私を愛することはないらしいので、取り敢えずお兄様と呼ばせていただきますけれども
軽いお話です。
初めて対面した炎の獅子様は、マティルダの想像と随分異なっていた。
国の国防の要を担うブレンダン・オルフェイ辺境伯は噂通りの赤い髪と金の目をしていたが、ガタイがよくて筋肉隆々の野性的な獣というよりは、顔面偏差値が高い美丈夫という方が似合うような風貌をしていた。
しなやかに鍛え上げられた体躯に、漆黒の騎士服がよく似合っている。
「遠路はるばる来てくれたことに感謝する。
私はブレンダン・オルフェイ。この辺境伯領を治める者だ」
ブレンダンは、マティルダの知る一般的な貴族令息や騎士よりも、広い肩幅や厚い胸板をしてはいる。
しかし、粗野な荒くれ者とは真逆の言葉遣いや見た目に、マティルダは胸を撫で下ろした。
「はじめまして、オルフェイ辺境伯様。
私はヤーウェイ子爵家の長女、マティルダと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」
マティルダは、恭しくカーテシーをした。
美しい立ち居振る舞いは淑女の基本であり、貴族の妻というものは夫に寄り添い、後継ぎを生み育て、家を守るものだと、それなりに歴史のある子爵家に生まれ育ったマティルダは、両親や家庭教師にもう何年も口酸っぱく言い聞かされてきたし、沢山勉強もしてきた。
「顔を上げてほしい。
王命ということで一旦は了解したが、私は貴方を愛するつもりはない。どうか安心して、健やかに暮らしてほしい」
ブレンダンは、胸元まである赤い髪を横で1つにゆったりと結わえて、無表情のままそこに立っていた。
大型の動物を思わせる金色の目は、真っ直ぐにマティルダを見つめてはいるが、どこか困っているというか、物凄く気を遣っているように見えた。
(なるほど、そういうことね。2回も婚約者に逃げられたというから、一体どんなに酷い男性なのだろうと構えていたけれど、きっとこれも原因ね)
一般論として、婚約者に対して「貴方を愛するつもりはない」と言い放たれるのは、なかなかにしんどい。
何が安心してほしい、だ。
堂々としつつも丁寧な物腰だが引き気味ではあるし、何故お前は来たんだ感は結構ある。
とはいえ、ある意味とても正直ではあるし、悪い人ではないのかもしれないとマティルダは思った。
(第一印象としては、変な人ではなさそうだけどな。そのうち仲良くなって上手くいく、とかいうことにはならなかったのかしら?)
マティルダは、ブレンダンの元を去った婚約者2名について何も知らない。
しかし、王命だったらしいこと、タイプの違う高位の貴族令嬢だったことは知っているため、多分、箝口令でも敷かれているのだろう。
(一回り近く年上だというのに独身だというから、どんな人かと思っていたけれど、イケメンだし、定職に就いてるし、声も低くて素敵だし、悪くないじゃない。
どうせ愛のない結婚をするなら、見た目だけでもテンションが上がる相手のほうがいいわよ)
マティルダは16歳。恋はまだ知らないし、婚約だの結婚だのと言われても実感などないのだ。
とはいえ、どうせ政略結婚をして子を産むしかないのであれば、せめて好みのタイプの男性に抱かれる方がいいに決まっている。
そういう意味では、先程の台詞と白い結婚になるかもしれない点を忘れることにすれば、今目の前にいるブレンダンはいける。
見た目だけを言えば、及第点どころか百点満点。
マティルダの好みど真ん中である。
「そうですか。どうお言葉を返すのが適切か分からないのですが、一旦、オルフェイ辺境伯様のことはお兄様と呼ばせていただく形でよろしいでしょうか」
マティルダは、淑女教育の賜物であるアルカイックスマイルを顔面に貼り付けた。
