第8話 イチジョー・クラッシュ
一
「プレジデント・イチジョーの報復作戦失敗!」
というニュースは世界をかけめぐった。
USCB(中央銀行)の機能停止と敗戦ショックは相乗効果を発揮し、極度の金融パニックが生じた。それは、エノーマス・ウエンズデイをはるかに超える規模となり、
「イチジョー・クラッシュ」
と呼ばれた。
「JPモルガンの株が急落しました。底値だと思います。買いますか?」
と、音声ガイドを発したのはミラクル5000という名前の経済指標予測AIアプリであった。
「まだ早い」
と、ロスチャイルド男爵は言った。
だが、
「ゴールドマンサックス、みずほフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャル・グループ は経営破綻間違いありません。売りますか?」
という音声ガイドを聴いた男爵は、
「急げ!」
と、言った。
そして、
「中国工商銀行 (ICBC)は急上昇中です。どうしますか?」
という問いに対し、男爵は言った。
「買えるだけ買え」
男爵の配下には直接または間接的に資金提携している企業が3千社以上あると言われていた。それらの企業はそれぞれ配下の企業を持っており、末端の企業まで数えるのは不可能であった。それらの企業の半数以上はヨーロッパを拠点として事業を展開していたが、どれもUSAN経済と直結した経営体質をもっており、USANのDENや株や国債が暴落すると莫大な損失を計上し、3千を超えるロスチャイルド系企業のうちの7割が返済不可能な額の負債をかかえた。
しかし、男爵は、
「まあ、こういうこともあるさ」
と、側近たちにうそぶいていた。
一族の者たちや配下の経営者たちが押しかけてくると、
「大丈夫、心配するな。ただ、あと半年間は資産を切り売りしてしのげ。投資はするな」
というようなアドバイスをした。
が、庶民は凄惨な状況に追い込まれた。
ヨーロッパでは失業率が跳ね上がった地域のイスラム系左翼思想団体がまず騒ぎだし、これが米国圏のインテリ層に火をつけ、USAN国内全体に火の手が広がると局地的な騒乱は本格的な暴動へと変質し、飢えた市民が徒党を組んでショッピングモールの倉庫を襲撃するような事件が続発した。警察官たちは最初のうちこそ戦う素振りを見せたが、しばらくすると制服を着なくなった。
USANの各州はそれらに対して州兵を派遣したが、徒党を組んで反政府運動を展開していた者たちが自警団のような組織をつくった地域にはどこからともなくロケット砲やレーザー砲などの武器が支給され、自警団は武装勢力と化した。
「こうなったらアーミーのロボット兵を送り込むしかありません」
と、国防長官は言った。
が、ラスキン国務長官はこれに反対した。
「次の選挙のことを考えると、自国民に対してロボット兵をつかうのはまずいです」
ということだった。
「プレジデント・イチジョー、どうします?」
と回答を迫られたネモリンは、
「とりあえず、様子を見るしかないんじゃないかな?」
と、孫冲の顔を見た。
すると、首席補佐官が、
「自警団などに武器をわたしているのは人民解放軍だと思われます。黙って見ていると取り返しのつかないことになりかねません」
と言った。
孫冲は、これに同意し、
「政府が健在であることを示すためにも断固たる姿勢を見せるべきよ」
と言った。
ネモリンは、この件についてはレジスレイターの提言を求めなかった。
中国への報復作戦の失敗がレジスレイターのせいだったと確信していたからである。
二
南関東州の州知事となっていた金字塔は、武装勢力が暴れ出すと即座に州兵を動員した。
が、兵数が足りず、北関東州の上院議員を務めていたユン・さやかに援助を求め、北関東州の州兵を動員することに成功した。
このとき、北関東州の州兵を引率して南関東州に赴いたのはマーク・ウィルソンという名の大佐であった。
「よろしくお願いします」
と、ユン・さやかに頭を下げられたマークは兵数にして2千ほどの1個旅団とともに横浜市に入り、そこで待期していた1万ほどの地元の州兵と合流した。
「北関東州第2旅団を率いてまいりましたマーク・ウィルソン大佐であります」
と自己紹介したマークは、見事な敬礼をして見せた。
金字塔はこれに対し、
「よく来てくれた。感謝します」
