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「ふうん、最近の子はほんとに根性がないよねぇ」
市内に40スクールほどの分室を持つ大手塾の塾講師を辞める時、スクール長は心底そう思っている顔をしていた。
萌絵にとって、このバイトは、お金を稼ぐこと以上に意味はない。
いずれ教員試験を受ける時に履歴書に書けるかもしれないが、そこに他のバイトより有利な点などないだろう。
「すみません。失礼します」
法律ではどうか知らないが、萌絵の常識として、辞めるまで一か月の期間をとった。
だから、スクール長が萌絵に不満を持っている状態で来月まで努めなければならない。
淡々と業務をこなせばいい。
けれど、見えない心の負担はどうしても消えない。
「……辞めるの?」
バックヤードに行くと、スクール長の声が聞こえていたらしいバイト仲間に、小さな声で訊かれる。
「まあね」
「そうだよねぇ、最近、ちょっとねぇ……」
生徒に勉強を教えるのが、講師の仕事だと思っていた。
しかし、実情は、講師の時給より安い事務仕事や、ビラ配りがしょっちゅうある。
それはいい。
仕事の範疇だ。
けれど、一番きついのは、生徒獲得のために何をすべきか、というレポートを書かされたり、研修の名目で集客中心の議論をさせられることだ。
正直、バイトのやることじゃない、と思っている。
「少子化なのにこの辺どんどん塾できてるもんねー、そりゃ生徒数も減るわ」
「だよね。それをさ、バイトになんとかさせようとしてるとこが一番やばいよ」
もちろん、本部でもいろいろ手は打っているのだろう。
その対策の一部として、こちらの時間を取られたのではたまらない。
「夏季講習の前に辞めるのは賢いよ……私も考えようかな」
講習の時期は、週に三日、という契約も素知らぬ顔でなかったことにされる。
毎日朝から晩まで授業を詰め込まれ、間に事務作業をし、ビラを配る。
「シフトがきっちりしてないのが一番こまる」
「あー、萌絵、かけもちだもんね」
「そう。他のバイト断ってこっち来て、なのに講習終わったらまたシフト減って、たまに休みの日に呼び出されてさ」
収入が安定しないのが一番こまる。
なぜなら、萌絵は生活費を自分で賄っているからだ。
奨学金も借りている。
それでも、カツカツだ。
親は、授業料だけは出してくれている。
それ以外出さない約束で、進学した。
バイトを掛け持ちするのは、高校の頃から決まっていた。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
22時を過ぎて退勤し、電車に乗って自宅の最寄り駅へ戻る。
大学は中心部から外れたところにあるので、萌絵でも徒歩圏内に住めるのはありがたかった。
本当はそれでも、自転車がほしい距離だ。
駅から少し歩いたところにあるサイクリング店に、素敵な黄色い自転車があるのを、ずっと横目で見ていた。
数万円するそれを買おうかどうしようか、もう半年以上迷っている。
「あ、佐々木さん?」
振り向くと、同じ研究棟の、津和野紗良がいた。
ゼミは違うが、共同で飲み会や行事などがあるので、知り合いではある。
「やっぱり佐々木さんだ、お出かけ?」
「ってか、バイト。津和野さんは?」
彼女は、ふんわり笑うと、手にしていた紙袋を持ち上げた。
老舗デパートの地下に入っている、ドーナツショップのものだ。
「親の会社がコラボしたっていうから、買ってきた。疲れたー」
萌絵がたまにご褒美で買うドーナツは、100円台だが、コラボしたというドーナツの価格帯はその三倍近い。
SNSによく取り上げられるが、自分で買うことはないだろうなと思っていた。
その紙袋を、彼女は、とめてあった銀色のおしゃれな自転車のカゴに、なんとか真っ直ぐにいれようと四苦八苦している。
「親の会社?」
「うん、母の、料理学校」
「へー。すごいね」
「だよね」
ようやく、斜めにならずにカゴに納まったことに、満足そうにうなずくと、じゃあまた学校でね、と走り去っていく。
萌絵はその後姿を、じっと見送った。
数日後、紗良が車との接触で自転車を壊したと聞いた。
「え、怪我は?」
「なんか奇跡的にしなかった」
「えー、不幸中の幸いだね……」
萌絵の言葉に、真面目な顔で頷いている。
その顔を見ながら、あの綺麗な銀色の自転車を思い出す。
そうか。
あれ、壊れちゃったんだ。
自分とは何も関係がないのに、なんだかそのことを残念に思う。
自分が欲しかったものだからだろうか。