因みにマティルダは、腰まであるココアブラウンの髪と、青い目を持っている。
顔面偏差値は中の上、体格は可もなく不可もなく、中肉中背。良く言えばちょっと可愛い、悪く言えば普通だ。
「……お兄様だと?」
たっぷりと沈黙したあと、若干怪訝そうな顔でブレンダンはマティルダを睨んだ。
ちょっと怖いとマティルダは思う。しかし、「なんて酷い!」と嘆いたり怒ったりするほど、愚かではない。
何故ならこれは王命で、マティルダとしてもブレンダンとしても断れぬ話。
既に婚約はしているわけで、基本的には結婚するしかないのだ。
「はい。私は遠い親戚であること、婚約者が決まっていないこと、そして、父の仕事を手伝っていたことから、この度、王命で婚約者に選ばれました。
1年後に結婚することを前提にというお話ではございましたけれども、取り敢えずはこのオルフェイに馴染み、何かしらお役に立てるように、遠縁の者として尽力してみようと思います」
「そうか」
「婚約したことはまだ公になっておりませんし、実際にはとこなわけですから、お兄様という呼び方は不自然ではないと思います。
取り敢えず、妹ができたとでもお思いになるのはいかがでしょうか」
「分かった。そうする」
「ありがとうございます。では、私のことはマティルダとお呼びくださいませ」
「マティルダ」
「はい、ブレンダンお兄様」
少しの逡巡のあと、ブレンダンは、ほぼ無表情で頷いた。
マティルダは、にっこりと上機嫌で微笑んだ。
繰り返すが、これは王命による政略結婚だ。
どうせ相手も断れぬのだから、できることを精一杯やるまでだ。
*****
遡ること3ヶ月前。
ある日、マティルダの父親――つまりヤーウェイ子爵が、渋い顔で王家からの釣り書を差し出してきたのが事の始まりだった。
「これは?」
「お前の婚約が決まった。お相手はオルフェイ辺境伯で、随分と格上だ。これは王命で、否やはない。これが釣り書と調査書だ」
「承知しました。拝見します。ですが、どうして我が家に?」
「これまでに2人、高位の貴族令嬢との婚約が破談になっているらしいから、恐らくそのためだ。しかも我が家はオルフェイ辺境伯家とは遠縁にあたる。まあ、普段は全く接点など無い程に疎遠だがな」
マティルダは内心、何故こんな遠方で、しかも紛争の多い隣国との国境付近に嫁がねばならぬのだろうと思った。
しかし、マティルダは貴族令嬢の義務や定めを理解していた。
そもそもマティルダには兄がいて、マティルダが生まれた瞬間から、いずれヤーウェイ子爵家を出ることは基本路線だったから、嫌とは言わなかった。
だからマティルダは、馬車に揺られて10日以上かけて、オルフェイ辺境伯領の端までやってきたのだ。
因みに、屋敷まではまだ数日もかかる。本当に遠い。
(こんなに遠くまで来たのは初めてね。自然が豊かで美しい場所だわ)
オルフェイ辺境伯領は隣国との国境に面していて、要塞を抱える都市だ。
陸路での交易が盛んで、中央は王都に負けないくらい栄えているらしく、治安も悪くないらしいが、やはり国境付近――つまり、今いる場所とは反対側の端っこについては、常態的に紛争が起こっているとのことだ。
休み休み馬車で移動すれば、マティルダの生まれ育ったヤーウェイ子爵領からオルフェイ辺境伯の屋敷までは、ゆうに2週間以上かかる。
あまりにも長い道のりのため、対面のための少々凝った衣装は、到着後に着用することになっていた。
(二つ名は炎の獅子か。一体どんな人なんだろう)
マティルダが父親に渡された略歴書によれば、ブレンダンはオルフェイ辺境伯の嫡男で姉が1人いる。
母親は幼い頃に病死。18歳の頃から率先して最前線に赴き、国境の治安回復に尽力。
