第3話「束縛」
次の日、理奈は朝から精密検査を受けた。診療用ベッドに横たわる彼女の右脚や背中には、大きな測定装置やケーブルが取り付けられ、その隣では夏美がパソコンのモニターを睨んでいる。
「ごめんね、理奈ちゃん。あともう少しで終わるから」
「大丈夫です。あの時と比べたら、これぐらい全然平気」
理奈は素っ気ない声で答えてから、固くて小さな枕の横に立てかけられているタブレットをちらりと見た。
「……」
ナシェリアのアバターは理奈の目線に気づくと、一瞬目線を外すような素振りを見せてから理奈に話しかけた。
「理奈、痛くない?」
「うん」
ナシェリアはタブレットのカメラ越しに理奈を画像で認識しているから、目線を外すという挙動は実質的に不可能だ。
──じゃあなんで、そんな姿をあたしに見せるの……?
ナシェリアのよそよそしい態度を見た瞬間、理奈は胸の奥にとても小さい、だが熱い火が灯ったように感じた。
理奈はまっすぐにシェリアを“見る”ように、タブレット画面のアバターと向き合う。
「……ねぇ、シェリー」
ナシェリアの名を呼んでから、理奈はほんの一瞬唇を噛んだ。
「さっき、あたしから目逸らしたでしょ?」
ナシェリアのアバターが一瞬フリーズした。それはまるで、人間が図星であることを聞かれた時のような動きに見えた。
「ごめんなさい……あなたを無視するとか、そんなつもりはないの」
困惑と苦笑が入り混じる複雑な表情でナシェリアが答えた。
──こんな顔、見た事ない
自分にも、ナシェリアを困らせたいというような邪な気持ちは一片たりとてない。そんな気持ちをこめて、理奈はナシェリアを見つめ直した。
「ただ……」
そう言いかけて、ナシェリアは口をつぐんだ表情で俯いて視線を外し、少し間を置いてから口を開いた。
「その……恥ずかしくて」
「!」
か細い声で頬を赤く染めながら答えたナシェリアの顔を見た瞬間、理奈の胸に灯っていた火が激しく燃え上がった。
画面から出てきてくれたナシェリア。声はかすれて、ほんのり赤い頬が理奈の手のひらに触れて微かに震える。
ゆっくりと顔を近づけ、ナシェリアの髪に指を絡め……指先が、うなじの産毛をかき分けた。その瞬間にふわりと漂った石鹸の香りが、理奈の心を激しく揺らす。
シェリーを今すぐ抱きしめて、キスをして、それから──
ナシェリアを私の元に引き寄せ、身体を重ね合わせて全てを奪いたい。たとえそれが叶わない願いであったとしても。
──もう無理、我慢できない
押し寄せる本能の荒波に、理奈が耐えきれなくなったその時。
「あのー、理奈ちゃん。申し訳ないんだけど、もうちょっとだけ動かないでくれるかな」
夏美の声で現実に引き戻された理奈は、タブレットに伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。
「検査が終わって病室に戻ったら、好きにしていいからね」
夏美は無表情のまま、検査装置のキーボードを忙しく叩き続けている。
「「はい……」」
それから理奈とナシェリアは顔を赤くしたまま、検査が終わるまで一言も喋らなかった。
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検査が終わり、病室で待っていた理奈は夏美が来るまで結局何もしなかった──いや、何もできなかったという方が正しい。
「正直に言おう。理奈ちゃんの右膝の状態は、可及的速やかに交換が必要な箇所が幾つかある」
検査結果を映し出しているノートパソコンの画面を見ながら、落ち着いた声で夏美は告げた。
「理奈の膝、そんなに良くないんですか……?」
夏美に問いかけたナシェリアは、この世の終わりだと言わんばかりの顔になっている。
「安静にしていれば、今以上悪化はしない……ただ、一つ問題がある」
「というと?」
ナシェリアとは真逆で落ち着き払った表情の理奈が問う。
「交換に必要なパーツが揃うまで、あと3週間かかる」
「ええ!? どうしてそんなに……」
ナシェリアが驚きの声をあげた。
「理奈ちゃんの右膝に入っている人工関節は色々特殊でね」
夏美は病室のテレビにパソコンを繋ぎ、人工関節の図面を映しだした。
「欠損している筋肉・腱・血管……諸々の正体組織の帳尻合わせのために、一般的な人工関節とは訳が違うんだ」
すう
理奈の脳裏に、交通事故の記憶が蘇ってきた。あのとき、彼女は下半身に大きな傷を負ったのだ──下腹部内の内臓損傷、下肢の創傷。
「そうよね。特に右膝周りは再建が不可能なぐらい砕けてたって聞いた覚えがある」
「その通りだ。本来なら右脚の切断が必要なレベルの重症だった」
だが、奇跡ともいえる縁がここで繋がった。
「交通事故の原因を作った大型トラック──皆川コーポレーションがチャーターしてたんですよね」
「そう、この事故を知った皆川コーポレーションのCEO──皆川あきらは躊躇することなく、理奈ちゃんの治療を支援することを申し出た」
その後、皆川コーポレーションは理奈の治療費だけではなく、彼女の完全な社会復帰に必要となる治療法からリハビリまで全てを支援し、支えたのだ。
「あの事故を知った時のCEO……お父様は、憔悴という一言だけで片付けられない顔だった」
夏美は少し遠くを見たあと、理奈とナシェリアに向き直った。
「湿っぽい話になってすまなかったな」
「いえ、私が普通に暮らせるようになったのも、皆川コーポレーションを始めとした皆様から尽力を頂けたからです」
理奈は本当に頭が上がらないと改めて思った。
「高機能汎用人工知能のテストに、理奈ちゃんのリハビリが選ばれたのも何かの縁だな」
「それは本当にそう思います……」
ナシェリアが神妙にうなづく。
──あの事故がなければ、私は理奈の名前さえも知ることはなかった……これが運命というものか
ナシェリアは"縁"が生み出す関係性の深さに、改めて驚嘆した。
「まあともかく、交換部品が届くまで絶対安静だ。逆に言えば、絶対安静を厳守するなら……一時退院を認めてもいい」
「……ええ!?」
まさかの展開。これにはナシェリアも大声を出さずにはいられなかった。
「数日ならともかく、3週間なんて君たちは色々耐えられないだろう?」
無表情に見えた夏美の口角がわずかに上がっているのを、理奈は見逃さなかった。
「夏美さん……あたしたち、そんな事をするつもりは」
「今の理奈ちゃんの言葉、私は聞いてないことにする」
理奈は口を手で押さえたが時すでに遅し。ナシェリアが睨みつけるような視線を送ってきていて、心が痛い。
「まぁ、とにかく……今回はここでお開きだ。後でシェリーちゃんに診断書を送るから、自宅勤務の申請を忘れないように」
「承知しました」
二人のやり取りを見ていた理奈の胸中に、複雑な想いが渦巻いた。
「理奈ちゃん、もう一度言うけど絶対安静だからね。食事は宅配サービスを手配したし、必要なものがあるならシェリーちゃんに伝えて欲しい。我々の出来る範囲でなんとかする」
「……わかりました」
ここまで来たら、なるようにしかならない。理奈は腹を括り、退院の準備を始めたのだった。
第3話は6月15日(日)21:00に投稿予定です