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氷をぎゅうぎゅうに詰めたカップの上に、ドリッパーを置く。
ふちからはみだした氷で、ほんのちょっと斜めになったが気にしない。
粉は多め。
お湯を注ぐと、氷がパキパキと音を立てた。
蒸らし時間の間、ぼーっと川を眺める。
魚の来ない川。
「ゲームなら釣りも簡単なのに……」
時々ドリッパーを持ち上げ、お湯の量を確かめながら注ぐ。
コーヒーかすを捨て、カップを持ってウッドデッキに上がった。
一口飲むと、冷たさが喉を通っていくのが感じられた。
「暑いなぁ」
とはいえ、森と川に挟まれたこの場所は、どこよりも涼しいのだろう。
今日は人里まで行く気がしない。
もっとずっと暑かろう。
日本は今頃、梅雨時期だろうか。
最近は温暖化とやらで年々気温が高くなっていたから、梅雨とはいえ、しのぎやすくはないのかもしれない。
30度を超えちゃってたりして。
ここは、日本よりずっと湿度が低い。
それに本当は、暑さをしのぐだけなら、部屋に入ればいい。
理屈の分からない電気の理論で、クーラーが使える。
けれど、部屋にこもることを想像すると、そこまで暑くもないかな、という気になってしまう。
すっかり野生児だ。
氷を溶かしながらアイスコーヒーを飲み終えた紗良は、薪でも補充しようかなと立ち上がった。
ちょうどその時、スマホが音を立てる。
もちろん、相手は萌絵だ。
『やほ、そっちも暑い?
ごめん、暇な時にでいいから、消耗品分けてくれたら助かる。
お礼はね、ダッチオーブンの情報』
ダッチオーブンか。
まさにキャンパーの必需品じゃないか。
確かに、紗良の部屋にはない。
ホーローコーティングした鋳造鍋はあるが、可愛い色はどう見てもキャンプ仕様ではない。
多分、焚火には使えないんじゃないかな。
面白そうなので、すぐ返信をした。
『今日でも行けるよー』
『ありがたーい、じゃあ昼過ぎにどう?』
『おっけー』
薪拾いは後日にまわして、手土産でも持参しよう、と頭をひねる。
どうやら向こうも暑いらしいので、アイスに決めた。
「待って、冷やし固めるのに時間かかるか……。
あ、でも佐々木さんにやってもらえばいいよね、魔法で。ちゃちゃっと」
手土産だけど仕上げをしてもらうことになる。
まあそれはそれ。
紗良は早速、いつものチーズ工房に飛んだ。
「こんにちは」
「おや、いらっしゃい! 今日はチーズ? それともクリーム?」
「えっと、クリームと牛乳をください」
「はいよ!」
本来、工房は製造のみで、販売はしていない。
けれど、販売となると外に運び出した後になってしまう。
村人はというと、定量が無料配布だそうだ。
紗良はいつでもどうぞと言われているのでこうして訪ねている。
出来立て直販だ。
ゼロギルスマイルと共に手渡された商品を持ち帰り、浄化をかけてから、さてと外のキッチンに立った。
今日は簡単バージョンだ。
卵黄とグラニュー糖をすり混ぜて、軽く温める。
そこに、同じく温めた牛乳を入れて、バニラビーンズの中身と皮を入れた。
火を止め、冷ましている間にお出かけの準備をしよう。
着替えてから、大きめのトートバッグを取り出す。
シャンプーやコンディショナー、洗顔フォーム、基礎化粧品、剃刀や生理用品。
コットンにメイク用品に、あとはー。
そうだ、日焼け止め。
ぶつぶつと呟きながら、トートに放り込んでいった。
どうせリセットするので、紗良は何一つ困らないし、逆にこれらがなかったらと想像すれば、中身はどんどん増えていくというものだ。
自分も萌絵も、日本にいたころは疑問の余地なく現代っ子だった。
文明の恩恵が受けられない生活は、いくら女神の恩恵があったとて厳しいものだ。
荷物を抱えて外に出ると、ちょうど鍋の中身も冷めている。
それと、これも買ってきた生クリームを合わせ、一緒にジッパーバッグに流し込んだ。
本来ならここから冷凍庫に入れるのだが、あいにくともう出かける時間だ。
なので、そのまま荷物の隙間に入れる。
「えーと、ヴィーちゃんはいないね? じゃあ行ってくるね?」
一応、見える範囲を確認してから、紗良は神殿へと飛んだ。