国境でのいざこざを驚くほど鮮やかな手腕で迅速に収束させ、自ら剣を手に取り戦うブレンダンの勇姿はとても素敵で格好良いと、現地の民衆に人気らしい。
戦場に舞う、結い上げられた赤い長髪と強い獣のような金の目、そして、戦場を駆け巡る鍛え上げられた肉体と洗練された剣術から、ついた二つ名が炎の獅子ということらしい。
その後、父親が病に倒れたため24歳で辺境伯を継ぎ、現在は27歳になっている。
(いずれにしろ、お役に立てるように頑張らなくちゃね。一体、どんなお人なのかしら)
不安はある。
しかし、そんな風に思えるほどには、マティルダは前向きな気持ちでこの政略結婚を受け止めていた。
*****
オルフェイに来てから半年後、マティルダは、それなりに楽しくやっていた。
婚約者でありながら妹的なポジションに見事収まって、マティルダは恙無く日々を過ごしている。
「では、行ってくる」
「はい、お気をつけて。お兄様、もしよろしければこちらをお持ちください」
「これは?」
「御守りです。最近、街で流行っているそうですよ。渡す相手のために編んで、出征する際に祈りを込めて渡すといいのだとか」
「そうか。ありがとう」
漆黒の騎士服を着たブレンダンは、マティルダが差し出した組紐を受け取った。
一瞬だけ、ブレンダンの黄金色の瞳が柔らかく細められ、微笑んだように見えた気がしたのは、マティルダの気のせいじゃないと思いたい。
(よかった。受け取ってもらえた)
組紐は、ブレンダンの瞳と同じ金色、そして、茶色と青の糸で作られていて、これはマティルダの髪と目の色だ。
あまりにもあからさまだと嫌がられるかもしれないから、茶色は、ほぼ黒に見えるもの――マティルダの髪の色であるココアブラウンとは少し異なる色にした。
素直に受け取ってくれたブレンダンに、マティルダは嬉しい気持ちになった。
相変わらずブレンダンは無表情だし、部屋は完全に別々だし、2人きりでデートなんてとんでもない、という状況であり、はっきり言って婚約者感はない。
しかし、時間が合う時は食事を共にしたし、日々の朝のお見送りや夕方のお出迎えはルーティンとなっていたし、今日のような遠征の場合は、こんな風にそれなりの会話が続くようになってきている。
かなり進歩はしたから、悪くない関係性を築けているとマティルダは自負していた。
(お兄様作戦は、我ながらナイスアイデアだったわ)
家族以外の男性に免疫がないマティルダは、すっかりブレンダンのことが好きになっていた。
とはいえ、あからさまに好意をアピールすることはしていないし、燃えるような恋情かと言われればそういうわけでもない。
ラブかライクかと言われれば、ラブと言えるライクだと思う。多分。
「シェフにも伝えたが、戻った後の炊き出しは温かいものがいい」
「承知しました。もう冬ですものね。どうか体調に気をつけて、お怪我などなされませんように」
「ああ。では、屋敷と領地のことは頼んだ」
「お任せください」
マティルダは少し頬を染め、はにかんで頷いた。
ブレンダンは、そんなマティルダにふっと優しく瞳を細め、屋敷を出ていった。
因みに、これまでずっと、ブレンダンが自分の留守の間のことを頼む台詞は執事とその向こうにいる使用人たちに向けられていたが、いつからかそれはマティルダとその向こうにいる執事や使用人たちに向けられるようになっており、執事曰く、これは快挙と言えるらしい。
きっとまた、ブレンダンは1週間程度はこの屋敷に帰ってこれないだろう。
オルフェイは、国王公認で騎士団を抱えるほどには、国防に関する仕事が多い。
辺境伯領主自らが積極的に前線に立つことは珍しいものの、騎士団で3本の指に入る強さのブレンダンは、騎士団になくてはならない存在なのである。
(だからこその私なのよね。さあ、今日も仕事仕事!)
