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夏ではないが、春というほどうららかでもない。
そのことを、森に入った紗良はいやというほど実感している。
冬の間に比べて、森は、木々の葉とともに下草も盛大に茂り始めた。
わっさりと背丈ほども伸びた場所などは、さすがに入る気になれない。
それでも、風を操る拒絶を唱えることで、少しばかり冒険してみたりもする。
けれどそのたびに――虫が沸き立つ。
くつろいでいたところを、藪と共に風で押し退けられる、それは大変に申し訳ないとは思う。
けれど、ぶわっと何かが飛んだり跳ねたりする度に、紗良も紗良で飛び上がってしまう。
本当に心から申し訳ないけれど、いつもなら50㎝ばかりの幅でまとう風の壁を、今日は1mまで広げた。
「夏になったらどうなっちゃうんだよ……」
去年はほとんど目につかなかったはずなのに。
ため息が出る。
多分、魔物が出始めたのと同じ現象だろう。
紗良が世界に慣れるまで、森は優しい。
最初のうちは、雨も降らなかったし、魔物も出なかった。
この森で暮らすうち、次第に自然に近い形に変わっていったのだ。
もちろん、女神の采配だろう。
「虫は、虫はちがうくない……?」
まあそれでも、魔物より虫のほうが出現が後である、というのは、現代っ子の紗良をよく分かっているとも言えた。
背負っているザックは、まだ軽い。
水筒とお弁当は入っているけれど、それだけ。
収穫はまだない。
草に混じって、花はよく咲いている。
地面ばかりではなく、木々も彩り豊かだ。
つつじのようなもの、ライラックのようなもの、盛大で見栄えがするものも多い。
本当の名前は知らない。
調べるつもりもない。
だって食べられないからね。
今日は、今まで足を踏み入れたことのないエリアに入っている。
慣れた場所ならば、去年と同じように山菜やハーブ類が採れるだろう。
もちろん、それらは後日見て回るつもりだ。
「あ、ここにもこごみ」
もちろん、知らないエリアだが、知った山菜もある。
紗良は、今日の初収穫として、こごみをビニール袋に入れた。
保存の魔法はあるが、まだまだ採れる時期のこと、それほど多くは必要ない。
1,2回食べられる量だけをつんで、よっこいしょと立ち上がった。
もう少し奥に行こうかどうしようか。
今日は、昼までには戻って、マチューのところに行かなければならない。
苗を分けてもらう約束になっている。
もう少しだけ、と進もうとして、そういえばと思い出す。
紗良は急いで、スマホを取り出した。
開いたのは、地図アプリだ。
そして、現在地の座標を表示し、緑のピンを打つ。
メモ欄には、こごみ、と入れておいた。
そう、紗良の地図には、マッピング機能がついたのだ。
いつ実装になったのかは分からない。
だいぶ前に、あったらいいな、と呟いた気がするけれど、それ以来試そうともしていなかった。
気づいたのはほんの数日前。
そして紗良は思った。
「森の恵みマップを作ろう……!」
蒐集癖が炸裂した。
白地図を埋めていくなんて、そんな楽しいことがあるだろうか。
いやない。
オープンワールド系のゲームでも、敵を倒すよりマップの解放がメインだった。
もう少しだけ、と歩いていくと、頭上に赤い実が現れた。
ぷちぷちとした小さな粒が寄り集まった形をしている。
ヤマモモっぽい。
紗良はごそごそとお腹をさぐって、マニュアルノートを取り出した。
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<珍しい恵み>
聖なる森には、いくつか固有の植物・動物が存在します。
また、それらは森の中でも特定の場所にのみ生息する場合が多いのです。
未探索地帯が多い現在、そのほとんどには出会えていません。
そうした珍しい生き物を探してみるのもいいでしょう!
