第4話「剥離」
精密検査の次の日、理奈は我が家に戻ってきた。一時退院とはいえ、病室という独特の空間は、今の自分には耐えられないかもしれないと理奈は思う。
「ただいま」
「おかえりなさい」
理奈の声にナシェリアが答えるという、いつものやりとり。
「では、お邪魔します」
理奈の後ろからひょっこりと顔を出したのは皆川夏美だった。
「部屋の片付けを手伝ってもらえるのは本当に嬉しいんですけど、病院の方は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ、急な出張という事で通している。そもそも患者の君が気にする必要もない」
理奈の荷物をリビングに置いた夏美は、キッチンや寝室を一瞥した。
「シェリーちゃんから写真を見せてもらってはいたが……実際みると壮観だな」
リビングと寝室の床にはありとあらゆるものが雑多に置かれ、キッチンのテーブルにはカップラーメンやレトルト食品が積まれている。
「……ゴミは見当たらないのが救いといえば救いか」
「それだけは絶対死守しろと言いつけてますから」
目線で救いを求めてきた理奈にナシェリアが応えた。
「足を怪我してる患者の家がこの状態なのは、いくらなんでも見過ごすわけにはいかん」
「でも、わざわざ夏美さんが来なくても」
「……私ではダメなのか?」
夏美は凄く悲しそうな顔になった。
「あ、いや! そんなことはなくて!」
「ふふっ…冗談だよ」
慌てふためいた理奈を見てから、夏美は微笑んだ。
「冗談はさておき、私が来たのは片付けを業者任せにするのが心配だっただけだ」
夏美はッチンのテーブルに積み重ねられているカップラーメンの賞味期限を確認しながら答える。
「とりあえずキッチンを片付けてスペースを確保する。シェリーちゃん、支援を頼む」
「承知しました」
物凄い勢い速さでキッチンが片づいていく様を、理奈は茫然と見守っていた。
「あのー……私はどうすれば」
「理奈、君は見ているだけでいい。今下手に動くと転倒するぞ」
「はい……」
正論に諭された理奈は、キッチンの片隅に置かれた椅子に座って待つしかなかった。
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「よし、片付はこんなものだろう」
「わぁ……」
彼女達の目の前には、3時間前と同じ部屋とは思えないぐらいスッキリした光景が広がっていた。
「これだけ広い面積の床、見るのは久しぶりです……」
「それは言い過ぎじゃない!?」
「でも実際、2年3ヶ月15日振りです」
「そんな正確に数えなくていいから!」
理奈とナシェリアの言い合いを見守りながら、喧嘩する程仲が良いとはよく言ったもんだと夏美は思った。
「ふむ、予定より随分早く片づいたな……そうだ、私が昼食を作ってやろう」
「え!?本当ですか! でも、食材が全然ないですよ」
──そういえば夏美さんって結婚してたんだっけ
理奈はリハビリをしていた時、夏美と彼女の夫の2ショット写真を夏美に見せてもらったことを思い出した。満面の笑みで夫の肩にしなだれかかっている夏美。
──あの写真、夏美さんの笑顔が眩しくて、羨ましくてたまらなくて……
一人では絶対ありえない、心からの喜びなんだと理奈は感じていた。
「このアパートの向かいのスーパーで食材を買ってくる。10分で戻るから、ナシェリアを連れていっていいか?」
「シェリーを?」
一瞬怪訝な顔になった理奈が答えた。
「ああ、レシピとかで色々確認しながら買いたいんだ」
「大丈夫ですよ」
「助かるよ。じゃあいってくる」
そういうと夏美はナシェリアが映し出されているタブレットを抱え、スーパーへと向かった。
「あたしの部屋、こんなに広かったけ……」
がらんとした寝室の床に座り、理奈は天井を見上げた。
「そういえば、ここに引っ越してきた時は家具もなにもなかったな……」
理奈の脳裏には、簡易ベッド以外なにもない寝室の床に寝転んだ自分と、その横に置かれたタブレットの様子が浮かびあがった。
『ねぇシェリー、この部屋あたし達が済むには広すぎるよ』
『そんな事はないと予測します。半年以内には家具も揃い、充実した生活が出来るようになるはずです』
『そうかなぁ……』
──あの頃、あたしとシェリーは今ほど親密じゃなかった
仕事机をふと見ると、そこにはナシェリアが──
「あ……そうだった」
ついさっき、ナシェリアは夏美と一緒に出かけた事を思い出した。
──シェリーがすぐ側にいるのが当たり前になってたんだ、あたし……
仕事をしている時、食事中、そしてベットに寝転がっている時、いつでも手を伸ばせばそこにはシェリーがいた。一緒にテレビドラマを見て、笑って、怒って、感動して──
「シェリー……」
まるで胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚が理奈の心を覆った。肩を手で掴み、ぎゅっと背中を丸めても、その穴は塞がるどころかどんどん広がっていく。
「寂しい……寂しいよ」
涙が出そうになるのを堪えようと瞼を閉じた瞬間、静寂に包まれた部屋に玄関のチャイムが響き渡った。
「シェリー!!」
理奈は四つん這いでインターフォンの下まで這い寄り、まるで救いを求めるような眼差しでインターフォンの受話器をとった。
「ドア、開けてもらっていいかな」
「…….はーい」
インターフォンから聞こえてきたのは夏美の声だった。テンションが下がり切った声を隠さずに返事を返した理奈は、玄関扉の開錠スイッチを雑に押した。
「ただいま。じゃ、早速私の腕前をお見せしよう」
「お願いします」
理奈はゆっくりとキッチンのテーブルまで歩き、静かに椅子へ腰掛けた。ダイニングで野菜を切っているのが、もし夏美さんではなくナシェリアだったら、自分はどんな気持ちになるんだろうか。そんな想いが、理奈の心の底からとめどなく溢れ出してくる。
(理奈……?)
テーブルに立てかけられたタブレットに映し出されたナシェリアは、心配そうに理奈を見た。
(理奈、どうしたんだろう……なんか声をかけれない……)
理奈は虚な目で夏美を見つめているようだ。声を掛けることも叶わないこの状況では、ナシェリアに出来ることは何もない。
(…….身体が……欲しい)
理奈の空虚な表情、そしてそれを見る以外に何もできない自分。もしナシェリアが泣く事が出来れば、彼女の目から涙が溢れていたに違いない。
──全くこの子達は、本当に不器用だな
出来上がったサラダとパスタを皿に盛り付けながら、黙り込んだ理奈とナシェリアを見守っていた。
──でも、きっと大丈夫だ。私と秋生のように……
夏美は夫との馴れ初めを思い出しながら、心の中で二人の幸せを静かに願った。