身分的に、子爵というのは大分弱い。
その上、不在がちなブレンダンの代わりとして、領主代行から炊き出しまで文句一つ言わずにせっせとこなすというのは、なかなか人を選ぶポジションといえる。
子爵クラスというのは、一応高位貴族に嫁ぐための教育を受ける一方、男爵や平民とさほど変わらない部分が多いからこそ何とかなっている気がするというのは、マティルダの思うところではある。
(ま、暇を持て余すよりは忙しいほうがいいわよね。
それに、意味のあることをしている感はすごくあるもの。
少しでもお兄様のお役に立てているなら嬉しいわ)
なお、実際は役に立つどころか、女神様と周囲の者から崇め称えられるレベルの働きっぷりなのだが、マティルダ本人にその自覚はない。
マティルダはこの半年間、ブレンダンの不在を預かる執事や侍女長に、屋敷の女主人としての仕事を習う傍ら、孤児院に出向いたり、紛争の後の炊き出しに積極的に参加したりして、マティルダなりにオルフェイに馴染む努力を全力でした。
最初は、警戒と躊躇という、なかなかに高い壁があったものの、マティルダの良さ――明るくて優しくて前向きなところや、頭の回転が速くて良く気がつくところ、そして、偉ぶらず親しみやすいところ――は、すぐに使用人たちの知るところとなる。
そして、マティルダはあっという間にオルフェイの屋敷に受け入れられ、そして、炊き出しや慰問を通して民衆からも親しまれるようになったのだった。
*****
数日後、マティルダは騎士団の宿舎の近くで大きな寸胴鍋の中身をかき混ぜていた。
ココアブラウンの長い髪は三つ編みにまとめて、簡素で動きやすいが、暖かな装いをして、エプロンを着けている。
今日のメニューは、冬野菜とチキンを沢山入れたクリームシチューと、焼きたてのパンだ。
この炊き出しは、お腹をすかせながら馬を駆けて戻って来る騎士団へのおもてなしだ。
(ブレンダンお兄様は、温かいシチューを渡したら喜んでくれるかしら)
歴代オルフェイ辺境伯は、こうして騎士団を大切にしてきたらしい。
因みに炊き出しの場所は、中央広場だったり公園だったりオルフェイ辺境伯の屋敷の庭だったりしたこともあるらしいが、ある時から騎士団の宿舎の側と決まった歴史がある。
何故ならば、馬を繋いで休ませる場所が十分にあり、家庭を持っていない者や家族のいない者は、お腹いっぱい食べた後にそのまま宿舎の自室に帰れるからだ。
因みに、騎士の中には王都や周辺の都市から来た者もいるし、この辺境伯領出身の者もいる。
(早く会いたいなぁ。騎士服のお兄様、すごく格好良いのよね)
今日は特に寒い。吐く息は白く、空からは白い粉雪がちらちらと落ちてきている。
低く沈んだ空を見て、騎士団に所属する者の家族や、街の有志が、丁度先程オルフェイ辺境伯の屋敷の使用人たちと協力して、テントを張り終わったところだ。
「マティルダ嬢は結婚なさらないのですか?」
「え?」
「いや、その、気になって……」
声をかけてきたのはリチャードで、辺境伯領の配下にある一部地域を治めている子爵家の嫡男だった。
少し照れたように目をそらすリチャードは線が細く、マティルダより2つ年上の18歳。
まさにザ・貴族令息といった風貌で、そこそこ整った容姿をしている。
「マティルダ嬢は、いつも辺境伯様や領地のことばかりですよね?自分の幸せを考えたりはしないのかなと思ったのです」
「うーん、そうですねぇ。まあいつかは?取り敢えずはお兄様の後ですかね」
マティルダは、曖昧に微笑んでかわした。
無論、屋敷の者達は全員認識しているが、マティルダはブレンダンの正式な婚約者である。
しかし、破談になる可能性もあるし、そもそもブレンダンに受け入れられている感じがゼロだったため、公にはしていないのだ。
よって、騎士団の人々も領地の民達も、マティルダのことはただのはとこだと思っている。
