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もみじ 千年の想い 上3

「あなた、起きてください!」

 聞きなれた妻の声がした……。 一度ではなく何度も呼んでいる。

 信之は目を閉じたまま思った。ああ良かった、家に戻ったんだ。あんな訳の分からぬコトが続くはずがないだろう… もう少し寝かせてくれと心の中で思った。

「あなた、時間ですよ、会社に遅れますよ!」

 仕方なく薄目を空けた。

「うう、まだ真っ暗じゃないか?」

「支度をしてくださいな」

 妻が起こしてくれたものと思っていたがそうではなかった、硬い板の間で背中が痛い、高灯台のゆらゆらした灯りが昨日の女中頭の顔を照らしていた。

「あなたは? あっ、ミネコさん? どうして……」

「どうしてって、貴方が消えて行くのを見届けるつもりでしたが?」

 信之は現実ではないと思ったが、慌てて身体を摩り夢でないことを実感した。

 これは一体どうしたんだ、SFドラマのタイムスリップと言うヤツか? 自分はこれからどう生きたら良いのだろう……。

 思慮深いが楽天的な面を持つ信之は、こうなれば現実を受け入れるしかないと考えた、いま理屈は考えまい。出来ないことを願っても仕方がないコト、今はこれから出くわす未経験のモノに対し、出来る事を精一杯するしかないのである。

「ささ、これに着替え為されれば人の見る目も和らぐかと?」

 差し出された衣装を広げると、上下さえ分からず、どのようにしたら纏えるのか身に着けようが無かった、峰子に着方を教えてもらいながら落ち着いて見ると上着の直垂ひたれと裾絞りの小袴こばかまに分かれている、一度身に着けると後はそう迷うこともなく着られるようになった。

「まあ、お似合いですこと」

 信之は照れ臭かったが”郷に入れば郷に従え”と開き直った、下手に意識する方がオカシイのである。

 時代の衣装を身にまとった信之は不思議に活力を感じていた、日頃の腰の痛みは感じられず、先程起きた時の背中の痛みも消えていた。まるで青年に還ったような活力さえ感じるようであった。

「あ~あ、こんな早朝から何をするのですか?」

「貴方さまはお務めが無いようですが、宮仕えの者は皆この時間に支度を整え出仕するのですよ、いずれの時に備えて習慣となされるのが宜しいかと?」

「宮仕えですか……?ここはお寺でしょ?」

 峰子が呆れたように答える。

「ここの忠則様もかつて太子様の侍読(じどく=学者)として宮中にお仕えなされ、今は少納言の官職を授かっているのです」

「はぁ……、私は何をしたらよいのでしょう?」

「分かりません、わたくしも成り行きで仕方なく貴方さまに付いておりまするが

どうすればよいのか分からないのでございます」

「そうですよねぇ~、どうしてこんなコトになってしまったんだろう」

「まあ忠則様がお決めになって下さるでしょう、わたくしはそれに従うのみ」

 そうこうしているうちに辺りが白みかけ、バタバタと誰かが迫ってくる様子がうかがえた。入善寺三代目住職・少納言清原忠則である。


 『枕草子』清少納言の清は姓で清原の略である。少納言は官職であり、当時天皇の侍読(天皇の側に仕え学問を教授する学者)を終えた後に与えられる官職だった。 清少納言と言っても複数人いたのだろうが、歴史に残った方は偉い。

 忠則はバタバタとやって来たが信之の居る部屋(簾や衣服掛けで仕切ったスペース)にはそーっと入って来た。

「入道じゃ、入ってもよいかな?」

 歳は五十程か? 恰幅が良く、元学者と思えぬ表情の豊かそうな住職がニコニコした顔をのぞかせた。

「おおう、オモトか。なにやら不思議の異国から来られたようじゃの?」

「……」

「心配しなくても良い、取って喰おう等とは考えておらぬでな、ははは」

「信之さん、このお方がご主様(住職)忠則様じゃ。ご挨拶をなされよ」

「ははは、峰子よ緊張するではないか、ゆっくり打ち解ければ良いのじゃ、だが名前くらいは聞いておこうかの? 清原姓と申したそうじゃのう?」

 信之は緊張して答えた。

「はい、キヨハラノブユキと申します、異国というか…… 違う世界から来たようでどうしたことやら訳が分からない状態にいます……」

「ふむ、あの世もこの世も理解し難いコトがたくさんある、じゃがあの世のコトはさておいて、この世のモノは見ることも触ることも出来る。何も見ずに悩むより、まずは周りを見てから考えれば良い」

 信之はこの入道が何か自分を理解してくれているような気持ちになった、一筋の頼れる綱を握らされたような希望に似た感覚が芽生えたのである。

「峰子、信之さんを色々案内して差し上げよ」

「ですが、わたくしは秋彼岸の準備がございます」

「なに、モチくらいはお前が居ずとも困るモノか、逆にはかどるかものう?」

「そ、そう言われますか……ならばゆるりと信之さまのお供をしてまいります」

「なにも怒らずとも良い、これも其方にしか出来ぬ大事な仕事と心得よ」

 峰子は一昨年前に亭主と死に別れ、忠則の庇護を受ける身だった。

「ですが、どこを案内すればよいものかと……?」

「ははは、違う世から来てしもうたのじゃ、どこでもよかろう。ああ今、野々宮に斎宮様がおられる、失礼の無いよう垣間見れると良いがのう」


 斎宮(斎王)とは伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女のことであり、天皇の代替わり毎に新しい斎宮が選ばれるのである。一条帝の斎宮には先の東宮妃(六条御息所)の娘宮が選ばれ、初斎院で半年間の斎戒生活をした後、この野々宮で伊勢渡りの準備をしているのである。

