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「聞いてますか、あなた、そこ」
ゆっくりと横倒しになりかけていたヴィーが、紗良の一言でぱっと体勢を直す。
全く、今は大説教の最中だというのに。
「とにかく、いいですか、ここは私の居住区で、ヴィーは居候です。
ん? いや……居候だと、ごく潰しみたいだな。
主食は自分で稼いでるもんな、ヴィーは。
えー、じゃあ、私は大家であなたは店子です。
いや……それだとちょっと、事務的な関係みたいになる。
私たちは友達だし」
考え込みながらちらっとヴィーを見ると、またゆっくりと寝にかかっている。
「とにかく!
とにかく、同じ場所で暮らしている以上、最低限のルールはあります!
人が嫌がることをしてはいけません!」
ちょっと大きめの声に、大きな魔物の耳がぴぴっと立った。
ヴィーはヴィーなりに、反省はしているのだと思う。
なにしろ、今朝、紗良を久しぶりに気絶させたのは、ヴィーだからだ。
いつも通りの朝だった。
起きて歯磨きをして、顔を洗って、コーヒーを淹れて、外に出た。
目の前に広がっていたのは、血の海だった。
「……は?」
草地からウッドデッキ、その向こうの河原辺りまで、血がべたべたとついている。
そして、視線を右に向けると、ヴィーがいた。
何か、丸いものを叩いて飛ばしては、追いかけていた。
追いかけて追いついて、またスパーンと叩いて飛ばしては、追いかける。
楽しそうだ。
そのボール代わりの何かが、何か、何らかの、元生き物の頭部でなければ。
紗良は悲鳴をあげる間もなく、気を失った。
そう長い時間ではなかったのか、起きるとまだ朝と言っていい時間帯だった。
目が覚めたのは、ヴィーの鼻息が顔にかかっていたからだった。
じっと覗き込んでいた目が、紗良の目があいた途端に、しゅっと瞳孔を大きくする。
ばっと起き上がると、やはりあれは夢ではなかった。
血まみれの光景がそのままあった。
ただ、例のボール的な何かはもうなかった。
どうしたんだろう。
いや、聞きたくない。
「いやぁぁぁぁ!」
紗良は悲鳴を上げながら、敷地全体を浄化した。
最高位の呪文で、三回だ。
魔力が減ったことを実感するほど、全力の浄化、いや、洗浄だった。
そして、少なくとも目に見える範囲が綺麗になってから、ヴィーを座らせての大説教になったのだ。
「ぐううう……思い出してしまった。
とにかくね、ヴィーちゃん、ここでボール遊びは禁止です」
ようやく声色がいつもの紗良に戻ったと気づいたのか、途端にごろんと横になる。
さぞかし沢山遊んで疲れたのでしょう。
ため息が出そうになったが、もうさんざん怒った後なのでやめておく。
のろのろ立ち上がり、気絶したせいで落としたカップを拾って、家に入る。
もう一度コーヒーをいれて、長々と寝そべるヴィーの横に座り込んだ。
まだ午前中なのに、ぐったりだ。
ちらっ、とヴィーの目が薄く開いて紗良を見た。
目が合うとそっとそらす。
やっちまったな、という気持ちなのかもしれない。
ただ、おそらく、理由は分かっていない。
紗良がなぜ叫んだのか、なぜ怒ったのか、理解はしていないだろう。
あのボールはヴィーの大事な獲物で、大事なおもちゃで、大事な……言いたくはないが、食糧だ。
自分でこの巨体を維持するだけのものを稼いでいるのだから、当然のことだ。
なので、そこを責める気は毛頭ない。
「ただ! ここは! だめ!」
唐突な紗良の大声に、ヴィーのひげがぎゅっと寄って、耳もぎゅんっと反対を向いた。
「……いやごめん、落ち着くね、うん」
そう言ったが、ヴィーはふいっと立ち上がると、そのまま山の中に消えてしまった。
お説教は終わったはずなのに、蒸し返したようで申し訳ない。
その時、見覚えのある小さな金の鳥が、紗良の肩に舞い降りた。
ピチチッ、という可愛らしい声の後、まったく別の声でしゃべり始める。
『紗良様、大きな浄化魔法を感じましたが、何かございましたでしょうか。問題があればお知らせください』
フィルの鳥だ。
伝言が終わると、すぐにまた空へと消えて行ってしまった。
内容を聞く限り、フィルは紗良の魔法を感じ取ったらしい。
少し驚く。
けれど、教皇も以前、アニエスの実家で行った浄化魔法を感じ取ったと言っていた。
能力の高い人には可能なのだろう。