と謝辞を述べ、南関東州の州兵約1万を率いる師団長の指揮下に入るよう要請した。
「よろしく頼む」
と、師団長は言い、短く敬礼した。
年齢はマークとほぼ同じであった。
「こちらこそよろしくお願いします」
と、マークは応えた。
が、その敬礼も短かった。
本来なら格下のマークは直立不動の姿勢をとってしっかりと敬礼するべきであった。が、そうしなかった。
師団長は、
・・・・・・威勢のいいアメリカ人だな、
と思った。
師団長は日本人であった。名は、
田島元也、
といった。普段は市役所に勤務しており、市民局の局長であった。州兵としての階級は少将であった。
ちなみに、その田島師団長は少将であり、階級はマークの上であったが、マークはその指揮下に入ることに違和感を覚えた。
州兵は基本的に非常勤の兵であり、平時は一般市民として暮らしていた。ほとんどはボーイスカウト経験者で、ボーイスカウトのときに得た資格によって入隊するときの階級が決まっていた。
そして、マーク・ウィルソンはイーグルスカウトというボーイスカウトの資格を持っており、この点では田島よりも格上であった。
また、田島師団長は非常勤の士官であったが、マークは常勤の士官であった。
・・・・・・この田島という市役所職員は素人だな、
と、マークは思い、そこが違和感となっていた。
「川崎市での暴動がひどいと聴きましたが、我々も川崎市に行けばよろしいでしょうか?」
と、マークは田島師団長に尋ねた。
田島は、余裕のある態度をつくって見せ、
「そうしてもらえると助かる」
と言った。
「弾薬の補給などはお願いできるのでしょうか?」
と、マークがさらに質問すると、
「それは聞いていない。食事は用意できると思うが、弾薬はそちらで手配してもらいたい」
と、田島は答えた。
マークは、はりきっていた。
ゴム弾やスポンジ弾などの低致死性兵器を大量に運んで来ていたが、M4ライフルやM17ピストル用の実弾も大量に持参しており、少量ながらロケットランチャーとそれ用のロケット弾も用意していた。それらは大型トラック12台に積み込まれていた。
マークは最後に、
「我々は、そちらの師団の指揮下に入りましたが、遊撃隊として自由に活動したいと思います。よろしいでしょうか?」
と言った。
田島が困惑していると、横から金字塔が割って入り、
「田島局長、ここはプロにまかせましょうや」
と、言った。
市役所職員は州知事の部下ではなかったが、田島には州知事に抵抗する気力がなかった。
三
戦闘となったのは川崎市の東京湾側の池上町であった。
その地域には大小の工場が密集しているうえに古い街並みも残っており、東京湾を横断するアクアトンネルで千葉県ともつながっていた。
住民の多くは海外から入ってきた工場労働者で、賃金の支給が止まった途端に暴動が発生した。
暴動の首謀者は鉄鋼関連の大手企業で組合活動をしていた者たちで、その集団はあっと言う間に組織化された。その組織の長となっていたのは、
李アフマド、
という者で、その父親は中国移民3世であり、母親はガザ地区からの難民2世であった。
父の兄が北京に居住しており、これは人民解放軍の下請け業者の社長をしていた。武器や弾薬はそのルートから支給されていた。
田島師団長は李アフマドのアジトとなっていた4階建ての古い建物のある町のひと区画に5個旅団をはりつかせて包囲していたが、実弾による反撃を受けていたために内部への突入を控えていた。
マーク・ウィルソン大佐は、現場に到着するとすぐに周囲の情勢を探らせた。
すると、
「敵はかなりの弾薬を持っているようです。それらはアジトとなっている複合商業施設の廃屋の地下に保管されています」
という連絡がまず入った。
「どこからの情報だ?」
と、マークがその連絡将校に尋ねると、
「町の北側で取り押さえた住民の証言です」
と、連絡将校は答えた。
同様の報告が他からも入ったので、マークはその件を田島師団長に打診した。
「そんな話は聞いていない」
と田島は言った。
周辺住民を取り押さえるというようなことは市民局長としては思いもよらないことであった。
マークはさらに李アフマドの家族関係を洗い出し、その妻の妹を拘束し、組織の幹部となっている者のメンバー表を作成し、それらの関係者を20人ほど拘束した。
そして、
