ある日、神は僕に告げた
「早く早く!」
浮かれてる彼女に『らしくない』とは言えない。だってあかりは笑顔の天才だからだ。とは言え、いつもより二倍の笑みを浮かべているいたずらな少女から、どうしても目が離せない。
「落ち着け。また転びたいのか?」
「だって今日は『見習い神』の受験の合格発表だし!」
高校生活を終えたはずの大人が『受験』を口にするのはきっと大変珍しい。だが、ここは地球ではない『空の国』。天使なら誰もが目指す最後のゴール、それは『神』である。
「自信はあるのかい?」
「合格間違いなし。必ず合格してみせる!」
「ったく」
恋人は子供のように無邪気にはしゃぐ。その笑顔が好みだからタクトは今日も振り回される。まあ、なんだかんだ言っても惚れたほうが負け。それは天国だとしても不変の真理。
「忘れるな、あかり。神を目指す天使は何億人だ。簡単になれるわけがない」
「うん、わかってる」
かつて人間であった魂は資格を取り天使となる。その中で、次世代の神を目指す者を我らは『見習い神』と呼ぶ。見習い神の数が多すぎて、誰もが何年もかけて受験勉強をする。
「不合格になっても落ち込むな。たとえ何があっても俺はお前の味方だからな」
「ありがとう、タクト。私今、チョー嬉しい!」
あかりはタクトの手を取って自分の頬に添えた。目を閉じたあかりは肌がすれ違う感覚に身を任せた。
「じゃ、行ってくるね!」
「ああー」
あかりは軽く手を振り、合格発表の掲示板に駆けつけた。
「どれどれ」
あかりははり出された合格者の受験番号に集中している。いくつもの数字の中で自分の番号を見つけたあかりはすぐ泣きそうになった。
「やった…!」
あかりは両手で頬を挟んだ。一人で喜んでる場合じゃない。あかりはタクトのところへ走り出した。
「どうだった?」
「もちろん合格!」
あかりは両手でピースした。
「泣くほどのことかよ」
一瞬の瞬きが溢れる涙を押さえつける。涙が頬を伝い流れ落ちる。タクトは指であかりの涙を拭いてあげる。
「えっへへ…お祝いしてくれるよね?」
「当然さ」
なんとなく恥ずかしくなったあかりの笑顔はぎこちない。笑ってるのにまだ涙は流れてる。
「ああ、お祝いの焼肉食べたいな~」
「見習い神たるものが命を食べたいと言ってんのか?」
「見習いだからいいんだもん!」
とは言え、空の国に肉などない。いや、天使である者はなにも食べたりしない。人間だった頃の記憶にすがって泣き言を言うだけ。だからこそ命を冗談にすることが出来るのかも。
「女神になったら世界にケーキの雨を降らす!きっとみんな喜んでくれるよね!」
「太るぞ」
「タクト意地悪っ…!」
あかりはムッとして下唇を突き出す。あかりの頬は文句で膨らんでる。タクトが彼女の頬を指でつつくと、風船が萎むように怒りが抜けていく。
「ねえ、私が女神になったら、タクトは私の『決め天使』になって!」
「決め天使は指定される者じゃねえ。人事異動による発令だろ」
「新しい世界の女神様はそんな難しいこと望んでないっ!好き勝手にしちゃうから!」
「…仕方ねえな」
仕方ないってどういう意味だろう。疑問を抱いたまま首をかしげる。その際、タクトはポケットを探り、小さな指輪ケースを取り出す。あかりは驚いて目を見開く。慌てるあかりの左手の薬指にタクトが指輪をはめてあげる。
「タクト、これって…」
「俺だけの女神になって欲しいが、お前の夢さえ俺は応援する。だからお前の世界にどこまでもついていく」
言葉がうまく出てこない。伝えたい気持ちはたくさんあるのに。感動で喉が詰まる感覚。ようやく紡ぎ出した言葉は、今の気持ちの半分のさらに半分にも及ばない。
「ありがとう…!」
自分の手を握りしめたあかりの指からダイヤモンドが燦然と輝いた。
***
月が満ちた夜。恋人同士はベッドで横になり、生まれたままの無邪気な姿で見つめ合い抱きついている。
「しばらく神殿で二次受験の合宿って」