(”六条御息所”で何だコレは?と思われた方、まま、この辺は適当に……)


 信之が峰子の案内で龍天寺(現天龍寺)境内に入ったとき、前方にある蓮池周りを凄いスピードで走っている若者がいた、信之が不審に思って尋ねる。

「なにをあのように走り回っているのでしょう」

「ああ、あれは今度の野駆けの修練じゃ、今年も大輔に敵う者はおるまいよ」

「野駆け?」

「野駆けを知りませぬか……?」

 嵯峨野一帯での秋彼岸法要の後、各檀家対抗の野駆け(マラソン大会)があり、皆が楽しみにしていること等を言って聞かせた。

「ほぅ、檀家代表で褒美も出るとなると負けられませんね?」

「信之さんもお出になりますか?」

「私なんぞ、それにもう代表の方もいらっしゃるのでは?」

「誰が出てもいいのですよ、ただあの大輔には敵わないので代表の他に出る者がいないだけなのです、今年も龍天寺に付き合わされるだけでしょう……」

「はい、どちらにしても私には関係のないモノですね」

 二人は途中出会う龍天寺の僧侶に挨拶して竹林を野々宮へと向かった。

「斎宮さまとはどう言う方なのですか?」

「信之さん、斎宮様はとても身分の高いお方なのです、軽々しく斎宮さまと呼ぶのもはばかられるモノなのですよ」

「ああ、そうでしたか。私の時代でも”斎王代”と言うのがあるのですが……」

「サイオウダイ? 分かりません」

「いや、イイのです。私の方が分かる努力をしないといけません」

「斎宮様はまだ幼い姫宮ですが、同道される母君の六条御息所様がとてもご立派な方だそうです、あの源氏の君とお知り合いとか」

「源氏の君、光源氏のことですか!?」

「ま、近衛大将様に対しそのような軽々しい言い方は… 先ほどお戒めました」

「源氏の君は良くて光源氏はいけないのですか? ま、気を付けますが……」

 郷に入れば郷に従え? しかしコレは何と言うコト、源氏物語の中に迷い込んでいるのか? これは現実ではない…… 少し落ち着いて考えたいと思った。

「信之さん、あの黒木鳥居が野々宮です、斎宮様一代限りのお社ですよ」

「一代限りの神社? いやいや、何でも受け入れますよ」

「伊勢の神宮で帝の神様に仕えるためにここで清浄されるのでしょう、私たちは生き神様と思いご奉仕させてもらっているのです」

 野々宮の一部は解放されている為、二人は外宮にお参りをした、だが斎宮や六条御息所に会うことは無かった。 それもそのはずこの時代の高貴な女性は御簾の内に隠れて他人に顔を見せることをしないのが通例だったのである、面会の時等も御簾を少し巻き上げ衣の裾を少し見せるだけであった。

 西の大川(桂川)まで出向いたので庶民の暮らしにも少しは触れられた、皆は初めて見る信之に最初は警戒感表わだったが、峰子が上手く取り成し、信之の人柄も信用出来たのであろうすぐに打ち解け合えたのである。

 帰り野々宮神社で琴の音が聞こえた、この時代琴が奏でられるのは上流の証である、斎宮=皇女なので高貴さは疑うべくもないが、演者は母君と思われる。

 青竹と少し色付きかけた紅葉に染まった小路には、風が運ぶ木々の擦れ合う音の隙間に美しい琴の調べが漂っている。信之も琴など聴くのは初めてだったが、心の中に何とも言えぬ優雅な響きを感じたのである。

 もし光の君が居たならば、すかさず笛を合わせ風流の趣を一層高めるところである……。 六条御息所、本来は先の東宮が健在ならば一条天皇の代わりに即位されて皇后となられたお方である。宮廷内にて一生を終えることも許されるのであるが、それでは周りの者に気を遣わせると、自ら宮廷を出て六条に居を構えていた、帝の代替わりに娘が斎宮となった事でそこも引き払い伊勢同行を決めたらしい。

 峰子から六条御息所のことを色々聞き、宮中から遠く音楽などとは無縁の地でみやびな琴の音を聞きながら野々宮を離れたのである。

 夕刻二人は入善寺に帰って来た、峰子は調理場の様子を見に行ったので、信之は庫裏の裏手でせわしく働いている与助の手伝いをした、与助は最初嫌がっていたが、信之がしつこく言うので薪割りなどさせたのである。

 三日目の朝も峰子が起こしてくれた、今日は気分の良い目覚めで、身体は日々活性化している気がした、峰子の言葉にも違和感がなくなり、自分も普通に喋れている。 朝の支度はもう前からやっているかの様にするべきコトが分かっているし、周りの者も違和感なく接してくれている、不思議なことだ。

 主の清氏忠則が沐浴をしている最中に、俊三があわててやって来た、妻の雪乃が対応するが、息子の俊正が山仕事で大怪我をして、明後日の野駆けに出られなくなったらしいのである、沐浴を済ませた忠則が急ぎ足で玄関にやって来た。

「なに、俊正が大怪我と?」

「そうでごぜえますだ、昨夜帰ってこねえもんで今朝作業小屋まで探しに行ってみると、どうも木から落ちたらしく、その時は意識がねえんでございますよ」

「それはいかん、まだ山の作業小屋か?」

「はい、意識は戻りやしたが足が立たねえんでごぜえます、命には係わらねえと思いやすが激しく痛がるものですから」

「よし、分かった野駆けは心配しなくてもよい、早よう戻ってやれ」

 心配無用とは言ったが野駆けは明後日である、秋の一大イベントに入善寺だけ棄権は許されない、だが今から代役探しとは……、忠則は肩を落とした、すると。

「居りますよ、代わりに走れる者なら」

 後ろで聞いていた峰子がにっこり笑った。


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