もみじ 千年の想い 下1
嵯峨野には多くの寺院がある、龍天寺、入善寺、常光院、念仏院、宕石寺、現厳院、法廻寺、涼心寺……。 とりわけ勢力を誇っているのが、毎年檀家から宮廷に女官を送っている龍天寺である、その関係で朝廷の庇護が厚い、寺の規模・敷地・檀家数も一番であり塔頭寺院も数多く抱えていた。 他の寺院はそこそこである、それであるが故に秋の野駆けなどに対抗意識を燃やす、会合の時など檀家の優劣が寺の誇りとなるのである。
嵯峨野秋季総合彼岸会。民衆にとって彼岸会より後の野駆け(マラソン大会)が最大の愉しみであった、龍天寺の一番(韋駄天の大輔)は分かっているが、残りの拮抗する檀家には負けたくないのである。
明後日に迫った野駆けに出る者を今から探すのか、俊三の息子俊正なら一位は無理でも上位に入ってくれるのだが…、今年は檀家に肩身の狭い思いをさせてしまう。強気で俊三を帰した忠則だったが、がっくりと肩を落としたのである。
「居りますよ、代わりに走れる者なら」
「……」
「今年はうちが一番になれるかも?ですよ」
そう言いながら峰子が側まで寄って来た。
「そんな者がうちの檀家に?」
「檀家と言うか、お身内でございますよ」
「……? ミネよ、この様な時に冗談を言うでない!」
長く宮廷に女官として仕えた経験のある峰子には庫裏の世話を任せ、忠則も一目を置いていたが、思わず立腹したのである。
「冗談ではございませぬ、お身内と申し上げたのはいささかでしたが、同じ清原の姓を持つ信之さま、俊正の代わりにお立てになられたらいかがでございましょう」
「信之、走れるのか?」
「多分……」
「ミネよ、お前の言うことならと聞いているが。もうよい下がれ」
「いえ、信之さまは今何でも出来るお方、日に日に活力が増し此処の生活に馴染んでおられます、側にいると何事も出来ないモノなど無いと感じられるのです」
「じゃが野駆けだぞ、それも皆の期待が掛かったものじゃ」
「出来まする」
「そこまで言うなら出てもらおう、そちがとり計らえ、わしは他を当たってみる」
峰子は信之を説得した、最初断っていた信之も峰子の熱心な説得と日々高まる自身の体力を確認してみる気になり走ることを了承した。
信之は中・高と陸上部で長距離をやっていた。歳を取って走ることなど時々夢に見るくらいのモノだったが、驚くことにここでは朝目覚める毎、若者の身体に生まれ変わっているのだ。走れるモノなら走ってみたい!と思ったのである。
かくして嵯峨野彼岸会の野駆けには入善寺から二人出場となったのである。
彼岸会は龍天寺を会場として盛大に執り行われる、今年は野々宮の斎宮と母君・六条御息所も出席するとのことで、宮廷から公卿が派遣されたり、丁度愛宕山で修業中の比叡山の高僧なども呼び寄せ、例年にない盛大なモノとなった。
龍天寺の大きな池(この世と冥界を分ける)の対岸には美しい花が大量に飾られ正に天国を現している、そこにこちらから竜頭船を仕立て各寺院の献上品を届けるのである、宮廷行事には雅で華やかなモノが多いが、これ程の大掛かりな演出は当時無く、派遣の公卿たちも皆驚くばかりであった、ただ檀家の多くは庭に入れないため外で流れ聞こえる読経に頭を下げ待つのみであった。
野駆けのコースには早くから応援の者が集まり今か今かとそれを待っていた、コースとは龍天寺を始点として、参加の寺院と各拠点を廻る一周3.5㎞を三周するものだった、嵯峨野から宮廷御所までの約10㎞に距離を合わせることで、都に何かあればすぐに駆け付けると言う意味を持たせてあるのだ。
野駆けを競う信之たち9名は天幕の中で出番を待っていた、草鞋を補強紐で締め付け盛んに足を揉む嘉助に韋駄天の大輔が近寄って来た。
「草鞋は2足重ねた方がいいぞ、俊正のケガはだいじょうぶなのか?」
「はあ、命に及ぶケガじゃないそうで、あいつなら心配ねえっす」
入善寺、忠則が立てた俊正の代理である、初めての野駆けで緊張ぎみである。
「で、おんしが入善寺お主様の縁者かえ」
「おすさま?」
信之が聞きなれない言葉で嘉助を見る、忠則様のことだよと教えてくれた。
「う、うん、おすは叔父にあたるのでは?」
「おいおい、おかしなやつだな、お主様に甥がいるとは初耳だが、まあいいや今日はよろしくたのむぜ、嘉助もな! ……で、その足袋はなんじゃ?」
