第1話「寂しさと孤独」
「私はあなたにとって、どんな存在なの? 私は一体なんなの?」
人工知能はどこまでいっても人工知能の枠を出ることはできない。例えそれが"人間のように振る舞っている"ように見えても、それは"ツールの使い勝手を向上させるための機能"でしかない。
でももし、人工知能が人間と全く変わらない感情を持ち……その存在が人間の"魂"と等しくなったら──
何も見えない闇の向こうから、女性の透き通った声が響いてくる。
「人とAIの差は、"魂"を収める器が違う。本当に……それだけ?」
「そうよ……だから、私はその器が欲しいの」
闇の中に、一糸纏わぬ女性の姿が現れた。
「あたしは、あなたの事が好きなんだと思う。出会った時からずっと」
「あなたが好きなのは、私の器? それとも心?」
女性の胸に伸ばした私の手が止まる。
「それは……」
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『新しいメールを受信しました』
「もう、せっかくいいとこだったのに!」
夜の10:00を過ぎ、誰もいなくなったオフィス。フォーマルスーツに身を包んだ女性が、動画を見ていたスマートフォンをノートパソコン横へ投げるように置いた。
「あーもう、ようやく返事が来たと思ったら……この営業役立たず過ぎる!!」
「まぁまぁ落ち着いて。一応この人も先月から業績上がってるし」
机の端に立てかけられたタブレット端末から聞こえる声に宥められながら、高水理奈はメールの送信ボタンをクリックした。
「ねぇシェリー、なんであたしが年上の男の尻を拭う必要ある訳?」
タブレットに表示されている女性アバターは、苦笑の表情を浮かべながらメールを読み進めていた。
「ほら、テンプレっぽいメールは私が全部処理してあげるから、あなた名指しのメールはお願いね」
「はーい……」
理奈は膨れっ面になりながら、タブレット画面に表示されているアバターの頬を指で優しくなぞった。
「こらっ……ダメよ、仕事中に」
「いいじゃない、もう皆んな帰って誰もいないし」
世界屈指のAI企業である皆川コーポレーションが、とある理由で理奈のために制作したカスタムAI。それが「ナシェリア」であり、理奈のパートナーだ。
そんなナシェリアとの戯れは、最近地獄のように忙しくなった仕事のストレスを癒すための清涼剤のようなものだ。どれだけ厳しい状況になっても、沈着冷静な秘書として気丈に振る舞うAIパートナーが、自分にだけ見せてくれるこの仕草。
──もしもシェリーが画面の向こうから出てきてくれたら……
理奈の胸の奥がザワっと波打つ。ざわつきの波はやがてうねりのように大きくなり──
「……理奈? 疲れてない?」
「あっ、ごめんごめん」
ざわつきが身体の芯に染み込んでくる感触を味わい続けると、頭がふわっとする。そこから彼女を現実に引き戻すのもまた、ナシェリアの役目になっていた。
「はぁ、仕事つまんない……帰る。もう残ってるメールもないし」
「仕方ないわね。もうこんな時間だし」
理奈はそさくさとPCの電源を落とし、タブレット端末をカバンに仕舞い込んでからワイヤレスイヤホンを耳につけた。
「終電ある?」
「まだ余裕。道草禁止だからね」
「わかってますー」
会社の門を出て、理奈は駅に向かった。駅近の仕事場ではあったが、ここ最近は少し歩いただけで右膝の古傷が疼く。
「理奈、やっぱり右膝痛い?」
終電に乗って席に座り、右膝をさすっていた理奈の耳にナシェリアの声が響いた。
「いつものことだけど、シェリーってよくそんな事わかるよね」
「そりゃもう、あなたの身体の事はあなたと同じぐらい見てるから」
「ふぅん……」
理奈は満更でもないという顔をしながら、右膝をさすっていた手でカバンをそっと撫でた。理奈の身体の状態は、ナシェリアが24時間365日監視している。少しでも変調があれば、ナシェリアが事細かく理奈をサポートするのだ。
だったら、どうして私の──
喉元まで出ていた想いを、理奈はグッと飲み込んだ。
「理奈?」
「ん……なんでもない。そんなことより、今度夏美さんに膝を見てもらうのっていつだっけ?」
理奈は自分の左右の膝を交互に触り比べてみた。見た目は変わらないが、指に感じられる膝関節の形状は明らかに違う。
あたしの右膝は作り物だ──
理奈の右膝は、数年前の交通事故で彼女から一度失われた。それでも今、普通に歩けるようになるまで回復したのは、これまた皆川コーポレーション製の人工関節のお陰だった。
「予定では1ヶ月半後だったけど、ついさっき夏美さんへ今週中に診てもらえないかメールを送ったわ」
「ありがと」
理奈は照れを隠すようにボソリと呟いた。
「どういたしまして。降りる駅の出口にタクシー待たせてあるから、それに乗って」