紗良は、警察も呼ばず病院にも行かず、ただただ自転車を引きずって帰ってきたらしい。
決して頭の悪い子ではないのに、どこか世間知らずなところがある。
料理学校を経営しているという母親のせいだろうか。
世間を知らなくとも、彼女は生きていける。
「津和野さんってさぁ、末っ子?」
純粋な疑問だった。
けれど、周囲が笑ったことで、そうは聞こえないことにはっとする。
でも――本当にただの疑問だっただろうか。
心のどこかに、少しだけ、妬みの気持ちがなかっただろうか。
紗良は戸惑ったようにきょとんとしている。
ほんのりとした罪悪感から、目をそらす。
嫌な気持ちになっただろうか。
どうしよう。
その日の帰り道、萌絵はバイト先に向かいながら、いつまでもそのことを考えていた。
けれど。
駅までもう少し、というところで、紗良を見かけた。
意を決して声をかけようとしたが、一人ではないと気づき立ち止まる。
隣には、父親らしき男性がいて、二人で自転車を選んでいるようだった。
素敵な、黄色い自転車。
萌絵は踵を返し、電車に乗って、バイトに向かった。
何も考えずに働き、帰って来て寝て、起きて学校へ行く。
疲れていた。
いつもは歩く距離だけれど、今日だけはバスに乗ろう。
やって来たバスは、がらがらだった。
スマホをタッチし、乗り込んで、席を探すために顔を上げる。
「……は?」
萌絵が異世界で初めて見たのは、ファンタジー映画に出てきそうな、金髪碧眼で鎧をまとった男だった。
「起きたか聖女殿! もう間もなく到着だぞ!」
「声がでかいです王子様」
使い込まれた鎧をガチャガチャと鳴らし、男は馬車の小さな窓から外を覗いている。
「魔物討伐の直前に睡眠をとるとは、歴戦の戦士のようだな!」
「あー、夢見てた」
「そうか、ならば疲れているのかもな! まだ寝ていても良いぞ!」
何の夢か、聞かない。
萌絵の見る夢の半分は、向こうの世界の夢だ。
「奨学金、踏み倒しちゃったな」
「うん?」
「ねえ。津和野さんのこと、どう思った?」
「津和野? おお、紗良嬢のことか。うん、良い魔力だな、あれは」
思わず笑う。
顔でも性格でもなく、魔力で人を評するのはこの人くらいだ。
「聖女になれそう?」
第一王子は、窓から顔を離し、真っ直ぐ座り直した。
「うん? いや、それはない。君ほどの魔力ではない」
「そっか」
「それに」
自分の剣を確かめ、鎧を点検し、萌絵の剣をこちらに手渡しと、忙しそうだ。
現場が近いというのは、本当らしい。
「彼女に魔物は斬れまい」
確かに。
萌絵は、自分の剣を引き寄せ、準備を始めた。
グリップがもう少し効いてもいいな。
ゴムを巻くのはどうだろう。
だとしたら、まずはゴムの木から探さないと。
「今日、津和野さんのところでカレーパーティーなの。食べたい?」
「何! 今日? 討伐の後でか?」
「そうよ。まああなたは連れていけないから、テイクアウトになるけど」
「ふーむ、なんとか聖なる森に入れる術はないものか」
「あー、私みたいに全力で魔力ぶつけて無理やり開くか、もしくは」
「もしくは?」
「津和野さんの心を開くか。どちらかね」
魔力は足りぬ、と心底残念そうだ。
馬車が速度を落とす。
「間もなくだな」
「ねえ、いつも思うけど、もう少し遠くで馬車をとめてあげたら?
馬が怯えて可哀そうなんだけど」
「馬が可哀そう」
眉を寄せ、第一王子が萌絵の言葉をただ繰り返す。
意味が分からない、という顔だ。
駄目だこれは。
紗良とは相いれないタイプだ。
「馬が可哀そう……」
知らない感情を理解しようと頑張るところは、わりと、王族らしくないなと思う。
女の寝顔を見て、キショい感想ではなく、疲れているのかと言えるところもだ。
異世界に来て、自分が聖女だと知らされた時、萌絵は泣き叫んだ。
なんで自分なんだ、と。
君でなければならない、と言い続けたのは、この男だった。
そう昔のことではないのに、もはや懐かしいとも思える。
「よっしゃ、行こうかー」
「お、そうだな! いつも通り、俺が先に出るぞ」
「いつかみたいに死にかけないでね」
「はははは!」
なにわろとんねん。
飛び出していく背中を見ながら、剣の鞘を抜く。
足首と手首を回し、アキレス腱を伸ばして、準備運動もしておこう。
討伐は好きではない。
けれどこれは、君でなければならない、と、何度も、何度でも萌絵に語り掛けてくれたそのことを、二人で証明する作業でもある。
「私でなくちゃ」
もしかしたら救われたのは萌絵自身なのかもしれない。