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次のページには、いつものように絵と解説が書いてある。
けれど、いつもなら複数の種類が並べてあるところ、今回は一つだけだ。
目の前にある木の実と、ラウロスという名前、そして甘味と酸味がありそのままでもジャムにしても美味しい、という解説だけだ。
「レア度の高いアイテムは、自分で探せってこと?」
地図と同じで、発見しなければ情報も解放されない、ということだろう。
なにそれ。
楽しい。
紗良はとりあえず、目の前の木の実を風魔法でぽいぽい収穫した。
これも、とりあえず両手に二杯分くらい。
そして、今度はピンクのピンを打って、ヤマモモ、とメモをつけておく。
本来の名前を覚える気のないやり口だ。
どうせ自分のためのメモなのだから、いいことにしよう。
ふと、スマホの時刻表示が目に入った。
昼を少し回っている。
「やばい、約束!」
紗良は、少しだけ迷ったが、そのままマチューの家に転移することにした。
一度河原に戻る時間がもったいない。
誰にとっても、時間は取り戻せない分、大切なものだから。
マチューとマリアの家の前に転移すると、急に暑さを感じた。
やはり、森の中はかなり涼しいようだ。
上着を脱ごうかな、と迷っていると、気配を感じたのかマリアが顔を出した。
「はいこんにちは紗良ちゃん。あらぁ、珍しい恰好ね?」
紗良は、自分の恰好を見下ろしてみた。
確かに、ここに来るときはマントスタイルが多いけれど、今日は山歩き用の格好だ。
柔らかいトレーナーにジーンズ、スニーカーと、可愛げの欠片もない。
「うん、山歩きしてたので」
おすそ分けでも、と思ったが、あやういところで言葉を飲み込む。
聖なる森の恵みは、おすそ分け禁止だった。
教会から大聖堂に変わった折、フィルにそう言われていた。
ニュアンス的に一時的なものと思っていたが、どうなのだろう。
なんにせよ、紗良がそのルールを破るわけにはいかない。
「ちょうどいいわ、土いじりをしますからね!」
マリアは、変な間があったことを気にしないように、明るく言う。
そう、今日は、マチューに野菜の苗を貰う日だ。
紗良は、マリアに言われるまま、納屋の方へと移動した。
大きな納屋は、以前、一緒にソーセージを作った小屋だ。
中は広く、用具置き場や作業場が兼用にされているようだった。
「こんにちは」
小さな木箱に、これまたちんまりと座ったマチューに挨拶をする。
やあ、と手を挙げた彼は、にっこりとマリアに似た笑顔を見せた。
「すごい、沢山ある」
地面に広げられているのは、藁を編んだような小さな籠だ。
どうやら、こちらで育苗ポットとして使われているものらしい。
植えられているのは、明らかに同じと思われる苗が二本ずつ、それが数種類。
「っていうか……もはや育っている……」
苗というにはずいぶんと立派だな。
茎もしっかり、葉もぱりっとして張りがある。
若葉という感じはしない。
「ここからなら絶対に失敗せんぞ!」
嬉しそうに言われてしまった。
確かに、去年、種から育てた時は、どれもひょろひょろだった。
土が悪かったのか場所が悪かったのか、全然分からない。
「家のどこに植えるつもりでいる?」
「えっと、河原の傍に、大きな……これくらいの大きさのコンテナがあってね」
両手で、縦横深さを示して見せる。
「ふむ」
「そこに土を詰めて、植えようかなって」
「そうじゃな、その大きさならいいだろう。土はどうする?」
「去年は森から掘って来たんだけど」
マチューは、少し悩むようだった。
「聖なる森の土のこと、悪くはなさそうだが……」
「でも出来はいまいちだったよ」
「そうか。なら、うちの土を持って行ってもいいぞ。
もうたい肥をすきこんであるからな、そのまま使えるだろうよ」
「いいの?」
「もう少し暑くなってから植える予定の場所だ、空いているからかまわん」
「ありがとう!」
よいよい、と笑ったマチューは、続けて目の前の苗を指さしだ。
そして、一つ一つ名前を教えてくれた。
もちろん、覚えられない。
こちらの固有名詞は、人の名前以外、あまり聞き覚えのない響きが多い。
英語ではない。
大学の第二外国語はドイツ語だったが、いまのところイッヒしか覚えていないので、比較できない。
あとでマニュアルノートを見よう。
紗良は、自分というより、ノートに聞かせるべく、ちょっとお腹を突き出した。
よーく覚えてね?