「突入作戦については、わたしが指揮をとってよろしいでしょうか?」
と、田島の許可を求めた。
「作戦はどんなものですか?」
と田島が尋ねると、
「拘束した関係者を盾にしてアジトの建物まで侵攻し、降伏を呼びかけ、従わない場合は建物ごと吹き飛ばします」
と、マークは答えた。
「それは、ちょっと過激すぎませんか?」
と、田島は思わず言った。
「では、どのようにしますか?」
と、マークが質問すると、
「周辺住民に救援物資を配り、安心させて投降者を募り、最後まで投降しない者をひとりづつ拘束する、というような手を考えていますが・・・・・・」
と、田島は答えた。
田島には実戦経験がなく、州兵の師団長という立ち場よりも市役所の市民局長という立ち場のほうを優先させていた。
マークは思わず笑ってしまったが、
「わかりました。我々は援護にまわりますので、それでやってみてください」
と言った。
四
田島がその作戦を開始すると、アジトの建物にたどり着くはるか手前で救援物資を積んだトラックが攻撃を受け、ロケット弾を撃ち込まれてドライバー他5名が殺害された。
トラックの前後をかためていた州兵たちは、あわをくって撤退したが、数名が拉致された。
マークはそれを見て、自分の作戦を決行した。
突入部隊は30名編成の部隊が20個に分けられ、八方向からアフマドのアジトに接近した。細い商店街の路地ばかりであったため、多勢で一気に攻めることができなかったのである。
南側から侵攻した部隊と北側から侵攻した部隊は李アフマドの家族や組織幹部の関係者をトラックの荷台に乗せ、そのトラックをバックで進ませた。
その後方からは、
「抵抗するな! 人質が死ぬぞ!」
と、拡声器で叫ばせた。
兵士たちは動くものすべてを排除するよう命じられていた。このため路地に飛び出した小動物にも、容赦はなかった。
アジトの建物は古びた4階建ての複合商業施設だった。
アフマドの関係者を荷台に乗せた2台のトラックは正面玄関と反対側の物品搬入口の前の大きな駐車場に後ろ向きで駐車した。
「抵抗するな! 抵抗するなら建物ごと爆破する!」
と拡声器で怒鳴りながらマークはアジトの建物のまわりを装甲車で一周した。
トラックの荷台に立たされたアフマドの妻の妹も手に持たされた拡声器で叫んだ。
「お義兄さん、もうやめて! お願い!」
すると、
建物の窓という窓に多数の小学生が顔を出し、
「やめてくださーい!」
と、口々に叫んだ。それらは立て籠もった外国人労働者たちの子どもであった。
マークは人質になった兵士の救出は考えておらず、10名ほどの兵士に大型のロケットランチャーを構えさせていたが、子どもたちの顔を見ると、
「ちょっと待て」
と、言いながら顔をしかめた。
そして、
「李アフマド! 自分たちの子どもが殺されてもいいのか!」
と拡声器で叫んだ。
すると、
「やれるもんならやってみろ!」
というアフマドの声が聞こえた。
その直後だった。
建物の屋上に現れたアフマドの手の者数名が州兵に向けてロケット弾を発射した。
・・・・・・しまった!
と、マークは思ったがあとの祭だった。
州兵の死傷者は2百人を超えた。
マーク・ウィルソンの享年は54となった。
五
その様子は衛星画像でネモリンの執務室にも届けられた。
「州兵の装備ではやはり無理ですな」
と国防長官は言った。
「USアーミーのロボット兵を出すしかないですなあ」
と、ラスキン国務長官も言い出した。
「ロボット兵は数に限りがあります。全国の紛争地域に派遣するのは無理です。やるならピンポイント爆撃でしょうな」
と言ったのは統合参謀本部議長であった。
「自国民に対して空爆は問題ですわ。来年の選挙のこともありますし・・・・・・」
と言ったのは山本次席補佐官(孫冲)であった。
宦CIA長官は、
「紛争地域の隔離がよろしいでしょう。通信や交通を完全に遮断して孤立させるのです」
と提言した。
レジスレイターの提言は、
「紛争地域に大量の現金を空から投下すべし」
というものであった。
暴徒となって暴れている者たちが憤っていたのは、給与の支給が止まり、クレジットカードなどによる決済が止まり、銀行のATMも止まった、という状況に対するものであった。商店などはすでに営業を停止してしまっていたので現金があっても買い物はできないわけだが、それでも、大量の現金を手にすれば、経済や流通が復活するのを待とう、と考えるようになるはず、
