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あれから二週間が経った。
「結局、姉と義兄は、貴族籍を廃され、領地に下ることになったそうですわ」
大聖堂の女神像の横、小さな扉を通ったその先の応接室で、アニエスは紅茶を飲みながらそう言った。
フィルは不在だったが、紗良にとってはむしろ都合が良い。
今日は、アニエスに聞きたいことがあった。
しかしまずは、先日の事件の顛末が彼女の口から語られるようだ。
紗良も、同じようにお茶を一口。
神殿で出されるのと同じくらい薫り高い。
きっと値段も高い。
そう考えたのがばれたかのように、アニエスは小さく笑う。
「ラトリッジ領からの献上品ですわよ」
「お父さんはお咎めなしだったの?」
今まで通りに寄付をしているようだ。
家を重んじるこの世界で、跡継ぎの起こした問題は家に影響がなかったのだろうか。
「まさか」
「あ、そうですよね……」
「姉夫婦に譲るつもりだった爵位は宙に浮いたことになりまして。
兄も、もちろん私も、家に戻ることは拒否しましたので。
結局、爵位を王室にお返しして、そちらが見繕った人間をあらためて叙爵するそうです。
幸い、少なくない財産の持ち出しは許されましたから、父はその引継ぎを終え次第、これまた所有を許された別荘で暮らすそうです」
アニエスの実家って、お金持ちだったんだな。
紗良は漠然とそう思う。
領地の税金なんかはもちろん持ち出せるはずがないから、手元に残るお金も別荘も、私的に稼いだ分ということだろう。
どうやらご両親はこの先困らないらしい。
あのとんでもない姉娘を育てた責任というのは、爵位を取り上げられるだけで済んだ、ってこと?
「爵位を取り上げられることこそ、貴族にとってなにより重い処罰ですわ」
「えっ。……声に出てました、私?」
アニエスは、おほほと笑う。
「お姉さんと旦那さん、急に平民になったりして大丈夫なの?」
「いいえ、大丈夫ではないでしょうね。
とはいえ、ただ放り出せば単に野垂れ死ぬだけなので、住む場所と仕事は与えるようです」
「物語みたいに、縁切っておしまい、とはならないよね」
「そうなのです、面倒なことに。
もちろん、今までの生活とは一変することになりますけれどね。
本人たちにとっては、それが恵まれた始まりなのだとは思えないかもしれません。
しかし、始まってしまえば、あとは二人の物語です。
両親は簡単には会えない遠い別荘へ行き、新しい領主は彼女たちになんら恩恵のない相手。
文字通り、手に手を取ってやってゆかねばならない。
心を切り替えるまでに、さて、どれほどの月日が必要なのかしら」
薄く微笑むアニエスに、紗良は背筋がひやっとする。
なるほど、平民になると聞いた時がどん底だと、あの姉夫婦は思っているだろう。
けれど本当の絶望はこれから、ということだ。
「さて、つまらないお話はここまでにいたしましょう。
紗良様、何かご用事があったのですよね?」
水を向けられ、そうそう、と頷く。
「ほら、ここの女神像を祝福する、っていう話がありましたよね」
それは、この大聖堂ができてまもなくの頃の話だ。
視察に訪れた教皇が、紗良に直接そう頼んできた。
紗良としては是非もないし、フィルの実家でその祝福とやらを試しもした。
問題なく遂行できたし、準備万端だったのだ。
ところが、フィルから『少し待っていただきたい』とストップがかかった。
「少しっていう割りに結構経ちましたし、フィルさんに聞いてもなんだか分からない言い訳でごまかされるし」
「あらまあ」
「だから、もしかして、私が年送りでフィルさんの実家の女神像を祝福したあれが、何か間違ってたとか、そういうことかなって。
アニエスさんなら、何か知りません?」
紗良の心配はそこだ。
何か大きな間違いをして迷惑をかけたのではないだろうか。
もしそうだとしても、フィルははっきりとそう言ったりしない。
むしろ隠そうとする気がした。
しかし、紗良のそんな気持ちを、アニエスはいつも通りの朗らかな調子で笑い飛ばす。
「それは違いますわ、紗良様。
もちろん私は、事情を知っております。
現在、この国で聖力が強いのは、上から、聖女様、紗良様、教皇様ですわ。
さて、王都の神殿の女神像ですら、そのうちお二人の祝福ですわね。
そしてこの大聖堂もまた、同じくお二人の祝福をいただきました。
そのうえで、紗良様の祝福を与えられたとしましょう」
「うーん? ちょっとすごい女神像になる?」
「それはそれは、すごい女神像、ですわ紗良様」
神殿よりも「すごい」となると、それはまずいのだろうか。
ふと思い出したのは、紗良を領地に招待しようと押しかけて来た、よその神官たちのことだ。
聖女、ひいては女神様という存在は、この世界の人々にとって熱心な信仰の対象だ。
敬虔といえるほどの宗教信仰を忘れてしまった日本人にとっては馴染みが薄いけれど、それが戦争を引き起こすほどの強さを持ちうることも知っている。
「神殿とのバランスを変えかねないってことですよね。
でもでも、それってだって、教皇様が言い出したんですよ?」
アニエスは、ニヤッとした。
修道女としての顔の裏に、貴族の顔をのぞかせている。
「ええ、そう。紗良様が教皇猊下をどうご覧になっているかは分かりませんけれど、権力と金とそれに群がる人間たちの思惑、それらに揉まれて最高位に上り詰めたお方ですのよ?
