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そろそろいいだろうか。
紗良は、目の前のダッチオーブンを、上からも下からも、中も蓋の裏も、全てをじっくり眺めまわした後に首をひねる。
モノリスの領民たちに教えられたとおり、火を入れて焼き、油を塗って焼き、また油を塗って焼いて、それを何度か繰り返した。
少し粉っぽかった表面が、すっかり艶を増している。
もういいだろう。
じっくり観察した結果、そう決めた。
手にしているのは、二次発酵まで済ませたパン生地だ。
部屋の、不明な仕組みで動いている家電のオーブンで焼くか、レンガで組んだパン窯で焼くか、迷っていたものだ。
そして思いついた。
ダッチオーブンでもいけるのでは?
紗良は急いで、焼き肉をする箱形のアレ、に炭を起こした。
せっかく足つきの鍋にしたので、直接埋める形にしよう。
鍋の中にオーブンシートを敷き、生地を入れようとしてまた迷う。
うーん、ちょっと不安だ。
焼き加減が分からないな。
まるっとひとつで焼いて、生焼けになったら嫌だ。
少し考えて、部屋に戻る。
パンカードで生地を四つに切ってそれぞれ丸めると、鍋に戻って底に並べた。
ちぎりパンなら、火も通りやすいだろう。
ナイスアイディア、私。
いい具合に焼けた炭の中に、鍋を入れ――入れようとしたが入らない。
やっぱり径が26㎝は大きかったか。
「どうしよう」
ファイヤーピットのほうも、口は広いが底はすぼまっていて狭い。
炭はかんかんに焼け始めているが、このままでは使えない。
こうしている間にも、パン生地の発酵が進んでしまう。
「どどどどうしよう」
あ、そうか、魔法だ。
こういう時にとっさに思いつくようになったら、異世界人として一人前になれるだろう。
保存をかけて、発酵を止める。
何も解決はしていないが、とりあえず、落ち着いて考えられるようになった。
いくつか手はある。
焼き肉をする箱形のアレ、のサイズアップバージョンを作る。
……二台になるのか、ちょっと要らないな。
ファイヤーピットに炭を詰めに詰め、底上げして面積を確保する。
……炭をぎゅうぎゅうに詰めるのは、おそらく危険。
パン窯にダッチオーブンごと入れて焼く。
……鍋いらなくない?
よし。
地面にかまどを作ろう。
向こうの世界では禁止らしいけれど、ここは異世界だ。
この言い訳、前も使った気がする。
紗良は、以前、鉱石を採取した場所に行き、一抱えほどの石を集め、運搬すると、そのまま円形に並べる。
場所は、ウッドデッキから川の方向に少しいったところ。
一応、山から遠い方がいいかな、という配慮だ。
底には小石が元々敷いてある。
そこに、焼けた炭を入れた。
「いい感じ」
足つきダッチオーブンを、円の中心を見極めつつ置く。
そして、火ばさみで拾った炭を、蓋の上にも置く。
保存を解いて、息をついた。
ちょっといろいろと予想外だったけれど、どうにかなった気がする。
「美味しい」
外がぱりぱり、中がもっちり、というのはあまりに使い古された表現だけれど、他に言いようがない。
このパンを焼くまでの苦労が味付けになった可能性は、ある。
それでも、大変に食感が良く、大変に香ばしい仕上がりだと言える。
満足度が高い。
「そうだ。お礼におすそ分けしよう」
紗良は鳥を飛ばした。
フィルが大聖堂にいることは、わずかに共有した魔力で分かる。
すぐに、金色の鳥が了解を伝えに飛んでくる。
「一緒に行きましょ」
紗良は、急いでパンを布巾で包み、紙袋に入れた。
そして鳥を指先にとまらせると、そのまま大聖堂へと跳んだ。
「こんにちは」
「まあ、いらっしゃい紗良様」
アニエスに迎えられ、さらに奥からフィルも出てくる。
金の鳥は、フィルの指先に移り、そのまま吸い込まれるように消えた。
二人に奥の居住スペースにお呼ばれし、小さな応接室に落ち着いた。
緑色の壁に、茶色い革張りのソファで、とても居心地が良い場所だ。
「これ、さっき焼いたんです。美味しかったから、おすそ分けです。
