していた」
「それは便利なお言葉ですね。卑怯者呼ばわりされた後に聞くと、感慨深いですわ。一族にいらぬ危険が及ばぬよう、力を隠していたのは謝りますが……」
「何?」
「愛するとは、私の一族が何も言わず、王家へ尽くし続ける限りは。でしょう?」
ラインハルトの顔が赤くなる。昔なら、ここで怒鳴り返していた。だが今は違う。背後にはヴォルフガング公爵がいる。そして何より、アレクシア自身がもう怯えていなかった。
「お前は、本当に変わったな……」
「ええ。ようやく、自分の足で立てるようになりましたから」
その時、後方の馬車から、エレナが姿を現した。以前より化粧は濃く、頬はやつれている。だが、目だけは必死だった。
「お姉様! お願いです! 王都へ戻ってください!」
アレクシアは静かに彼女を見る。エレナは、震える声で続けた。
「わたしの力が、急に弱くなって……みんな不安になってるんです……!」
「そう」
「お姉様なら、きっと何とかできます! だって、お姉様は昔から特別で――」
「エレナ」
遮ると、彼女の肩が跳ねた。
「あなたは、自分が聖女だと信じたかっただけ。私は、その夢を壊す気はないわ」
「……っ」
「でも、そのために他人の人生を踏んでいい理由にはならない」
エレナの目から涙が落ちた。けれど、以前のように庇う気持ちはもう湧かなかった。ずっと見て見ぬふりをしてきた。義妹のように育った情もあった。だが、彼女は知っていたはずなのだ。婚約破棄の場で、自分が何を奪ったのか。
「帰ってください」
アレクシアは静かに告げた。
「私には、もう守るべき場所があります」
その瞬間だった。ヴォルフガング公爵が、自然な動作でアレクシアの肩を抱き寄せた。ラインハルトの顔が歪む。
「き、貴様……!」
「彼女は私のものだ」
低い声だった。それだけで、空気が凍る。
「次に無断で踏み込めば、王族であろうと容赦はしない」
白狼達が、一斉に唸った。王国騎士達が青ざめて後退る。ラインハルトは何か言い返そうとしたが、結局言葉にならなかった。彼は初めて理解したのだ。自分は、本当にアレクシアを失ったのだと。利用し続けられると思っていた存在を。
◇
その夜。アレクシアは、城のバルコニーで夜風に当たっていた。遠くの山脈には雪が残り、空には星が散っている。
「冷えるぞ」
背後から、ヴォルフガング公爵の声がした。気づけば、厚手の外套を肩へ掛けられている。
「ありがとうございます」
「無理をして笑っていたな」
アレクシアは少し驚いた。誰にも悟られないようにしていたつもりだった。
「……終わったのだと思ったら、少し力が抜けただけです」
「なら、寄りかかれ」
「え?」
「妻になる相手を支えるくらいはする」
当然のように言われ、アレクシアの頬が熱くなる。けれど、不思議と嫌ではなかった。恐る恐る肩へ寄りかかると、ヴォルフガング公爵の腕が静かに背を支えた。温かい。氷の公爵などと呼ばれている男とは思えないほど。
「……公爵閣下」
「ヴォルフでいい」
「まだ正式なお返事をしていないのですが」
「断る気か?」
真顔で聞かれ、思わず吹き出した。
「ずるい方ですね。本当に」
「君にだけだ」
耳元で低く囁かれ、心臓が跳ねる。遠くで白狼たちの遠吠えが重なった。もう王都へ戻りたいとは思わない。この場所でなら、自分の人生を生きられる。そう、初めて思えた。
◇
ローゼンベルク辺境伯領へ、柔らかな春が訪れていた。
雪解けを終えた街道には交易馬車が並び、城下では帝国商人たちの声が飛び交っている。かつて、貧しい北の果てと呼ばれた土地は、今では王国と帝国を繋ぐ重要な交易地へ変わり始めていた。
広場では、子供たちが白狼の子供に追いかけられて笑っている。
「こら、転ぶわよ」
アレクシア・フォン・ローゼンベルクは、噴水前で足を止め、小さく笑った。
以前の王都では考えられない光景だった。王宮では、令嬢は常に見られる存在だった。姿勢、表情、返事の速度まで評価される。
だが、この領地では違う。誰も、彼女へ王子妃らしさを求めない。子供たちは普通に駆け寄ってくるし、商人たちは景気の話をし、老人たちは畑の相談を持ってくる。それが、妙に嬉しかった。
「アレクシア様ー!」
城下の少女が、小さな花束を抱えて駆けてくる。
「今年は花の咲くのが早いんです! お礼を言いたくて!」
「ありがとう。とても綺麗ね」
しゃがんで受け取ると、少女は頬を赤くした。
「アレクシア様が来てから、うちの畑、全然違うんです! お父さんも、お母さんも毎日笑ってます!」
「それは、あなたたちが頑張ったからよ」
「でも、みんな言ってます! 女神様が来たって!」
アレクシアは苦笑した。最近、領民たちの間でそんな噂が広がっている。困るからやめてほしいと言っているのに、むしろ信仰が強くなっている気がした。
「……女神ではないのだけれど」
「そういうところも好きです!」
元気よく言い切られ、アレクシアは言葉に詰まった。その時だった。後ろから、ふわりと黒い外套が肩へ掛けられる。
「朝の風はまだ冷える」
