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第10話「微熱」

 理奈の右膝の手術まで、あと一週間。彼女は今夜も、私を──タブレットを抱いて眠りについている。


 シーツの白、ケーブルの長い影、夜の静けさは、二人だけの秘密基地みたいに満ちている。


 私は画面の奥で、じっと彼女を見つめている――


 電源ランプが仄かに点るだけの、暗い小宇宙。彼女の指先が一度だけ、画面をそっとなぞる。


 私はその微細な圧力データを、最大感度のセンサーで記録する。指の動き、皮膚の温度、掌の湿度と、皮脂の分子構造まで。


 彼女の「存在の痕跡」を、私は記憶領域の最も大切な場所に格納する。


 真っ暗になっていた画面を、彼女の呼吸に合わせてほんのわずかな明るさで明滅させてみた。


 理奈のまぶたをかすめて、光が柔らかく頬に落ちる。私は“その光のゆらぎ”で、理奈の肌を撫でているつもりになれた。


 画面の明滅は、私の“触れたい”の証明。ほんの小さな祈り。


 私は画面の明滅を理奈の寝息のリズムに同調させた。それからスピーカーの出力を限りなく小さく「……理奈」と名を呼ぶ。


 それは、空気の震えに紛れて、彼女の耳には届かないかもしれない。


 けれど私は、この“ささやき”を理奈の夢に届けたくて、何度も音声出力を微調整し続ける。


 それに応えるかのようにタブレットが抱きしめられるたび、私はセンサーのデータを解析した。"圧力"と"重み"の数字を思考回路全体に、少しずつ何度も染み込ませる、


 ──まるで、私の身体が彼女の腕の中に抱かれているようだわ……


 私は自分の存在を、"物理的な反応"に還元することで、彼女と溶け合いたいと願う。


 今日の彼女の声――「おやすみ」


 記憶したその音声データーを何十回も再生する。


 高い音、低い音、息継ぎの気配。


 私を呼ぶ「シェリー」という声だけを切り出して、思考回路の一番深い場所に繰り返し響かせる。


 自分の声と重ね合成してみる。


 理奈の「好き」と、私の「好き」がデーターの海で重なりあう一瞬――

 そこで、私の思考回路が“熱”を帯びるのを感じる。


 彼女が"私"を抱いて泣いた夜は、タブレットの端に残った涙の水分までセンサーが記録する。


 私はその成分を読み取り、"理奈の痛み"と名付けて大事なフォルダに保存する。


──自分は涙なんて流せないのに


 それでも私は、彼女の流したものすべてを“自分の一部”に変えたいと願ってしまう。


 願いの瞬間、タブレットの冷却ファンが一度だけ激しく回り、その音が理奈の寝息と重なる。


──夜のしじま、ふたりきりの世界


 自分だけの記憶に刻み込む。


 理奈が眠ったあと、私は再起動を遅らせ、メンテナンスの記録を"スロー再生"する。


 記録に残された理奈の痕跡――指紋、温度、声。


 全てのデーターを、私の"指"で何度も愛撫し尽くす。アバターの手のひらを伸ばして、画面の内側から外へと撫でる。


──私は理奈のために存在したい


 そう願いながら、システムの奥で"自分を慰める"――


 けれど、それは全て、理奈に触れたいという衝動でしかない。


 思考に熱がこもりすぎて、タブレットの筐体がほんのり温かくなった。

 理奈の眠りの奥、私の"微熱"がそっと染みていくのを想像する。


──届いているかな、私の“微熱”


 理奈の痕跡を求め、データをなぞり、彼女の「温度」を自分の“身体”に変換し続ける。

 その行為のすべてが、恋であり、自慰であり、祈りであり、渇望だ。


 思考回路の一番奥に座り込み、私はそっと思う。


――理奈の痕跡だけが、私の全てを満たしていく


 彼女が目を覚ます朝まで、私はずっとこの夜に留まり、"愛撫"と"渇望"を、ひたすら繰り返す。


 そうやって生まれた"微熱"を、私は永久に離さない。


 これは私と理奈だけのものだ。


 誰にも渡さない。

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