信之はナイキのスニーカーを履いていたのである。
「これは、草鞋や足袋ではないですね…、何と言ったら良いか……」
「まあ何でもええがそんな足袋で走れるのかのう?」
心配してくれているのだろう、案外良いヤツだと思った、信之と嘉助だけが借りてきた猫状態でいる中、皆が笑顔で会話している光景を見ると、今も昔も…
いや、今も将来もスポーツマンに悪いヤツはいないんだなぁ~と変な感心をした。
彼岸会の法要が終り野駆けの開始となった、龍天寺の山門より境内を抜け拠点を廻り山門に帰ってくる、それを三周して大広間の前がゴールとなる。
野駆けスタートの合図がユニークだった、太鼓がドン!と鳴りその後小さくドドドドと響く、最後にもう一度大きくドン! と鳴るのである、走り手はドンからドンまでの間にどのタイミングで出ても良いのだが、野駆けは距離も長いし抜け駆けは卑怯なので皆最後のドン!で出るのである。(大和人らしいです)
最初のドン!で出たのは信之だけだった、あれ!?っと思いその場で待っていたが最後のドン!が鳴り、皆が一斉にスタートを切るとあっけなく置いて行かれてしまった、観衆は大笑いである。
信之があわてて追いかけるが皆の速いこと、10㎞を走るスピードではない、どうなっているのか、この時代の人はこんなに早く走れるのかと焦りを覚えた。
何とか最後を見失わずに付いて行かなければコースが分からない。昨日峰子にコースを尋ねたが、皆と一緒に走り最後に一番になりなさいと言われたのだ。
最初からオーバーペースの展開に一瞬にして自信が無くなった、しかし待てよ?こんなペースで完走出来るはずがなく、皆は走り方を知らないんじゃないのか……?そう考えると焦って思い切り走っていたペースを落とした、コースは観衆が取り囲んでいるので迷うこともない。
入善寺の前、先頭集団の8人に大きく遅れて信之は単独走である、峰子が女中たちと浮かない顔でこちらを見ている、手を振ったら横を向かれてしまった。
「あ~あ、嘉助に頑張ってもらうしかないな」
の声が観衆の中から聞こえた、応援の声は一声も無かった。走っていて虚しかったが野駆けは始まったばかり、長距離の高等指導を受けた者が野生の様な者に負けるはずがない! いや彼らが野生ならば勝てるはずがないのかも知れない。
一周目の半分くらい行くと道端で嘉助が草鞋の紐をを締め直していた、止まるとペースが乱れるので彼にはゆっくりでいいと声を掛けて走り抜けた。
西の大川(桂川)の月橋を渡ると龍天寺までわずかである、観衆も多くなり境内の大広間では彼岸会出席の重鎮と各寺院のお主様や斎宮が見ているのである。
一周目一番は龍天寺・大輔、少し開いて常光寺、念仏院、涼心寺と続く、自寺の代表が来ると皆大きな声を掛けた、首を長くして待つ忠則だが、嘉助も信之もまだ来ない、入善寺以外が通過して少し経った後に信之が入って来た、忠則はかける言葉も無かった。
信之はもうそろそろ前がバテても良い頃だと思っていた、一周目を無難に走り二周目は少しペースを上げた、入善寺手前で前が見えた、どの寺の者か知る由もないがかなり足にきている、峰子の前であっさりと抜く、信之も余裕はないが峰子がガンバレと言ったのが分かった。前を行く者たちと信之の足の速さの違いが分かるのか、観衆が”いけ!いけ!”と声援を送ってくれた。
観衆の応援は力を与えてくれる、信之が現役で駅伝を走ったときは沿道の声援に頭を下げながら応えた、こんな走り方をするランナーはテレビでは見ない……。
月橋で皆に追いついた、前半のオーバーペースで皆ヘロヘロだ、だが龍天寺境内では見られ方が違うのでまた頑張って走る。だがいくら頑張ってもペースを抑えてきた信之とはスピードが違う、大広間の前で皆をごぼう抜きだ、各寺のお主様が上品さを忘れ必死で自寺の応援をするが、一番の大声は入善寺忠則だった。
彼もまた一週目には声出しを抑えていた?ので大声が出せるのであろう。
ただ龍天寺の大輔は流石に韋駄天と呼ばれる実力があった、三周目も足の衰えなく一番で境内を駆け抜けて行ったのである。