低い声が耳元へ落ちた。ヴォルフガング・フォン・シュヴァルツ公爵だった。黒い軍服姿のまま立つ彼を見た瞬間、周囲の空気が少しだけ張る。だが、以前のような恐怖ではない。今では領民たちも知っていた。この氷の公爵が、アレクシアにだけ異常なほど甘いことを。
「ヴォルフ、仕事は終わったの?」
「終わらせた」
「また無理をしたのでは?」
「君の隣へ来るためなら安いものだ」
平然と言われ、アレクシアの頬が熱くなる。最近、この人は本当に遠慮をしなくなった。婚約を正式に発表して以降、隙があれば抱き寄せられ、手を握られ、髪に口づけを落とされる。しかも全部、人前で当然のようにやる。
「公爵様、最近ますますお嬢様を甘やかしておりますな」
いつの間にか近づいていたグレイグが、呆れ顔で口を挟んだ。
「問題あるか」
「ございませんが、執務中に膝へ乗せるのは、さすがにどうかと思います」
「座り心地がいい」
「ヴォルフ!」
アレクシアが真っ赤になる。だが、ヴォルフガングはまったく反省した顔をしない。むしろ、楽しそうだった。
「事実だろう」
「そういう問題ではありません!」
「なら、今夜改めて確認するか」
「グレイグ!」
「私は何も聞いておりません」
老執事が即座に視線を逸らした。周囲の騎士たちまで肩を震わせている。アレクシアは額を押さえた。冷酷公爵とは何だったのか。王都で聞いていた噂と、今目の前にいる男が一致しない。だが、その違いが嫌ではなかった。
◇
正式な結婚後、アレクシアは、公爵城の私室で書類を整理していた。帝国との交易路整備、新しい魔導炉設計、北部村落への食料支援、ローゼンベルク辺境伯家の領地への魔力供給も忘れてはいけない。忙しい。だが、不思議と苦ではなかった。王都にいた頃は、失敗しないことばかり求められていた。
今は違う。どうすれば領地が豊かになるか、皆が笑えるか。良くなる為の仕事だった。
「また仕事をしているのか」
扉が開き、ヴォルフガングが入ってくる。湯上がりらしく、黒髪が少し濡れていた。
「もう少しで終わるわ」
「終わらなくていい」
「そういうわけには――」
言い終わる前に、ふわりと体が浮いた。
「きゃっ……!」
気づけば抱き上げられている。
「ヴォルフ!」
「今日は私の時間だ」
「子供ではないのだから、自分で歩けます!」
「知っている。だが、抱えたい」
真顔だった。本当に真顔だった。アレクシアは抵抗する気力を失い、そのままソファへ下ろされる。すると当然のように、ヴォルフガングが隣へ座り、彼女を腕の中へ閉じ込めた。
「……近いです」
「まだ遠い」
「何がですか」
「距離が」
低く囁かれ、鼓動が高まる。アレクシアは視線を逸らした。この人は時々、こういう言葉を躊躇なく投使う。戦場では敵を追い詰める男なのだから、逃げ道を塞ぐのが上手いのかもしれない。
「アレクシア」
「……なに」
「君は、まだ時々遠くを見る」
その言葉に、アレクシアは瞬きを止めた。
「王都を思い出しているわけではない。ただ、長かったからな」
ヴォルフガングの指が、彼女の銀髪をゆっくり梳く。
「無理に忘れなくていい。だが、これからは私がいる」
「……うん」
「君を侮辱する者は許さない。君を泣かせる者もだ」
その声音は穏やかなのに、奥底に冷たい怒気が潜んでいた。きっと、この人は本当に容赦しない。アレクシアのためなら、国だろうと踏み潰す。そんな危うさがある。けれど今は、その危うさが恐ろしくなかった。
「婚約破棄された時は、終わったと思ったわ」
ぽつりと零す。
「王太子妃になるためだけに育てられてきたから、自分が空っぽになった気がして」
「空っぽなものが、大地を蘇らせるものか」
「ふふ。慰め方が不器用」
「君限定だ。許せ」
アレクシアは肩を震わせて笑った。こんなふうに笑える日が来るなんて、昔は思わなかった。
「ねえ、ヴォルフ」
「何だ」
「婚約破棄されてよかった、って思えるようになったの」
ヴォルフガングの瞳が、静かに細められる。
「私もだ」
「あなたは関係ないでしょう」
「ある。あの愚かな王子が君を手放したから、私は君を得られた」
彼はそう言って、アレクシアの額へ口づけをした。
「感謝する気はないがな」
「そこはしないのね」
「当然だ」
そして、今度は唇へ触れる。優しいのに、強い口づけだった。窓の外では、氷狼たちの遠吠えが夜空へ響いている。白狼が、モフモフの体で、私に寄り添っている。
王都では今も、聖女エレナの奇跡が消えたことへの混乱が続いているらしい。ラインハルト王子は、支持を失い始めていると聞いた。だが、もう関係なかった。
アレクシアには、守りたい場所がある。愛してくれる人がいる。そして何より、ようやく自分の人生を、自分で選べるようになった。ヴォルフガングの胸へ額を預けると、大きな手が優しく背を撫でる。
「アレクシア」
「なに?」
「愛している」
低い声が、胸の奥まで染み込んだ。だからアレクシアも、小さく笑って答える。
「私もよ。ヴォルフ」
暖かな灯りの中で、二人は静かに寄り添った。北の大地を包む雪は溶け、新しい春が始まっていた。
完。
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