「へえ」
「へえじゃないよ!タクトは寂しくないの?」
「お前の夢だろう?応援するだけだ」
新しい世界を作る。それは何千年もの間待ってたチャンス。
人間の頃、あかりは病気だった。白い壁と天井だけがあかりを向かい合った。隣には病気の子供だけ。あの子もこの子も苦しそうだった。
不思議だろう。しかめっ面で泣いてたあの子も、大好きな世界とのお別れを直感したら家族のため頑張った。最後は笑顔でしたい。その願いを込めて、酸素マスクが曇るまで痛みを飲み込み愛を吐いた。
友達を作ろうとした時もあった。部屋の皆と話し合った。明日がお楽しみだった。またあえるって信じてた。
夜が過ぎたら友が一人ずつ消えた。見慣れた友が目を閉じたまま運ばれる。日が経つと、見慣れた顔は見えなくなり、新たな痛みと向き合う。
(もし、私が神であったら子どもたちに痛みなんか与えない)
ある日のあかりは願ってしまった。子供がただ幸せに人生を楽しんで欲しい。あかりには出来なかったが、生まれてくる命には。命だけには。
「うん。私は女神になる。そして私だけの世界を作る!」
ここまで来られたのは全部応援してくれる人がいたから。タクトがいてくれたから。
「ありがとう、タクト。私負けないよ!」
「ああ、それでいいんだ」
タクトはあかりの額にキスした。肌がくすぐったくてあかりがくすくす笑った。そう、明日から新たな日常の始まりだ。立ち止まらずに走り出すんだ。甘い夢に包まれて、あかりは目を閉じた。
***
夜明けに目覚めたあかりの隣にはタクトがいる。いつも通りの毎日にあかりは安心してそっと起きた。聖なる白さに着替えたあかりはまだ夢の中で泳いでいる。
「ふふっ…じゃ、行ってくるね」
離れていても心配ない。あなたからもらった想い出はポケットにして、あなたへの愛情はここに置いていくから。心はずっと通じ合ってる。
靴を履いて、ドアをきちんと閉めて、外に出たあかりは神殿を見上げた。宇宙の始まりと同じ年の神殿。灰色にちかい外装材はかつて白かったはず。日差しに焼かれたキラキラの色ではない。長い年月に晒されていずれ何も残らず消えてしまいそう。
威圧感を放つ建物の前であかりは深呼吸。負けるわけにはいかない。夢のためにも、タクトのためにも。
「頑張らなくちゃ…」
気合を入れたあかりは優しい笑顔を装備して、一歩踏み出した。庭とは言えないとても広い自然。まるで森の中を歩んでいるみたいだ。
霧がかかった道を進んでると、ようやく神殿の人々と出会った。誰もが真っ白な服を着て仮面を被っている。
「わっ、こんにちは!」
返事がこない。気まずいほど、だれもあかりに気づいてない。いや、『存在は認識している』のに、まるで相手にしていない。
「えっと…今日から…神殿で合宿することになって…」
あかりは明るくあげた手をそっとさげた。もじもじしてると、花に水をやっていた人が一人立ち上がる。
「ええ、もしかして案内してくれるんですか…?」
振り返らず進む白さをあかりは急いで追いかける。でも、長い廊下は始まったばかりだった。
***
廊下は果てしなく続く。神殿の奥にたどり着いたら、白い人は立ち止まり、手をあげて何かを標す。
「えっと、入ればいいんですか…?」
また、返事は来ない。何も言わずに大きな門を手で指し示す。その姿になぜか圧倒されて、あかりはそっとノブに手をかける。両手をドアに乗せたら、一瞬、ドアが白い光を放った。
強い風に包まれて、目を開けることさえできない。反射的に手をあげて風を塞いだが、指の間さえ風は許せない。
このままではいけない、と判断したあかりは体を押す風を正面から受けながら一歩踏み出した。一歩ずつ歩み風の終わりへたどり着いたら、あかりは空気に弾き飛ばされた。
「ふむ」
あかりの足掻きを見ていた世界の主は、かなり満足したようだった。後ろの湖のほとりで枝を揺らしてた宇宙樹は驚きの呼吸音を隠せない。
「お、お目にかかれて光栄に存じます…」