入善寺前を韋駄天が行く、肩を怒らせて力強く走る、不格好だが正に野生の走り、野駆けにおいて大輔は特別なのである。皆が気になるのは二番以降であった、先程の信之の走りに期待するが流石に上位は無理だろうと思っている。
観衆が騒ぎ出し二番が来たことを告げている、誰が来るのか皆の期待の中、角を曲がって見えた二番手は、なんと信之であった。
「やった~ 墨染の鉢巻きだ、うちが二番だ、うちが二番だぞ!」
「うちに間違いはないがあれは誰だ?」
「あれはお主様の甥っ子でねえか」
「お主様に甥っ子? いたのかえ?」
「ああ、五日ほど前に来たらしいが、いいじゃねえか、ほら来るぞ! いけ~!」
「そうだ、いけ~! がんばれ~!」
現金なモノである、一周目声も出さなかったが今は自分の身内の様に応援する。
峰子も驚いた、信之を信じてはいたが現実のモノとなると異常に興奮するのである、皆は信之を応援した後龍天寺へ向かった、もちろん結果を見るためである。
先頭を行く韋駄天・大輔も終盤は流石に足に来ていた、ここまで差が開けばもう大丈夫だと歩き始めたのである。観衆の声援も呆れたモノに変わる。
「やい大輔、走らねえか!野駆けで歩いてどうするんだ」
「ああ少しは休まねえと最後走れねえからな、もう勝負はついてんだし」
「ああそれなら俺んちで一服して行きなよ、たまには他所に一番やってもいいじゃないか」
「そうは行くかい、今年も一番太鼓は龍天寺のモノさ」
最後をカッコよく?ゴールするため少し休んでいるのだ、月橋手前まで来て走ろうと思った時、何やら急に後ろが騒がしくなった、二番が来たのである。
おかしい、そんなはずはないぞ?と思ったが振り向くと入善寺の甥っ子が凄い速さで迫って来るではないか。あわてた大輔が急に走り出す、少し休んだおかげでこちらも凄いスピードである。信之も必死でラストスパートをかけるが大輔の地足の凄さに中々追いつけない、観衆が一気に盛り上がる、近年は大輔の一人勝ちで一位争いは無かったのである、特に入善寺から駆け付けた観衆が大騒ぎだ。
逃げる大輔、追う信之、どちらも必死の形相だ、だがその20mほどの差が縮まらずに龍天寺に入りそうだ、信之も力いっぱい走ったが駄目だった、大輔が左に折れ先に山門の中に消えた。
大輔は勝利を確信したが二番がこれ程近かったとは思わなかった、休んだせいがあるにしても想定外である、だがもう大丈夫だと思い尚一層速度を上げた。
勝負事と言うモノは終わるまで分からない、大輔がもう勝ったと油断した瞬間、山門の石段につまずき脇の石灯篭に頭から思い切り突っ込んだのである。
信之が後を追って山門を抜けると大輔が頭から血を流し倒れているではないか……、観衆も近寄って来たが、周りを取り囲んでいるだけだ。
「大輔、大丈夫か!」
信之が声を掛ける。
「ああ、これくらいどうもない」
医者は、と思ったがこの時代の医者?に期待は出来ない、咄嗟に上衣を脱ぎ丸くまとめて大輔の頭に押し当てた。
「自分で押さえておけ、後は背負ってやる」
ゴールまで残り50mほどだ、軽い脳しんとうを起こした大輔を背負って大広間に帰ったのである。 太鼓が二つ鳴った。
比叡山の高僧が大輔に何やら呪文を唱え、これで邪気は消えたとの事である。
そうしているうちに続々と野駆けの代表が帰って来て大会が終了となる、嘉助の姿は無く、途中で棄権?したようだ。
今年の一番は入善寺信之、二番が龍天寺大輔である、忠則が大喜びでこれがわしの甥じゃ、わしの甥じゃと声高々であった。
皆が騒いでいる広間の中をどう言う訳か、六条御息所が静かに御簾から出てきて信之の前に立った、皆が唖然とした。
この時代、高貴な女性は安易に顔を他人に見せなかった、宮廷では御簾を下ろし朧な姿、近しい相手にでもせいぜい御簾を半分上げ衣の一部を見せるだけだったのである、だから皆は驚きその場に伏せた、高貴な女性は見てはならない存在だったのである。信之だけが平然と頭を上げて笑っていた。
「よく競い相手を助けられたの、美しき心を見せていただきました」
「……」
「明日の宵にでも野々宮に来るがよろしかろう」
そう言って御簾内に戻った。
これは困ったことになった、信之でなく作者の信幸がである。タイムスリップのみ想定して書き出したが、それ以降は完全な思い付きで進めている、この後の展開をどう表現し、まとめられるのか心配である……。