神殿では、顔見知りというほど何度も会ったわけではない騎士が立っていた。
それでもさすがに、顔は見おぼえていたのか、すぐに入れてくれる。
彼らに、紗良や萌絵はどう見えているのだろう。
平たい顔族、とでも思っているのだろうか。
いや、萌絵は日本人にしては、割と派手な部類の顔立ちだ。
こちらで聖女の装いをすれば、ちょうど清楚に見えるかもしれない。
「いらっしゃーい」
「こんにちは、佐々木さん。わあ、涼しいね?」
招き入れられた萌絵の部屋は、心地よくクーラーがきいたくらいの室温だ。
どうやら魔法で周囲の温度を下げているらしい。
ちょうどいい、と、荷物から真っ先に、ジッパーバッグを出す。
「これ、凍らせるとアイスになるんだけど、出来る?」
「うわぁぁぁ好きぃぃぃ!」
最近、甘いものが出されていなかったらしく、大いに喜ばれた。
受け取って、両手で掲げるようにした萌絵は、珍しく小さく詠唱をした。
「む、難しい魔法なの?」
「温度指定みたいなものだから。ただがちがちに凍らせるだけならいいんだけど、それじゃあ美味しくないじゃない!」
確かに、冷凍庫の温度と考えると、かなりピンポイントだ。
萌絵はもはや悪い笑顔とすら思える顔で、戸棚から小さな器とスプーンを出してくる。
もちろん、紗良が彫った木のスプーンだ。
まあちょっと大きい気もするが。
「いただきます! 美味しい! 甘い!」
取り分けたアイスは、すぐさま萌絵の口の中に消えていく。
喜んでもらえて大変に良かった。
トートバッグごと消耗品を渡すと、こちらも喜ばれた。
ひとつひとつ取り出しては、大騒ぎだ。
「ほんとにありがと、ほんっとに助かる。じゃ、お礼なんだけど」
「お礼なんかいいけどさ、鋳物の鍋だっけ?」
「うん。欲しいでしょう?」
「え。ま、まあね」
「キャンパーの憧れでしょう?」
紗良はキャンパーではない。
けれど、日々やっていることと言えば、確かにキャンプともいえる。
いや認めたくないが、ほぼそのものである。
「そうだね……」
「鋳造技術自体はあったんだけど、蓋と本体をぴったり合わせる技術がなくて。
資金出して研究させて作らせたんだ」
「そこまで!?」
「何かしら村おこし的なことをいろいろ考えてたらしいんだよね。
で、せっかくだから」
紗良はへえと感心する。
「形とか大きさも色々あるから、自分で見たいでしょう?」
萌絵がスマホを操作すると、すぐに紗良に着信がある。
開くと、地図アプリに目的地が設定されていた。
行って見て来い、ということだろうか。
「例によって、神官長が転移できる場所だから。
暇そうな時に送ってもらってちょうだい」
「暇なんかあるかなぁ」
「あるある、なかったらつくるでしょ、津和野さんの頼みだし。
っていうか、私の頼みだし」
「それは……パワハラでは?」
「ばかねえ、この世界じゃ、身分で全てが決まるのよ。パワーしかないのよ」
残りのアイスをもりもり食べながら、合間合間にスプーンを振り回している。
さては何かあったな。
聖女の萌絵よりもパワーを発揮する相手か。
誰だろう。
「そういえば、来週から一週間くらい連絡取れないから、何かあったら……うーん、教皇様にでも頼んで」
「頼めるわけないが?」
「え、だいじょうぶ、いけるよ」
「おじいちゃんか何かだと思ってない?」
「ははっ」
萌絵は、肯定もしないが否定もしない。
まあ、いい関係を築けているようでなによりだ。
「一週間って、何かあるの?」
「うん、奉剣の儀っていうのがあって。
選ばれた鍛冶職人が、女神様に捧げる剣を鍛えるんだけど、その間ずっとお祈りしなくちゃなんだよね」
「おお。聖女っぽい」
「でしょう?」
騎士ではなく、女神様に剣を捧げるんだ。
非暴力、みたいなイメージがあるけど、この世界では戦う女神様なのかな?
「ああやっぱり日本のティッシュは素晴らしい……」
訊こうとしたけれど、萌絵がそう言ってうっとりし始めたので、思わず笑ってしまう。
その様子で、つい別の疑問がわいてしまった。
「ねえ、トイレではどうしてるの?」
萌絵は、凶悪な顔で笑った。
「今ね」
「うん」
「作らせてる」
一点を見据える様子に、それ以上は聞けなかった。
まあ。
うん。
察した。