ぼうっと主を見上げてたあかりは気を取り直してご挨拶を。玉座の主はあかりを見下ろして余裕のある笑みを見せた。
「余は、ずっとそなたを見守っておった」
「こ、光栄です…!」
あかりは感動した。頂点に立つ者に見守られていたなんて。まるで選ばれた存在になった気がする。
「神たる者は白紙より清い存在。それは果てしなく辛く、残酷だ。それでもこの道を歩もうと決めたのか」
「はいっ…!」
そう、この思いは強い。決して消えない。だから主の期待を裏切らない。
「よかろう」
主は指を鳴らし、首飾りを作り出した。そのきらめきに引かれたように、あかりの瞳には白い光しかうつっていない。
「すべての者に等しくあらねばならぬ」
「…はい」
「それがため、そなたは太初の姿へと立ち返らねばならぬ」
首飾りへと手を伸ばしてたあかりは、なんとなく感じられる違和感に立ち止まった。
「太初の姿って…?」
「握りしめたすべてを手放し、無垢なる状態へと立ち戻るのだ」
一番公平な者は何も持たぬ者。太初の姿ってきっと、生まれたままの無邪気さ。記憶や感情さえ捨てること。
「じゃあ、何も覚えていられなくなっちゃうんですか…?」
「女神となれば、そのようなものは意味を失うであろう」
「そんなことないです!」
記憶は人生の道しるべとなり、進むべき迷路を照らしてくれる。かけがえのない人がそばにいてくれるから、震える手を握りしめてまた一歩ずつ進んで行ける。
「心はなにより大事なもの。だから諦めるなんて絶対いや!」
すべてをかけて声をあげるあかりとは違って、主はただあかりを見下ろしている。そう、人間は蟻の抗議を聞いたりしない。主だって同じ。天使ごときの声は届かない。
危ない、と体が警告する。細胞の一つ一つが怯えてる。震える脚で後ろを向いて走り出すが透明な壁が立ち塞がるように前に進めない。
「そなたはすでに盟約を果たした。ゆえに、その盟約を履行せ。」
「ぬっ…!」
後ろの首飾りが近づき、あかりを大いなる翼で包んだ。足から髪の毛まで包み込まれたあかりは真っ白な世界で気を失った。
宇宙樹は今、とても困惑している。気が遠くなるほどの長い時間が経った。大いなる存在にずっと合格者の名簿を捧げ続けてきたが、かくも満ち足りた反応を目にするのは初めてであった。『完全たる神の資質を宿した子が一人おる』と聞いたが、それはあの少女のことか。
「主よ、完全と不完全は神への資質ではない。だからあなた自身がその枠を超えてみたらどうか」
主は忠告する宇宙樹を無視した。この座に座るまで、主はかなり大きなものを捨てた。それがどれほど大事だったか、もはや覚えていないほど。
それはきっとなんの意味も持たない。だから主は一番高いどころで天使を見下ろしてる。だから神を名乗りたいものは、主のように感情を排除すべきだ。そうなったらいつか、主の理想を理解してくれる者が出来上がるかも。
今日こそ、久方ぶりに傑作が生まれそう。
***
合宿は今日で二日目を迎えていた。同時に、あかりからの連絡が途絶えて二日目でもあった。
「まったく……しつこい奴らだな」
あかりは無事なのかと問いただしたが、首を振るだけ。『会わせてほしい』と頼んだが、あっさりと退けられた。合宿が終わるまでは許されない。それが彼らの答えだった。
これほど不安にさせておきながら、ただ『待て』と言うのか。そんなもの、納得できるはずがない。タクトはひとまず頷いたふりをしてその場を下がり、脇道に逸れた。そして神殿を取り囲む頑丈な塀へと駆け寄り、迷いなくそれを乗り越えた。
(無事にいてくれよ、あかり)
不安になり始めたのは今朝。顔を洗っていたそのとき、鏡が自分で砕け散った。まるで自らの意思で壊れたかのように。
胸の奥から変な感覚がもやもやする。いけない、と拳を握りしめた。知らず知らずのうちにタクトは衝動的に神殿へと駆け出していた。
「あかりのやつ、心配させて」
