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現れたものに驚いたせいで魔術が切れ、持ち上げていた『何か』が、どぼんと井戸に落下する。
誰もが衝撃を受け、何も言わない。
「……紗良様。申し訳ありません、見なくとも構いませんので、地面まで上げてくださいますか」
「うええええ……」
とはいえ、そのままに出来ないのも分かる。
紗良は、顔をしかめながら、もう一度それを持ち上げた。
大量の水を滴らせながら地面に横たえられたのは、動物の死体だった。
「なんですかこれ、犬? 子牛?」
「いえ。これは魔物ですね」
「まじで?」
「マジデ? いえ、そのような名前ではなかったかと」
恐れる様子もなく、その魔物の遺体を検分してたフィルは、立ち上がって祭服の裾を払う。
「腐敗もそうですが、死する直前に魔障を放出したようですね。そのため、井戸が穢れたのです」
「ええー……よくお腹痛くなるだけで済んだね?」
ふ、と目を見開き、フィルは紗良をまじまじと見る。
じっと見つめられ、狼狽えてしまう。
「……その通りです、紗良様。多少なりと、この水を口にした人間に穢れが入り込んだことは間違いありません」
「やばいですね」
「ええ。……子爵よ」
振り返った先で、子爵は呆然としていた。
それはそうだろう。
汚れどころか、とんでもないものが出てきた。
「この魔物は、石をくくりつけられ、明らかに人為的に沈められている。
心当たりはあるか」
「いえ……ああ、いえ、すみません、すぐには思いつきませんが、産業が他領と同じものを扱っているため、探せば何かあるでしょう」
「そうか。では先に、井戸と人の浄化を行う。原因を突き止めるのは、その後だ」
「はい……」
「屋敷の全員を集めよ。本日顔を出せないものも含め、紗良様が滞在中に全員だ」
「はい」
一礼し、側近らしき男性と去っていく子爵を見送ると、フィルはため息をついた。
「紗良様、魔力の使用量は?」
「えっと、待ってね……全然、あと99%くらい残ってる」
スマホを見ながら言う。
浮遊しか使っていないから、そんなものだ。
「では、井戸の浄化を先んじてお願いできますか」
「分かりました」
全体に浄化をかけると、いつも通りに少しふわりと光る。
「……大丈夫かな」
魔物が腐って沈んでいた、というのは、紗良の生活とは無縁すぎて、どれだけ汚れたのかが分からない。
念のため、もう一度、浄化をかけておく。
何の反応もなかったので、おそらく一度目で十分だったのだろう。
「……こういうのって気持ちの問題だから」
無意味と分かっていながら、もう一度浄化してしまった。
トイレ掃除をした手を二回くらい洗ってしまうのと同じ理屈である。
「井戸って水脈がつながっていますよね。ここから広がっていった分とかあるのでは?」
「井戸水に対して浄化をかけたのであれば、水源を含めて流水全てが清められておりますよ。大丈夫です」
「あ、そうなんだ。……じゃ、もう一回だけ」
「もう、大丈夫です、もう、綺麗です紗良様!」
ちょっと呆れたようなフィルに止められた。
うーん、そう?
ふと見ると、ヴィーが地面に下り、例の魔物の死骸を嗅いでいる。
まさか食べるんじゃないでしょうね、とそわそわしてしまうが、さすがにそれはないようで、すぐに興味を失ったように肩に戻ってきた。
コレオイシクナイ、と顔に書いてある気がする。
その後、ソリス子爵の従僕に呼ばれて屋敷内に入り、家族や使用人に順に浄化をかけていった。
面倒なので、部屋に入る人数ごとにまとめて浄化したが、それでも7,8回はかかった。
出入りの業者も含めるとさらに多くはなるが、すぐに来られない者も当然いたため、予定通り数日の滞在を余儀なくされたのだった。
滞在中は、紗良自身の希望もあり、食材全てを浄化しつつの歓待となった。
期待した海の幸も、故郷で美味しいものを食べなれてきた紗良も満足する味だ。
やたらとカラフルな魚が中心だったが、身は淡白で柔らかい。
かと思えば、脂のしっかりのったものもあり、毎日ご機嫌である。
三日ほどで、井戸水に触れた可能性のある人物全ての浄化を終えた。
フィルはそもそも初日で大聖堂に帰っていたので、滞在を切り上げるかどうかは完全に紗良の心次第だ。
魔物の死骸を投入した人物については、子爵が鋭意捜索中だった。
朝と夕方は込み合うが、それ以外はほとんど人気のない場所のこと、進展ははかばかしくないようだ。
「もう私にできることはないので、帰りますね」
子爵にそう告げ、沢山のお土産を持たされて、紗良は自分の部屋へと帰った。
それから一週間後。
再び、教皇のお召しがあった。
「いらっしゃい津和野さん」
「あれ佐々木さん、ごめん、今日は私が待たせちゃった?」
「ううん、教皇様とお茶してただけよ」
「どうぞお座り、紗良嬢。何度も呼びつけてすまんの」
確かに、二人の前にはすでに口のつけられた紅茶のカップがある。
すぐに、紗良の前にも同じものが出された。
「オルタス領の井戸の浄化、お疲れ様」
「うん。あ、もらったお土産でいろいろ作ったんだよね。
煮つけと、ガーリックソテー、あとホワイトソースと合わせてパイにしたの」
小分けにしたタッパーを、トートバッグから出して積み上げると、萌絵が歓声をあげる。
「今日は一人で晩酌にしましょう! ねえ私、お夕食いらないわ。白ワインだけ運んできてちょうだい」
侍女らしき女性に言いつけている。
「一人? 一人かね? わしは?」
「どうみても一人分でしょう?」
思いがけず食べたそうな教皇の分は、確かに考えていなかった。
ちょっと気まずい。
「あ、あの……良かったらこれ、教皇様に」
本当は萌絵にあげるはずだった、保存瓶入りのサングリアだ。
半分ほどは紗良が飲んだ飲み残しだが、お土産ゼロよりはましだろう。
……いや、そうか?