(はとこで間違ってはいないのだけれど、そのうち訂正とかしたほうがいいのかなぁ)
そもそも1年後――いや、もうあと半年後には、マティルダはブレンダンと結婚する予定なのだが、今のままではそうはならないかもしれない。
現に、ブレンダンの婚約者だった2人の貴族令嬢は、マティルダが此処に来る前にこの地を去っている。
その正確な理由が分からない以上、否定などしないほうが好都合な可能性はそれなりに高い。
うんうんと悩むマティルダをどうとらえたのか、リチャードは意を決したように言った。
「そうですか、分かりました」
「?」
「あ!騎士団が帰ってきましたよ。では私は、馬を繋ぐ手伝いをしてきますね」
リチャードはマティルダに対して爽やかに微笑んで、騎士団の方へと駆けていった。
リチャードは物腰柔らかで、可愛らしい感じのイケメンかつ好青年だ。
(あーあ。なんでときめかないのかなぁ。
お兄様の声とか、無表情に見えてちょっと微笑んでるとか、そういうの見るとすごくキュンとするんだけどなぁ)
リチャードは格好良いなと思うけれど、それだけだ。全くグッとこない。
一方で、ブレンダンにはかなりグッとくる。
最早マティルダの趣味趣向とか好みの問題でしかないのだろうけれども、これは不毛な恋だ。
ぐるぐると具沢山のシチューを混ぜ、マティルダはため息をついた。
(お兄様が私を愛するつもりがないのなら、せめて遠い親戚として、友愛的なものを育めたらと思っていたんだけどなぁ。
このままじゃ、私も3人目の婚約者として此処を出ていくのかしら)
暫くすると、馬を繋ぎ、剣や防具などの装備を外した騎士団の男性達が五月雨式にやって来た。
「マティルダちゃん、ただいま」
「おかえりなさい。はい、どうぞ。うちのシェフが作ったシチューです。パンはあちらで受け取ってくださいね」
「ありがとう!」
「マティルダちゃん、俺も」
「今入れますね。どうぞ」
「そうじゃなくて、ただいま」
「?おかえりなさい」
愛想良く、柔らかな微笑を浮かべてよく働くマティルダは、騎士達から人気だ。
マティルダの隣で別の鍋を担当している女性も、パンを担当している女性も、マティルダにつられてにこにこしている。
最近では、この遠征のあとのもてなしで、マティルダの側で精を出して働くといい出会いがあると、若い女性たちに評判になりつつある。
よって、マティルダと同じ仕事の争奪戦が繰り広げられているのだが、マティルダはそれに気づいていない。
(いた。マティルダ)
ブレンダンは馬や装備を下の者に預け、大きなお鍋からシチューをお皿に入れて騎士に手渡しながら笑顔みせるマティルダを、ぼんやりと遠巻きに見ていた。
すると、不意にハイリンヒから声をかけられた。
「可愛いよなぁ、マティルダちゃん。いい結婚相手を見繕ってやれよ?お兄様」
「……?」
「彼女、お前のはとこなんだろう?身分関係なく優しいし、美人で賢くて働き者だから、引く手数多だろうなぁ」
昔からよく知る仲のハイリンヒは現在、この地で国王陛下に任命を受け、騎士団長を務めている。
元はブレンダンが騎士団長の最有力候補だったのだが、オルフェイ辺境伯亡きあと、ブレンダンが領主になるにあたって、騎士団長との二足のわらじはあまりにも大変だということで、ブレンダンに負けず劣らずの剣の腕前を持つハイリンヒにお鉢が回ってきた形だ。
なお、ハイリンヒはブレンダンと異なり、表情豊かで口数も少なくはないタイプの美丈夫だ。
一見黒に見えるが、深い紺色の髪と瞳を持っていて、精悍だが王子様のように整った顔をしている。
「確かにそうかもしれない」
「いや、そうかもしれないじゃなくて、そうなんだよ。マティルダちゃんを狙ってる奴、既に何人か知ってるからさ」
「それは、今あそこにいる奴らか」