連絡してないあいつのせいだ。きっと『なんでここにいるの?!』って怒られる。だけど、それより数倍は喜んでくれる。俺たちの喧嘩は愛情から芽生えるもの。そういう関係だ。疑いなどない。
茂みをかき分けて進むと、遠くで風に揺れている赤髪が見えた。やはり、心配して損しただけか。タクトは安堵のため息を漏らしながら、あかりのもとへと歩み寄った。
「あかりー」
だが、タクトに気づいたあかりはすぐに視線を逸らした。初対面の相手に投げ出す、無神経でよそよそしい態度だ。なんとなくすれ違うあかりの腕を、タクトは慌ててつかむ。こんな面白くない冗談、いい加減にやめてほしい。だが、振り向いたあかりの透明な瞳には、ただ純粋な戸惑いだけが浮かんでいた。
「誰?」
胸が割れそう。耐えきれない。悲しみまみれの衝撃は放っておいて、一歩前に進む。割れた胸の欠片を集めてきれいな文章にしたいが、どうしても喉から声が出てこない。
「ー侵入者、排除」
白い仮面の人が突然、タクトを掴んだ。相手は数人。敵うわけがない。あがくタクトを制圧した白い人らは彼を連行した。
「あかりー!」
普通、見知らぬ人から名前を呼ばれて喜ばないだろう。だからあかりは瞬きをするだけ。タクトのため走り出したりしない。ただ、侵入者を捕まえてよかった、と思ってる。
白い人たちは暴れるタクトを連れて神殿の中に。騒ぎは終わったかと思ったら、タクトは脱出するため白い人らを押したり、抜け出すため手をあげたりする。
「あ、あああ…!」
あかりの目に映したのは、タクトがつけている指輪。左手薬指にはめられている指輪と、まったく同じ形。
あかりは愕然として、その場に崩れ落ちる。恋人を忘れてすれ違うなんて最悪。一生かけて償わなきゃ。
立ち上がったあかりはタクトを追いかけようとする。だが、白い者らがあかりを阻もうとして、立ちはだかる。無数の手があかりを包み、掴もうとする。あかりは伸ばした手から逃げ出して、神殿の中へ。
***
「離せ!」
タクトは激しく憤っていた。できることなら、この神殿ごと打ち砕いてしまいたい。今は押さえつけられている身だが、いつかきっとーー。
「くそっ…神ってやつ、打倒してやる!」
人々はタクトを玉座の下へと引きずり、無理やり跪かせた。神の威圧は凄まじい。それでも、今のタクトには神すら恐ろしくはなかった。歯を食いしばり、声を張り上げようとした、そのときー。
「女神となる者は、清らかでなければならぬ。そなたという痕跡を消せば、あかりは女神となり、幸福になれる。」
神の声が鼓膜を震わせる。
「そなたさえ、諦めばよいのだ。」
タクトの動きが止まった。人々はタクトを押していた手を離した。崩れ落ちそうな身をどうにか支えながら、タクトは神を睨み上げる。
あかりの幸せのため。その残酷な声音に、偽りはなかった。他の誰かのためだというのなら、今すぐにでもすべて壊してやる。だが、それではあかりが不幸になるだけ。その事実に貫かれて、タクトは強く拳を握りしめた。悔しい。だが、神の言葉は正しかった。
***
あかりは神殿の廊下を駆けている。だが、神の領域において、天使のもがきは無意味だった。走り続けても部屋への扉は見つからない。疲れたあかりはついに膝をつく。
「わたしはあかりで、タクトは恋人…」
同じ言葉を、何度も何度も繰り返す。
「タクト、タクトは…!」
名を口にするたび、こぼれ落ちた記憶が無へと流れていく。息苦しそうなあかりが辺りを見回した。消えていく思い出を、どうにかつなぎ止めるため。顔も、声も、名前さえも、もう輪郭が曖昧で、思い出せない。
書き留めたいことは山積み。だけど歴史を残したいときは、いつもペンも紙もない。
逡巡の末、あかりはそっと自分の手を噛み、血を滲ませた。そして床に、鮮やかな赤で刻みつける。
―タクトハコイビト。
書き終えたその瞬間、目から涙が零れ落ちる。滴った涙が血と混ざり、文字を滲ませる。
「だめ、だめだめ…!」