——というのがレジスレイターの論理だった。
多くの経済学者はレジスレイターの案によく似た提言を行っていた。
だが、孫冲はその案を笑った。
「なめられるだけよ」
ということだった。
ネモリンはラスキン国務長官の意見に賛同し、
「ロボットをつかいましょう。まずは、川崎からはじめましょう」
と言った。
「では、まず、池上町の封鎖ですな」
と、宦長官は言った。
川崎市池上町の封鎖はその夜のうちに完了した。
ロボット兵は潜水艦から放たれ、池上町の南側から上陸した。
李アフマドとその一味は1時間ほどで沈黙した。
ロボット兵が通った後にはおびただしい数の死体が残ったが、その死体を処理するロボットはなく、翌朝になっても野ざらしのままだった。
そして、その映像がマスメディアやSNSを通して流出すると、各地の武装勢力は大きく反応した。同じ目に遭うことを怖れて降伏する組織が多数出たが、街を破壊してバリケードを高々と積み上げ、ロボット兵を撃退するための防衛システムを配備する組織も多数あった。それらの装備がどこから持ち込まれたのかについては不明であった。
六
ロボット兵の投入は、大阪湾岸、シカゴ南部、テキサス州ヒューストン郊外でも行われた。が、その地区では目に見える戦果が少なく、非戦闘員である女子や子どもの犠牲が大きくふくらんだ。
「もうだめよ」
と言ったのはネモリンの母親のルカであった。
「叔父さんから電話が来て、もうこの国にはいられないからオーストラリアに行くと言ってたわ」
と、ルカはさらに言い、泣き出した。
ネモリンはその母の言葉ではじめて自分が何をしているのかに気づいた。
ロボット兵が入った地区では州兵の詰所で脱走が相次いでいた。
州兵のほとんどは人を殺害した経験がなく、死体の処理なども未経験な者が多かった。ロボット兵の殺戮の後始末をさせられると、その作業に耐えられなくなる兵が続出した。
そのことが報道されると、ロボット兵がまだ入っていない地区でも州兵の脱走がはじまった。
「わたし、シャーミーを連れてニュージーランドに行ってますわ」
と、ネモリンの妻は言い出した。シャーミーとは下の娘の名であった。
上の娘はすでに旅立っていた。
「学校はどうするんだ?」
とネモリンは言った。
だが、シャーミーはかなり前から学校に行っていなかった。
そのことを知らずにいたネモリンに対し、金髪の妻は前々から思っていたことをクチにした。
「もう、別れましょう」
「もう、やめようと思う」
と、ネモリンは孫冲に相談した。ロボット兵の投入をやめ、レジスレイターの提言を入れて現金投下に切り換えようと考えたのである。
「それから、USCBのコンピュータだけど、これもレジスレイターに肩代わりさせようと思う。もはや個人情報がどうのという段階じゃないよね」
と、さらにネモリンは言った。
すると、孫冲は激しい語調で言った。
「今やめたら、これまでのことが間違いだったと認めることになるわ。すでに何人死んだと思ってるの? すべてあなたの責任になるのよ」
USCBのコンピュータが復元されたのはその1週間後であった。元帳の再構築についての行程は大幅にカットされ、孫冲が言ったように、ぱっぱ、と作業は行われたのだが、それでも作業には45日間という日数を要した。
そのときのDENはユーロに換算すると20分の1にまで下落していた。
USAN市場の平均株価は1年前の7パーセントとなっており、その下落率は1929年の世界恐慌を上まわっていた。
ようやく金融機関が動きだし、経済活動が再開されても、膨大な数の失業者はすでに生き場を失っていた。自殺する者の数は加速度的に増えていたが、メディアはその数を報道していなかった。
「逃げよう」
と、ネモリンが言い出したのは、その年の10月であった。
それを聞いた孫冲は、
「わたしに任せて」
と言った。
「ボクはでかけてくる」
と言って、対策会議が行われていた執務室のドアをネモリンが開けたのは翌日の午前3時ごろであった。
ネモリンはそのままホワイトハウスのウエストウイング内の東側の壁に埋め込まれていた金庫の扉を開けた。