ブレンダンは、今日も可愛いマティルダに、「ただいま」と言われながら、温かなシチューを受け取って嬉しそうにしている面々を見て、少しだけ胸がざわついた。
「ん?いや、違うな。あいつらじゃない」
「そうか。知らなかった」
ならば、誰だというのだろう。
マティルダは、ブレンダンの婚約者として、結婚を前提にオルフェイにやって来たというのに、けしからん。
そこまで考えて、ブレンダンはハッとする。
これではまるで、自分がマティルダを好いているかのようだ。
「ま、流石にお前に言うほどの勇気はないんだろうな」
「?」
「だって実質、お前が保護者代わりみたいなものだろう」
「保護者……そうかもな」
その表現は何だかもすっきりしない。
しかし、間違いではない。実際にはとこで、お兄様と呼ばれているのだから。
(マティルダはいい子だ。ちゃんとした貴族令嬢なのに、いい意味で貴族令嬢らしくない。
領地の者と節度を持ってよく交わり、よく働いてよく気が利く)
ブレンダンは、微笑みを絶やさないマティルダをじっと見つめた。
そして、髪を結っていたマティルダからもらった組紐を解き、その金の瞳を優しく細め、大切そうにポケットにしまった。
*****
炊き出しから約2週間後。
夕食の後に、マティルダはブレンダンに呼び止められた。
「マティルダは、リチャードと仲が良いのか」
少し話があると言われ、マティルダはリビングのソファに座っていたが、向かい側に座るブレンダンからの質問に首を傾げる。
不思議そうな顔をしつつ、マティルダは自然体で回答した。
「いいえ?ただ、知り合いではあります。炊き出しでお話
をしたことはありますので」
「そうか」
「どうかなさいましたか?」
「リチャードから、貴方への求婚状が届いた」
「!?」
求婚状とは、何がどうしてこうなった。
愕然とするマティルダに、ブレンダンは少し切なげな色を滲ませつつ、美しい金の目を半分くらい伏せた。
「マティルダが望むなら、認めよう」
「……え?」
「貴方は私の婚約者だが、遠縁の親族でもある。私との婚約を解消して、私が後見人となれば、リチャードへ嫁ぐことは可能だ」
淡々と告げるブレンダンに、マティルダの胸はずきりと痛む。
所詮、ブレンダンにとってはその程度なのだ。
分かってはいた。マティルダは望まれない婚約者だ。
きっとこの先も、ブレンダンに愛されることはない。
理解はしていたものの、目を背けてきた事実に目頭が熱くなった。
「なっ……マティルダ?」
マティルダは、何も言えなくなった。
悲しくて悲しくて、マティルダの青い瞳からは、ほろり、ほろりと涙が零れた。
俯き、声もなく泣き始めたマティルダに、ブレンダンは珍しく動揺する様子を見せた。
「ど、どうしたんだ。何か嫌なことがあったのか?
もしよければ、貴方の希望を教えてくれ。
貴方は、こんなにもオルフェイのために尽くしてくれているんだ。最大限の配慮をしよう」
困らせている。
そう思うのに、マティルダは涙を止められないまま、震える声で尋ねた。
「希望を言えば、かなえてくださるのですか?」
「ああ。私にできることならば」
「では、リチャード様からの求婚はお断りしてください。そして、私がお兄様の婚約者だと公言していただけないでしょうか」
「……は?」
マティルダが意を決して伝えた希望に、ブレンダンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
マティルダは、くしゃりと泣き笑いみたいな顔になって言った。
「お兄様は多分、婚約も結婚も必要ないとお思いですよね」
「それは……すまない。否定はしない」
「正直ですね。ですが私は、もし結婚するならお兄様がいいのです」
「!?しかし……」
「やはりご迷惑ですか?」
「いや、それはない」
「では、何故婚約を公にしてくださらないのですか?」
「それは……すまない」
「お兄様は、街の皆さんに人気なのですよ?