慌てて手でなぞり直そうとする。だが、何を書けばよいのかが思い出せない。忘れてはいけないのに。繰り返していたはずの言葉がわからなくなった。
糸の切れた操り人形のように、記憶が途切れた。絶望に泣き崩れていたあかりは、やがて自分がなぜ涙を流しているのかさえ分からなくなったまま、ゆっくりと立ち上がる。涙を拭いたあかりは、自室へと戻っていった。まるで何事もなかったように、しれっとした顔で。
***
新たな女神の誕生を祝して、盛大な祭りが開かれた。まもなく異なる世界へと旅立つあかりを、せめて最後にひと目だけでも見たくて。タクトは神との約束を破った。
べつにいいだろう。遠くから見るだけなら問題はない、と自分に嘘をつきながら。
タクトは儀式に臨むあかりを、はるか遠くから見ていた。俺は天使のまま立ち止まってしまったが、お前は自らの星へと旅立っていく。もはや届かぬ存在となったあかりは、翼を広げ、遥か高みを目指していた。
(これで、終わりか)
思わずその背へと手を伸ばしかけた、その瞬間。あかりが、こちらを見た。一瞬、確かに目が合ったような気がした。
気のせいかもしれない。それでも、それだけで十分だった。だからこそタクトは、静かに踵を返す。振り向かぬまま、彼女から離れていった。
***
歩き続けていると、不意に背後から肩をつかまれた。反射的に振り返ったタクトの先に立っていたのはあかりだった。
「お前…?!」
肩で息をしてるあかりにタクトは思わず期待してしまう。もしかして、思い出してくれたのか。そんな淡い期待が胸をよぎる。だが同時に、それではあかりが女神になれないのではないかという不安も込み上げてきた。
「あの……もしかして、私のことをご存じですか?」
『あの』。名前ではなく、そんな他人行儀な呼び方。やはり、思ってないのか。握りしめた拳が、かすかに震える。
「…新しい女神様だろ、お前」
「そういうことではなくて!」
背を向けて立ち去ろうとした瞬間、後ろから手をつかまれた。
「その…なんだか、あなたをこのまま行かせちゃいけない気がして…!」
これ以上は危険だ。胸の奥が軋み、涙が滲みそうになる。
「帰れよ、女神様。神殿が心配する」
その手を振り払い、前へ進む。だが、足音が追いかけてくる。
「なんでついてくるんだ?」
「わ、わかりません……。」
タクトの質問に、ためらいがちに顔を上げるあかり。
「その答え、あなたは知ってるんですか?」
胸に矢が突き刺さったような痛みが走る。
「さっさと帰れ。お前の顔なんて見たくない」
「うそつき」
足が止まる。
「叫んでいるじゃないですか。あなたの瞳が。『私に気づいてください』ってー」
隠そうとしても無駄。言葉よりも行動のほうが早かった。視線さえ泣いてるのに、気づかないはずがない。
「…」
立ち尽くす。まだ、俺はお前の未練か。指輪を外してきて正解だった。
視線を落とす。あかりの左手には、まだあの指輪がはめられている。
純白の存在だとしても、それがある限り、いつ神格を失うか分からない。だから、ほんの少しだけーー
「少しでいい。お前を抱かせてくれ。これで最後だ。もう、欲張らない」
これは最後の挨拶。決して、わがままではない。
「…わかった。だから、泣かないで」
あかりはそっとタクトの胸に身を預けてくる。腕の中のこの匂いを感じるのは、多分これで最後。
ああ。やはり離したくない。だからタクトはゆっくりと腕をほどく。
だってあかりは何かを求めるような瞳をしていたから。その奥に潜む熱を、タクトは知っている。
次の瞬間、彼は迷わず唇を重ねた。驚きに見開かれる瞳。震える肩。だけど、懐かしくて。あかりは目を閉じて、自分をタクトに任せた。
「なっ…?!」
やがて、あかりは裏切られたような目で彼を見つめる。当然だ。無理やり魔力を流し込み、意識を落とす。女神の力を完全に抑えるには足りないが、しばらく眠るくらいはできるはずだ。崩れ落ちる体を支えながら、タクトは囁く。
