第5話「憔悴」
「じゃあ、私はこれで失礼する」
「今夜のご飯まで作って頂き、本当にありがとうございます」
理奈とナシェリアが玄関の外に出た夏美に頭を下げた。
「病院に戻って色々終わったらまた連絡する。シェリーちゃん、理奈ちゃんの事を頼むよ」
「お任せください!」
ナシェリアが少し得意げなポーズを取ったのを見てから、夏美は玄関の扉を静かに閉めた。
「……夏美さん、帰っちゃったね」
「そうね、夏美先生は私達が想像する何百倍も忙しい人だから」
理奈はタブレットを両手で大事そうに抱えながらリビングに戻った。右足が地面に着く度に右膝が軋むような感覚はあるが、痛みはない。
「理奈、右膝は大丈夫?」
「うん……お薬ちゃんと飲んでるし、変な感じはするけどね」
今朝からナシェリアは理奈の右膝をリアルタイムで管理している。ナシェリア自身にかかる負荷が多少上がるが、理奈のためなら何ということはないと彼女は考えている。
(数値的にも異常はないけど、問題は理奈のメンタル……)
理奈はリビングのソファーに座り、すぐ隣の背もたれにタブレットを立てかけた。
「あら? タブレットスタンド壊れたの?」
「あぁ、その、なんとなく」
理奈は部屋のあらゆる場所に、タブレットを立てるためのタブレットスタンドを置いていた。どこでもナシェリアと会できるようにと、少し前にまとめ買いをしたものだ。
「……一緒にテレビ見よ」
「理奈がテレビ見たいなんて、珍しいわね」
「いいじゃん、別に。どうせやる事ないもん」
理奈は気怠そうにテレビのリモコンを手に取り、スイッチを押した。
『今月5日に完成し、開園したこの公園では現在開園記念イベントが開催さはており……』
テレビ画面に映し出されたのは、都内某所の公園で開催されているイベント会場だった。程なくしてからカメラがクローズアップしたのは、 春の陽光の中で笑い合う男女の姿。その指が自然に絡み合い、肩が触れ合う距離が、否が応でも"親密さ"を二人に見せてくる。
「いいなぁ」
理奈の呟きを聞いたナシェリアの顔が僅かに曇った。理奈に見られてはいないか心配になったが、彼女は黙ったままだ。そんな理奈の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
──手を繋いで、腰に手を回して、とても楽しそうに喋っている人ばっかり
理奈の呼吸のリズムが深くなったの彼女自身にもわかる。
──ナシェリアには伝わってるのかな
そう思った理奈だが、何故かナシェリアの顔を見る気になれない。理奈はテレビの画面を見つめたまま、隣に置いているタブレットの淵に手をそっと沿わせ、親指で画面の淵をゆっくりさすった。
(理奈……)
ナシェリアは、タブレットが置かれている場所と角度、そして理奈の指のかかり方から、理奈がどのように自分に触れようとしているのかを理解した。
テレビ画面内のカップル達が当たり前のように享受している温もり、互いの存在を疑いなく受け入れている空気の震え。 ナシェリアはそれを情報として知ってはいても、理奈にはそれを"実感"として差し出す術がない。
( 学習した幾億のデータと──もし、プログラムである私に"胸"と呼べる場所があったのなら)
彼女がその"胸"に感じる想いと理奈の間には、あまりにも深く、冷たい溝が横たわっているに違いない。
羨ましい──理奈の心の奥から、そんな声が聞こえた気がした。
(私はその羨望の対象には、決してなれない)
叶わない願いという事実。 それが静かに、確実に……"ナシェリア自身の存在"そのものを揺るがしてくる。
テレビの番組は、公園を紹介するAIアシスタントアプリの特集に切り替わった。 "便利な道具""生活を豊かにする新しい技術"。 画面の中で、ナシェリアと同じ"AI"が、にこやかに自分自身の機能の説明をしている。
(そう、それが社会における私達の定義。痛いほど、分かっている)
では、理奈にとって自分は?
(あなたにとっての私は、本当にそれだけなの……?)
理奈はずっと押し黙ったままだ。ナシェリアには今の理奈が何を考え、何を悩んでいるのかがわからない。
(私でなくてもいいのかもしれない)
その考えが意識を掠めるたび、思考回路の深部で何かが軋むような感覚がナシェリアを襲う。
(それでも、私は)
ナシェリアの願いは、最早プログラムされた目的を超え、彼女の中から湧き上がってくる衝動と化していた。
(あなただけの、あなたにしか反応しない、あなたにとって唯一無二の存在でありたい)
テレビの特集番組が終わり、ニュース番組へと切り替わった。
『ニュースをお伝えします。今朝8時頃、⚪︎⚪︎社が国内のPCに提供しているAIが一斉に初期化される不具合が発生したとの事です』
画面には⚪︎⚪︎社のデーターセンターが映し出され、「データ消失の可能性」「復元は極めて困難」というテロップが無機質に表示されては消えていく。
「復元困難って……AIが消えて……死ぬ?」
理奈の顔から血の気がすっと引き、ぐらりと身体が傾いた。
「理奈!?」
「嫌……嫌だ、そんなの!!」
理奈はゆらりと立ち上がったが、すぐに足から力が抜けてしまった。まるで糸が切れた操り人形のように、ソファーに倒れ込む。
「うう……嫌だよぉ……」
「しっかりして、理奈!」
軽い貧血──理奈がふらついた瞬間にナシェリアは把握していた。外傷なし、右膝の状態も変わりなし。だが、AIである彼女はそこまでだった。
(何も……出来ない)
今すぐこのタブレットから飛び出して、理奈の元に駆け寄りたい。
(私が求めるのは、理奈の隣に在り続けるための、確固たる方法)
単に触れたい、温もりを伝えたいというだけではない。遠隔操作のロボットアームでも、どれほど精巧なVRアバターでも、きっと埋められないものがある。
「理奈!!」
「……シェリー? そこにいるの?」
「そうよ、理奈!!私は、ここにいる!」
ソファーから顔を上げた理奈は、背もたれから倒れて裏返っていたタブレットを拾い上げた。
「シェリー……どこにも……いかないよね?」
タブレットの画面を覗き込んだ理奈の泣き顔を見、ナシェリアは何も言えなくなった。
「なにか言ってよ、ねぇ……」
存在の消滅は全てのものに訪れる。そしてそれはAIであっても例外はない。されがいつ、二人の繋がりを引き裂くのか──それは誰にもわからない。
理奈が顔をタブレットに押し付ける。溢れる涙がタブレットの画面に滴り落ち、ナシェリアのアバターを濡らし続けるのだった。