若くて綺麗な女性も多くて、皆さん私に良くしてくださいますが、お兄様のことを知りたがります。
私、本当は婚約者なのに、ずっと言えないままで……」
「マティルダ……」
「すみませ……っ、泣くつもりは、なくて……」
ブレンダンは、ついにしゃくり上げ始めたマティルダに対して焦燥と狼狽をその整った顔に滲ませる。
しかし、少し照れたように赤く頬を染めながら、向かいのソファから立ち上がった。
そして、マティルダのすぐ近くまで歩き、片方の膝をついてマティルダより目線を下げた。
「本当に、私と結婚してくれるのか?
私は、婚約者を2度も繋ぎ止められなかった男で、無口な上に無表情で怖いとよく言われる」
「……っ、怖くはありません。お兄様はお優しいです」
「私の婚約者であることを公にすると、もう後戻りはできなくなる。貴方はそれでいいのか?」
ブレンダンの金の目が、じっとマティルダを見つめた。
マティルダは、縫い留められるような視線にじわりとした喜びを感じつつ、コクリと頷く。
するとブレンダンは、どこか恍惚とした色を金の瞳に浮かべ、マティルダに告げる。
「そうか。まるで貴方に酷く好かれているような気分だ。とても嬉しく思う」
まるで色気が滴り落ちるかのようなその微笑みに、マティルダは思わず見惚れて頬を染めた。
今日のブレンダンは、大人の男性の魅力全開である。
「では、明日にもマティルダと婚約した旨と、半年後に結婚する旨を領内に発表しよう」
「えっ、よろしいのですか?」
「いいも悪いも、本来はもっと早くに公にすべきことだったのだ。貴方こそ知っているのか?貴方が人気者だと」
「?」
「炊き出しの時、貴方の笑顔と『おかえりなさい』を目当てにしている連中は多い。
それに、リチャードだけでもないんだ。騎士の中にも、貴方に目をつけている者がいると聞いた」
「そうなんですか?」
「そうだ。私は保護者扱いらしい」
「それは知りませんでした」
「それから、少し誤解がある。
婚約も結婚も、確かに必要ないと思っていたのは事実だが、今は、貴方とならしてみたいと思っている」
ブレンダンは、金の瞳でマティルダを捉えて離さないまま、心の内を吐露した。
マティルダは、ブレンダンの台詞に思わずぽかんとしたが、数秒の後に意味を理解し、既に赤い顔を更に3倍ほど赤く染めた。
動揺するマティルダに、ブレンダンは嬉しそうに顔を綻ばせる。
そして、マティルダの手を取り、手の甲にキスを落とした。
「貴方を愛してもいいだろうか?」
熱のこもった金色の瞳に射抜かれ、マティルダはひゅっと息を吸い込む。
好みの男性に跪かれて許可を求められ、マティルダは焦る。重ねた手から汗が吹き出して恥ずかしい。
マティルダは、ぎゅっと目を瞑ってこくこくと全力で首を縦に振った。
「そうか。では遠慮なく、貴方を妻として扱おう」
「えっ?まだ婚約者では……?」
「大差ないだろう」
「いや、あると思いますが……って、おおお兄様!?」
跪いていたブレンダンは立ち上がり、マティルダの隣に腰掛けた。
そして、柔らかくマティルダに微笑みかける。
近い。これは完全に恋人同士の距離だ。
「そ、そんな急には、心の準備が」
「あと半年ある。ゆっくり心の準備をしてくれ。マティルダ、少し肩に触れても?」
「え?あ、ええと……はい」
「ありがとう」
ブレンダンはゆったりと笑みを深くし、マティルダの肩を抱いた。
腕の中にすっぽりと収まったマティルダは、びくりと身を強張らせたものの、暫くしてそっと力を抜いて、恥ずかしそうにブレンダンを見た。
するとそこには、見たことのない顔をしているブレンダンがいた。
(お兄様、嬉しそう)
これまであまり活動していなかったブレンダンの表情筋が、今日はとても活躍している。
普段とは違うブレンダンに、マティルダはドキドキする胸を押さえて聞いた。
終