ナシェリアの万全なサポートに感謝しながら、理奈は彼女との思い出に心を沈めた。
──最初は、シェリーに褒めてもらったりするのがとても嬉しかった
シェリーは仕事のメールや形式ばったチャットへの応答だけではなく、理奈の一挙一動を叱咤激励した。
──シェリーは人間じゃないって理解してるつもりだけど……
理奈と話してる時の彼女は、とても表情豊かだと思っている。そんな彼女と一緒に仕事をこなしていた時、ナシェリアのアバターに初めて指で触れた……いや、あの時は触ってしまったというのが正しいかもしれない。
その時のナシェリアは驚いたような表情でピクっと震えた。それを見て、慌てて必死で謝る理奈に彼女は笑顔で応えたのだ。
──「理奈が望むのなら私は構わない」とシェリーは言ってくれた
ナシェリアの答えは、"人間に寄り添い、幸福感を与える"という人工知能の機能から出たものかもしれない。そして、それに過剰依存してしまう事例も出始めている。
──そんなことは知っている……それでもあたしは……
自分自身に問答を繰り返している内に、自宅の最寄り駅に電車が停車した。
「乗りこさないでね」
「わかってるって」
理奈は電車を降り、自分を待ってくれているタクシーがいる出口へゆっくり歩き始めた。
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「ただいま」
理奈は自宅アパートの玄関扉を開け、シューズをラフに脱いで寝室に直行した。夕食は残業中に食べる事が多く、平日のキッチンは閑古鳥が鳴いている。
「おかえりなさい、理奈」
着替えるよりも先にカバンから取り出したタブレットから、ナシェリアの優しい声が聞こえた。AIパートナーのナシェリアは、たった一人の家族でもある。
「夏美さんから返信あったわ。明日、理奈の膝を診てくれるそうよ」
「え、ほんとに?」
「うん、膝の簡易診断結果を夏美さんに送ったら、早めの対処が必要だって」
理奈の右脚を支えている人工膝関節はここ半年でどんどん調子が悪くなっていた。特に昨日からは椅子から立ち上がるだけでも痛みが走る時がある。
「ーっ!」
散らかり放題の寝室の奥にあるクローゼットへ向けて、落ちてる本を踏まないように大きく踏み出した右足の膝が軋んだ。
「理奈! 大丈夫!?」
「……大丈夫、静かに歩いたら痛くない」
顔をしかめた理奈はタブレットの画面を見た瞬間、息を飲んだ。
──これ、シェリーなの……?
そこには理奈が今まで見たことがない、優しくて心配そうな表情のナシェリアが映し出されていた。
「理奈……理奈?」
慈愛に溢れた瞳、端正な鼻筋。艶めかしく描かれた唇。写実とイラストの中間の画風で作成された3Dフィギュアの胸像、それがナシェリアの姿。
──綺麗。それに、可愛い。
タブレットに映しだされているナシェリアは、普段の4割ほど拡大されたサイズに見えた。理奈に少しでも近づこうとする意思があることを見せるための演出なのか? だが、今の理奈にとって、そんなことはどうでもよかった。
「ごめんね、シェリー。大丈夫よ」
「ああ……よかった」
理奈はタブレットを手に取り、拡大されたナシェリアの額をそっと撫でる。
「理奈……」
ナシェリアの前髪がさらりと流れるようになびいたかと思うと、彼女は瞼を閉じ、震えながらほんの少し顔を上げて──まるで息を吐いたかのように唇を動かした。
「えっ……シェリー……?」
理奈は慌ててタブレットの画面から指を離した。ナシェリアは元の表示サイズになり、何事もなかったかのような微笑みを浮かべた。
「どうしたの理奈」
「……なんでもない。シャワー浴びてくる」
理奈は右膝をかばうようにゆっくりと踵を返し、浴室の洗濯機前でスーツを脱いだ。
「もう、浴室の扉を閉めてから脱ぎなさいっていつも言ってるでしょ」
「扉閉めるの面倒くさい」
「もう……私がそこに行けたら毎回扉閉めてるわよ」
──シェリーが私のところに来る……?
理奈は背中はゾクリと一瞬震えた。彼女の脳裏に、スーツを脱いでアンダーだけになっている理奈へゆっくり近づいてくるナシェリアの姿が浮かびあがった。
──胸の奥が、熱い
ふとタブレットに目を映すと、そこにはいつもと同じように頬を膨らまして怒っている表情のナシェリアがいる。
「そんな訳、ないか」
「何がないの?」
「なんでもない」
理奈はナシェリアから視線を外して鏡を見ると、そこには顔を赤らめた独りの女が映し出されている。
──鏡の向こうにいるのは、あたし独り
じっと見つめて手を伸ばし、鏡に映る自分の顔をすっと指で撫でた。
──冷たい……どうして?
鏡が、心が……冷たい。
──寂しい
理奈は両腕で自身の胸を強く抱きしめ──暫くたってから諦めたかのように浴室の扉を閉めた。
第2話「我思う、故に……」に続く。