なんの意味もなく、そのようなことをおっしゃるはずがありません」
「お、大人の話になってきた……」
「ええ、大人も大人、大人物である教皇様は」
囁くような声で、紗良の耳に口を寄せる。
「おそらくバイツェル神官長を後継にと目されておられるのですわ」
驚きは我ながら少なかった。
教皇は、フィルが神官長になったことをことのほか喜んでいたし、紗良にかこつけて頻繁に神殿に呼んでいる。
そしてもう一つ、予想できることがある。
「フィルさんは、嫌なんですね、きっと」
紗良の祝福を渋っているということは、大聖堂に箔がつくのを阻止したい気持ちの表れだろう。
「それはもちろん! だって、神官長様は、この大聖堂を離れるつもりはないのですもの。
いえ、正確には、聖なる森の近くに一生いるつもりだと言えますわね。
まあそれも、本当の本当の正確な話ではありませんけれども」
はあ、と頷く紗良に、アニエスは微笑みかける。
「ご心配はいりませんわ。
女神様と近しいお方は、そもそも人よりも少し、長く生きられるもの。
今上猊下も、代替わりはまだずいぶんと先の話です。
だから、紗良様が気になさる話ではありません。
ええ、まったく、そのような些末なことを気にして先のことを決める必要はないのです。
お好きなようになさることこそ、神官長様の望みですから」
お祈りの時間だというアニエスに別れを告げ、河原まで帰ってきた。
大聖堂になってから、小間使いの使用人が増え、その管理でアニエスも忙しそうだ。
しかしそもそも、貴族のお嬢さんだった人が、一人で切り盛りしてたのが凄い。
むしろ今の方が、本来の形に近そうだ。
「ヴィーったらきったないわね!」
がさごそと背後の森から顔を出した魔物は、小汚い。
どこかで暴れてきたのだろう。
浄化をかけると、ヴィーはじっと紗良の顔を見つめ始めた。
「……お腹すいてるのね?」
だとしたら、獲物をいただいてきた訳ではなさそうだ。
どこで何をしてこんなに汚れたんだろう。
不思議だなと思いつつ、部屋に戻ってあちこちを漁った。
あまり手をかける気分ではないので、簡単に済ませたい。
紗良は、パンの残りと、冷蔵庫から取り出したもろもろを持って外に出た。
かまどに火を入れる。
夕方になると少しだけ冷えてくるが、それでも火に当たると暑い気がする。
なんとなく、作業台の、かまどから一番遠い場所でパンをスライスした。
ま、あまり暑さは変わらないけど。
厚めに切ったそれに、トマトソースを塗る。
薄切りの玉ねぎとソーセージ、缶詰のコーンとツナ、そして輪切りのピーマンを載せ、チーズをたっぷりかける。
それを三枚分。
「あちち」
かまどの網の上に直接置くと、火の真上はさすがに熱かった。
こういう時こそ魔法だ。
浮遊で安全に位置調整をした。
トースターと違って焦げ目が出来ないのが玉に傷だが、パンがこんがりしつつ中はふわりと仕上がるので、これはこれで良いものだ。
「うーん、暑い」
部屋にもう一度戻り、ステンレスのカップに氷をいっぱいに詰めてくる。
かまどにやかんをかけ、パンの位置を調整する。
そうするうちに、チーズがとろけていい匂いがしてきた。
お皿に一枚、残りをヴィーのフードボウルに入れ、ウッドデッキに運んだ。
ちょうどお湯も沸いたので、カップに直接コーヒーをドリップする。
パキパキと音を立て、氷が溶けていく。
慎重にお湯を注ぐ。
あまり入れすぎると、薄くなる。
そっとドリッパーを持ち上げてみると、ちょうどカップ一杯のアイスコーヒーができている。
危ない。
ぎりぎりだった。
「あら、待っててくれたの? いいよ、食べて」
フードボウルの横で伏せていたヴィーが、ちらりと紗良を見た。
どうやら紗良を待っていたわけではなく、チーズが冷めるのを待っているだけのようだ。
熱々を食べたい紗良は、早速トーストにかじりついた。
塩気の強いチーズなので、すぐに美味しさがやってくる。
ミルキーな匂いと、ソーセージの脂が口いっぱいに広がった。
人が作ってくれるご飯はいいものだ。
けれど、自分の好きなものだけを、好きな味で作るのも、それはそれでやっぱりいいものだ。
手に着いたパンの欠片まで食べ、最後にアイスコーヒーでしめると、紗良は満足の息をついた。
女神像の祝福のことは、フィルに任せよう。
向こうから言い出すまで、黙っていよう。
紗良は、ようやくトーストに口をつけ始めたヴィーを眺めながら、そう決めた。