「いい香りだの!」
本人は気にしていなさそうだ。
蓋を開けて香りをかいで、ご満悦だ。
いいことにしよう。
萌絵はそれが自分のだと気づいているはずだが、じっと口出しせず我慢している。
下手に抗議すれば、魚料理の方を取られると思っているに違いない。
「そうそう。魔獣の死骸を投げ込んだ犯人、捕まったわよ」
思い出したように、萌絵が言った。
紗良は頷く。
「やっぱりあの人だった?」
その問いに、今度は萌絵が頷いた。
実はあの日、紗良は犯人ではないかと思われる人物に気づいたのだ。
きっかけは浄化魔法だ。
部屋に人を集め、まとめて浄化した時、その発動時に光が放たれることを知っていた紗良は、彼らに目をつぶらせた。
全員いっぺんに光ったら、まぶしいだろうと思ったからだ。
現に、一人一人は弱い光でも、十数人が集まれば思わず目をつぶるほどの光ではあった。
その中に、一人、全く反応のない人物があった。
屋敷の護衛をやっているという男だ。
光らない、つまり、浄化されていない。
浄化されるべき穢れがない、ということだ。
井戸の水は、生活のすべてに使われる。
飲み水も食事も、洗濯も、あらゆる場面で水は必須であり、そこに触れずに暮らすのは普通なら出来るはずがない。
ただ、意図的に避けているのであれば、別だ。
紗良は、フィルとソリス子爵にだけそっとそのことを教えた。
フィルは、きっとまたやらかしますね、と言い、ソリス子爵はその人物に監視をつけた。
その結果、紗良が領地を去ってから三日後に、やはり再び魔獣を投下しようとして捕まったらしい。
「なんでそんなことしたの?」
理由を問うと、萌絵は深い深いため息をついた。
「メイベル・ラトリッジの指示だったわ」
「えっと、アニエスさんの、お姉さんの? それは……思いがけない名前だね」
「犯人が証言したの。全く、馬鹿なんじゃないかしら、あの女」
「なんのために?」
「お兄さんに、実家に帰ってきて欲しかったんですって」
「……なんて?」
いつのまにか、サングリアを紅茶に少し垂らして飲み、ご満悦の教皇が、後をひきとる。
「ラトリッジ家は、本来跡継ぎである長男マイルズが、自身の扱いに耐えかね他家に婿に行った。
しかし、伯爵も夫人も、メイベル嬢が婿をとり後を継げば問題がないと考えていたらしい。
アニエス嬢の婚約者と婚姻を結び、少しずつ後継者教育を始めたのだが」
「うーん、なんとなく分かってきました。
メイベルさんとその旦那さんを直接見てきたので。
とても勤勉とは思えないし、努力嫌いそうだし、旦那は嫁の言いなりで、黒いものも彼女が白と言えば白だと言い切る人ですもんね」
紗良の予想に、教皇は頷く。
「領地経営も社交も、自分が思うほど楽しくも華やかでもない。
そう気づいた彼女は、だったら兄か妹が戻って来て、大変な仕事を代わりにやってくれればいいと」
それで、呪い騒動を起こして妹を呼び寄せ、同時に、護衛を金で雇って兄の家に穢れを蔓延させようとした。
「屋敷中が穢れた人間で満たされれば、悪い評判が広がり立場が悪くなる。
体調を崩せば、まともに仕事もできない。
じわじわと没落してゆく兄に、優しく手を差し伸べれば、戻ってくるだろうと思ったそうだ」
あまりに悪辣な考えに絶句する。
「こう言ってはなんですが……私が行かなかったら、もしかしてどちらか成功した可能性もゼロじゃないですね。
そういう意味では、頭が回るというか」
「その発想力と行動力を、自分の仕事に回せっつーの」
「確かにー!」
頷きあう紗良と萌絵の後に、教皇が小さく、確かにー、と言う。
そして、保存瓶をしっかり小脇に抱えると、右手を上げて合図をする。
すぐに、お付きの男性が革袋を差し出した。
「ということで、これは諸々全て込みの報酬であるよ。感謝である」
「ありがとうございまーす」
ずっしりとした重みに、にまにまする。
ふと気づいた。
「メイベルさんってこれからどうなるんですか?」
「さて。今のところ、護衛の証言しかとれていない。
これから、彼女が関与したという証拠を探し、罪状を決める。
それは我々の仕事ではなく、政治の範疇であるな。
どんな罪になりそうか……聞きたいかな?」
立ち上がって、にやぁと笑った教皇に、紗良は全力で首を振った。
ここは日本ではない。
法治国家でも、正当な量刑があてはめられる世界でもない。
王家、貴族、身分、宗教、そうしたものが絡み合って、きっと結末は予想を超えたものになるだろう。
「えぐそう」
ぽつりと言った萌絵の言葉を、紗良は全力で聞かなかったことにした。