金庫の中には、10万DEN紙幣の束が山積みになっており、ネモリンは両手でその山を崩して大きなボストンバッグの中に流し込んだ。それは、旧日本政府の制度を継承した「機密費」と呼ばれるもので、領収書を提出できないような政務に使う経費であった。
首席補佐官は、そのネモリンの行動をなんとか止めようと考え、
「ミスタ・プレジデント、あなたの行動は反逆罪に問われる可能性がありますよ」
と脅した。
が、ネモリンは薄ら笑いを浮かべて、
「あんたらはオレを暗殺したかったんだろ? いなくなったら嬉しいだろ」
と言い、ボストンバッグに詰めた札束を金庫に戻そうとはしなかった。
大統領専用の垂直離着陸機が爆音とともにレジデンス南面の芝生の庭の上にゆっくりと降りて来たのは午前4時をすぎた頃であった。
サーチライトに照らされたその機影を窓から眺めていたネモリンは、機体の車輪が着地するのを待たずに玄関ドアを開け、先頭を切って走り出した。護衛官4名と主席補佐官と孫冲と軍事補佐官がその後に従った。ルカは怯えて自室から出て来なかった。
ネモリンが機内に入ると、パイロットは「マリーン・ワン」というコールサインを使いはじめた。その垂直離着陸機は海兵隊の機材だったからである。
マリーン・ワンの中でネモリンはスーツを脱ぎ、顔や首や腕に小麦色のファンデーションを塗り、ぼろぼろのジーンズとよれよれのアロハシャツを着込み、すり切れた野球帽をかぶり、大きめの黒いサングラスをかけて、派手なサンダルを履いた。
孫冲は、着替えが終わったネモリンを見て、
「完璧ですわ。どう見てもインチキサーファー」
と流暢な日本語で言ってくすくす笑った。
「リルちゃんも早く着替えないと」
とネモリンは言った。
そして、
「ボクにはもうリルちゃんしかいないんだ」
と、しみじみ言った。
孫冲は護衛官たちの面前でそのような話をするのをイヤがり、
「ミスタ・プレジデント、ダメですよ」
と、ネモリンをたしなめた。
マリーン・ワンは南に針路をとった。
これがネバダ州ラスベガス市のハリー・リード国際空港に着陸したのは午前5時頃であった。
機を降りたネモリンは、
「ここからは2人だけで行動するから、キミたちはホワイトハウスに戻ってくれ」
と、護衛官や補佐官たちに告げた。
すると、首席大統領補佐官は、
「ミスタ・プレジデント、それでは、今後の公務はすべて副大統領にお任せするということでよろしいですか?」
と、もの柔らかに尋ねた。
ネモリンはそこで、ニヤリと笑って何事かを返答しようとした。が、それよりも先に孫冲がそのクチを左手で押さえ、
「ダメですよ! そんな質問に答えてはダメ!」
と、ネモリンを叱りつけた。
そして、軍事補佐官が手に持っていた黒いブリーフケースを指差し、
「それはわたくしが預かります。あと、ビスケットも預かります」
と、首席補佐官に言った。
黒いブリーフケースは、The Nuclear Football、と呼ばれるもので、これには大統領がホワイトハウスを離れている際に、指揮命令を行うための通信機器や軍事行動を行う際のマニュアルなどが入っていた。
ビスケットというのはプラスチック製の暗号カードで、大統領が本人であることを認証するためのものである。
それらを持たない場合、大統領は大統領としての責務を果たせないということになり、解任の要件となる。
主席補佐官も護衛官たちも、がっくりと肩を落とした。
それは、ラスキン国務長官が仕掛けた作戦であった。
もしもネモリンがブリーフケースかビスケットのどちらかを持たずに去ろうとすれば、職務放棄と判断し、その場でこれを拘束し、背任罪でFBIに引き渡すことになっていたのである。
間一髪難を逃れたネモリンは、機密費の入った大きなボストンバッグをかかえて孫冲とともに空港ロビーの雑踏の中に溶け込んだ。
そして、出発便の掲示板の前で足を止め、
「さて、どこに行こう?」
と、つぶやくと、
「わたしはプロヴァンスに行きたいわ」
と、孫冲が嬉しそうに言った。
「趙チャンミです」
と名乗って本物のパスポートを提出したネモリンは、出国手続きをすませ、そのままエア・フランスのファーストクラスに搭乗し、シャンパンを飲んだ。
「うまく行ったわね」
と、孫冲は言った。
パスポートの手配からエア・フランスへの乗り換えに至るまで、すべては孫冲の工作であった。
「助かったよ」
と、ネモリンは孫冲に頭をさげた。