「おやすみ、女神様」
背後から、神殿の使いが駆け寄ってくる。彼らは気絶したあかりを抱き上げた。
「おい」
タクトは白い者らを呼び止める。そして、自分の左手の人差し指を指し示した。使いは迷いなく頷き、あかりの指からそれを外して差し出す。
タクトはポケットからもう一つを取り出し、掌に並べた。二つで一対だった指輪が、静かに手の上で光を失っている。
***
あかりは叱られていた。なぜ叱られているのかは分からない。けれど、記憶のない頃の自分が何か過ちを犯したのだろうと、素直にうなずいた。
すると、神はそれ以上咎めるのをやめた。虚ろな瞳で首をかしげるあかりの姿が、思いのほか気に入ったからだ。
「さあ、これがそなたの赴く世界の座標だ。種から星を育て」
神はあかりの前に新たな時空を開く。あかりは使い慣れた首飾りに触れ、翼を呼び出す。飛び立とうとした、その瞬間。
不意に下腹部を鋭い痛みが襲い、あかりはよろめいた。床に膝をつき、戸惑いに目を見開く。
「…そなた」
神が顔をしかめるのも構わず、あかりはそっと腹部に手を当てた。
女神の力を巡らせると感じるのは。
「―胎動」
この中に、命が宿っている。わたしの知らない時間が、ちゃんと積み重なっている。そう。この世界で、見つけなければならない人がいる。
あかりは神殿を飛び出した。女神になることなど、もうどうでもいい。誰かを探さなければならないと、腹の奥のもう一つの心臓が叫んでいる。
村を駆け抜け、息を切らし、それでも走り続ける。やがて辿り着いたのは、雲の断崖。その縁に、見覚えのある背中が揺れていた。自分を置いていった、無責任な男の背中。それなのに、どうしようもなく、愛おしい。
あかりは全力でタクトに抱きついた。不意を突かれたタクトは、声を出すこともできない。ただ背中が涙で濡れていくのを感じながら、静かに目を閉じた。長い沈黙の果てに。
「ねえ、やっぱり神様なんてもうやめちゃおう?」
あかりがにこりと笑う。目尻に溜まっていた涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。
「人間になってさ。苦しいことも悲しいことも感じながら、一緒に年を取ろうよ」
「……ああ」
二人が強く抱き合った、その瞬間。首飾りに亀裂が走った。翼を失ったあかりと、神になる資格を持たぬ天使は、そのまま人間界へとどこまでも堕ちていく。
だが、不思議と恐怖はなかった。二人の瞳に宿っていたのは、ただの幸福だけだった。
***
「理解できぬ」
神は低く呟いた。人間界は、いずれ滅びゆく者たちの住まう場所。感情は永遠ではなく、愛の熱はいつか冷める。より高みを目指さず、あの星へ堕ちるとは。あかりの選択は、神にただ混乱だけを残した。
「かつて、お前と私は意見を違えたな」
そう言って、神を見守っていた宇宙樹が静かに口を開く。
「お前は、純白の天使だけが世界を統べる資格を持つと言った。だがな、神とて完全に平等ではあり得ぬ。優しさを愛し、悪を憎む気持ちが、世界を治める種となるのだ」
宇宙樹は、わずかに枝葉を揺らした。
「…それを理解できぬお前は、まだその座に在るべきだろう。ゆえに、あの子らを見守りながら、もうしばし待つがよい。」
***
神は疑念を宿した眼差しで、人間界を見下ろしていた。見慣れぬ春が過ぎ、夏の熱が大地を押さえつけたかと思えば、ほどなくして冷たい風が吹き始める。季節はせわしなく巡り、止まることを知らない。
そのあいだに、腹を大きくしたひとりの妊婦が、重たい買い物袋を提げて家路を急いでいた。
やがて仕事を終えた夫が駆け寄り、勢いよく妻を抱きしめる。そして半ば奪うように荷物を持ち「無理するなよ」と笑った。
寄り添いながら帰っていく二人。決して完璧ではない。転びそうになり、言い合いをし、また笑い合う。
その不完全な姿を、完璧という殻に包まれた神が、ただ黙して見つめていた。