「やっぱり、後継者にしようとしてるのって、納得かも」
紗良は、自分の鳥を出した。
「なんかお前……ちょっと太ってない? まあいいか……」
せきばらい。
『ちょっとヴィーが魔物の一部を持ち込んじゃって汚れただけです、問題ありません。心配してくれてありがとうございます』
指先から飛んでいくシマエナガを見送り、改めて今朝のことを考える。
思えば、ヴィーが紗良にお土産として持ってきてくれる生き物は、全てまるごとだった。
錬金窯に放り込んでブロック肉にしてしまうから、生々しい処理は不要。
でもそんなこと、ヴィーは知らない。
美味しい部位も、そうじゃない部位も、ヴィーにとっては等しい価値だ。
ならばやはり、理不尽に怒られた、と感じているに違いない。
「はー、謝ろっかなー……でも血まみれはなー……」
申し訳ない気持ちと、やはりボール遊びは受け入れられない気持ちの間で、葛藤に苛まれる。
言葉が通じたらいいのに。
今の気持ちの全てを事細かに伝えられたら、お互い、居心地よく暮らせるはずだ。
その時、飛び去ったはずの金色の鳥が、シマエナガと共に帰ってきた。
仲良しですね。
『現在、聖女様が奉剣の儀を行っておられることはご存じでしょうか。
明日、儀式を終えた聖女様は、その翌日に、国民にお姿を披露いたします。
教皇庁から広場へと移動し、広場にあるお披露目の塔より魔法を披露するのです。
ご覧になりたければお連れいたしますが、いかがでしょうか?』
紗良は、ああ、と思い出す。
そういえば、萌絵が儀式のために一週間連絡が取れないと言っていた。
とはいえ、お披露目のことは知らなかったので、少し考える。
言わなかったということは、見られたくなかったのかもしれない。
「でも」
紗良は、ニヤッとする。
「見たい」
所作が洗練され、威厳を身に着けてきたとはいえ、紗良と接するときの萌絵はごく自然体だ。
彼女が、『聖女』である場面を見てみたい。
学ぶ、ということに特化した元大学生は、きっとうっとりするような聖女姿を見せてくれるだろう。
『見たいです!』
金の鳥とシマエナガはまた一緒に飛んでいく。
一羽をやりとりするほうが楽なんじゃないか、と考えるが、もしそれが可能ならとっくに提案されているはずだ。
それぞれの鳥はそれぞれの魔力のかたまりなので、共有は無理なのかもしれない。
『では、明後日、お迎えに参ります』
再度飛んできた金の鳥は、伝言を残して去った。
シマエナガだけ残り、ちゅちゅちゅー……とさみし気に鳴いている。
「シマエナガってそんな鳴き声だっけ?」
首をかしげる紗良を無視して、白い小さな鳥は飛び上がる。
そしてそのまま、紗良の体にずぼっと刺さって消えて行った。
「いいいいい痛……くはない!」
びっくりした。
なんにせよ、萌絵の晴れ姿を見るのが楽しみだ。
そう思うと、今朝の出来事についても、ようやく衝撃が薄れてきた。
紗良は気を取り直し、かまど用の薪を集めたり、焼き網を洗ったりして過ごした。
そろそろ夕方かと思われる頃、ようやくヴィーが帰ってきた。
ご機嫌な足取りで、そして、その口には何かが咥えられていた。
豚だ。
ヴィーが、まだただの黒い魔物だった頃、一番最初に持ってきてくれたお土産だ。
さすがの紗良も、絶対に悲鳴を上げてはならない、と腹に力を込めた。
善意100%の魔物をがっかりさせてはダメだ。
赤い革の首輪、もとい、チョーカーを輝かせ、誇らしげである。
多分、紗良の面倒をみているつもり。
なにしろ今朝は獲物をヴィー一人で平らげ、その一部でおおいに遊んだので、紗良がお腹を空かせて怒ったとでも思ったのだろう。
だからこうして、紗良の分を獲って来てくれた。
「あ、ありがとねぇ、嬉しいよ。二人で食べようねぇ」
そう声をかければ、意気揚々とウッドデッキに上っていく。
すかさず浄化をかけた。
そして、豚を浮かせて、ジッパーバッグと一緒に錬金窯に放り込む。
「浮遊を覚えて本当に良かったな……」
出来上がったブロック肉を次々取り出しながら、今夜のメニューを考える。
あれと、これと、それと。
思い浮かべるのは、ヴィーが美味しそうに食べていたもの順だ。
それは思い出の数。
積み重なって増えていく。
「そうだ、佐々木さんのお披露目にヴィーも行こうね」
また新しい記憶のために、紗良は、寝そべったままの魔物を誘う。