ほら、フィルさんには、最近色々とお時間をとってもらってたから」
「気になさらずとも良いのです、それが私の仕事ですからね。
しかし、お気持ちはありがたくいただきましょう」
ちぎりパンなので、四つに割って、口をつけたひとつは置いてきた。
なので、残りの三つが包まれた布を、テーブルの上で開く。
「まあ、いい匂い」
「そうでしょう! フィルさんに連れて行ってもらって、佐々木さんに買ってもらった鍋で焼いたんです」
「ああ、あの鉄鍋でですか。……うん、これは美味しい」
「ほんと、美味しい! 挽きたてなのかしら、いい小麦ですわね、どちらの?」
紗良は、嬉しくなった。
「はい、私の故郷の小麦です。国内シェア一位なんです、特産で」
そう言うと、なぜかアニエスが、うぐ、とパンをのどに詰まらせた。
「な、げほ、こきょ、げほ、これ、げほ」
「落ち着いて、アニエスさん、お茶を」
フィルに渡された紅茶を飲んで、ようやく落ち着いたようだ。
「こ、故郷というのは、いわゆる、異世界の?」
「え? ああ……そうですね」
紗良からみれば、異世界はこちらだ。
けれど、アニエスにとっては、向こうこそが異世界なのか。
ちょっと面白い。
「まあ……その、変な意味ではなく、大丈夫でしょうか神官長」
「ええ、大丈夫でしょう」
「即答ですわね。さては初めてではないのですね?」
フィルは、にっこり笑った。
「それは、体調的な意味でですか? それとも、倫理的な?」
紗良が聞いてみると、二人そろって肩をすくめる。
リアクションは貴族的なんだな。
「どんな意味でも、問題ありませんよ。この大聖堂に限っては」
「その勝ち誇り様からすると……すでに教皇様に話を通してらっしゃるとみましたわ」
「万事抜かりなく」
アニエスは、また、ぱくりとパンを食べた。
まるかじりではなく、手で小さくちぎって食べている。
実に上品だ。
「つまり……神官長様は、このような美味しいものを、しょっちゅう召し上がられていると、そういうことですか?」
「え」
「そういうことですよね」
「あ」
「なるほど」
「いえ、しかし」
「違うのですか?」
「違いませんが、しかしですね」
「ええ、私は聖なる森へは立ち入れませんからね、分かっておりますとも」
二人のやり取りの間、紗良はじっと息をひそめていた。
なんとなく、その方が良さそうだと本能が言っていた。
サンドイッチにしたわけでも、バターやジャムがついているわけでもないパンを、二人は黙々と食べた。
満足そうだ。
三つのうち二つが消え、そして最後の一つが、テーブルの真ん中に残された。
今しかない。
紗良は、さっとその一つを布巾で包むと、アニエスの前にぐいっと押し出す。
「私の分は部屋にあるので、よかったらどうぞ」
「あら、よろしいの?」
「はい。美味しそうに食べてくれたので」
アニエスは、可愛らしい仕草で小首をかしげると、ちょっと失礼、と出て行った。
そして、すぐに何かを手に戻ってくる。
「先週、父から届いたワインです。紗良様はお酒をたしなまれましたよね?」
「はい! たしなみます!」
「パンのお礼にお持ちくださいな」
「対価にしては高すぎませんか」
「いいえ、むしろ不足で申し訳ないほどです」
笑顔で差し出され、反射的に受け取ってしまった。
アンナのところで買ったよりも、さらに高級感がある。
ラベルが糊付けされていて、コルクもしっかり詰まった良いものだ。
この世界は本当に、狭い地域での格差が大きい。
「そういえば、マチュー氏のところで、子牛を飼い始めたようですよ」
「農作業用の牛を増やしたいって言ってましたけど……子牛?」
「大人の牛を運ぶのは骨が折れますからね。子牛のうちに買い求めて育てる方が安いのです」
紗良は急に、尻の辺りがそわそわしてきた。
子牛。
子牛かぁ。
あれは可愛い。
収穫時期で忙しいだろうからとしばらく遠慮していたけれど、ちょっと顔を見に行くくらいなら許されるだろうか。
「来週あたりは、フェルメンタルが終わって、ドルシスの収穫前でしょう」
「じゃあ来週にします!」
紗良は、子牛は何が好きなのか、調べておくことにした。




