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アンナのところで買ってきた果物で作った、赤ワインのサングリアを飲みながら、スマホの着信を確認する。
時間は朝の10時。
もちろん相手は、萌絵だ。
『教皇様が呼んでるんだけど、来られる?
てかなんかした?』
紗良は首をひねる。
心当たりはない。
せっかく注いだサングリアは、一口しか飲んでいない。
けれど、一応年上で、偉い人の呼び出しだ。
仕方なく、グラスをそのまま冷蔵庫に入れ、行けるよ、と返信し、着替えをする。
さすがに酒の匂いをさせて顔を出すわけにはいかない。
一応軽く身だしなみを整え、神殿に飛ぶ。
入り口の騎士が、慣れた様子で中に案内してくれた。
場所は、初めて教皇に会ったのと同じ、応接室のようなところだ。
「失礼します」
「ああ、すまんの、呼びだてしてしまって」
「いえ、大丈夫です」
勧められて正面に座ると、ちょうどそこに萌絵もやって来た。
「遅れました。あ、津和野さんやっぱりもう来てた、ごめんね予定なかった?」
「おはよう佐々木さん、大丈夫だよ」
教皇にしたのと同じ返事をし、出された紅茶を飲む。
飲み頃の温度だ。
ちらりと見ると、前回とは違うメイドのようだった。
「早速本題なのだが」
「はい」
「紗良嬢、ラトリッジ伯爵家を訪問したであろう?」
「え、なんで知ってらっしゃるんですか?
え、もしかして何かまずかったですか?」
アニエスの実家の件だ。
遠い南の地での出来事、しかもあれから三日しか経っていないというのに、お偉い人の耳になぜ届いているのか。
紗良は動揺した。
しかし、教皇は微笑んで手を振った。
「いやいや、まずくはないが、前代未聞というかの」
「良くないってことじゃないですか……」
「ふふ、気軽に浄化を使える者はそれほど多くないからの、そういう意味で、過去に例がないだけだの」
「そうですか……?」
表情を見ると、確かに怒っているわけではなさそうだ。
ほっとする。
「聖なる森以外での大きな魔法を感知したゆえ、何があったか経緯を確認したまでのこと。
それに伴って、伯爵家には釘をさしておる。
神官長のところの修道女には、以後、無用な接触はなかろうよ」
「それは良かったです。なんかもう……ひどかったので」
「えー、そんなに?」
萌絵が興味津々で口をはさむ。
「すごかったよ、なんていうか、この人達、友達いないだろうなって感じ」
「分かんないけど分かる。後で聞かせてよ」
「私も聞いてほしい」
彼女は週刊誌レベルの興味のようだが、聞いたらきっと驚く。
それとも、あんな風に、身分と家の事情で無理を押し通すような相手と、萌絵もやりあっているのだろうか。
仕草や座り方がどんどん洗練されていくのを見て、なんとなくそう思う。
「でも今は、教皇様のお話が優先なの。聞いてあげてくれる?」
「そうでした。で、なんでした?」
「ふむ、実は、浄化魔法を使えるのであれば、ちょいと行ってみて欲しいところがあっての。
ここから東へ馬車で十日ほど行った場所に、オルタスという街がある。ソリス子爵の領地で、主に農業で栄えている。
その子爵邸の井戸水が問題での」
なんとなく見えてきた。
「その水を飲むと、嘔吐と下痢でひどく苦しむのだそうだ」
「あー、汚染されてるんですね。菌なのか、ウイルスなのか……」
感染性だと、危険だろう。
紗良は顔をしかめたが、萌絵はひらひらと手を振って笑う。
「どっちだって同じよ。浄化なら、汚染理由は問わないんだから」
「そうなんだ。便利過ぎない?」
「だよねー」
教皇も、うむと頷く。
「もし直近で予定がなければ、ちょっと行ってみてくれんかの。
向こうにも先ぶれの手紙を出さねばならんから、四日後ではどうじゃろ」
「いいですよ。暇なので」
「馬鹿ね、そういう時は、忙しいけどなんとかしましょう、って言うのよ。
そしたら、報酬も跳ね上がるんだから」
「あ、お礼もらえるんだ。やったー」
萌絵は、うんうんと頷き、スマホを取り出した。
「地図と、井戸の位置を送っておくね」
「了解」
「領地までは、例によって神官長が送るからの」
「それはありがたいですけど……フィルさんって、偉くなってお忙しいのでは?」
「なに、紗良嬢のためなら、なんとかするじゃろ。
それでは、四日後にお頼み申す」
紗良は快く、胸をたたいて引き受けた。
「ここですね」
四日後、約束通り、紗良はフィルとともにオルタス領、ソリス子爵の家を訪れた。
それにしても、フィルはいくつの転移石を解放しているのだろう。
国のあらゆる方向に、一度は足を運んだことがある、ということだ。
神官長になるには、そのくらいじゃないとだめなのかも。
そういえば、修業はかなり厳しかった、と言っていたことがある。
飄々と難事をこなすフィルが言うのだ、きっと想像を超えるような厳しさなのだろう。
「どうしました?」
じっと横顔を見ていたことに気づいたのか、ノッカーに伸ばしかけた手を止め、そう聞かれた。
「いえ。お忙しいのにすみません」
「良いのです。むしろこちらが本分ですので」
「そんな訳ないから!」
気を使わないように冗談で場を軽くしてくれたのだろう。
紗良も笑って返すと、フィルもにこりと笑った。
そして改めてノッカーを鳴らす。
中から出てきたのはかなり老齢の執事で、しかし洗練された仕草で応接室へと案内してくれた。
中には、すでに当主の子爵が待っていた。
「お初にお目にかかります。ソリス家当主、マイルズ・ソリスにございます」
「初めまして、サラ・ツワノです」
「わざわざご足労願いまして申し訳ありません。神官長様もお手数をおかけしました」
ふと、そのやりとりで気づく。
どうやら二人は面識があるようだ。
神官長の顔は少し硬く、気安い仲ではなさそうだ。
どういう知り合いだろう、と考えたのが伝わったのか、子爵は紗良に説明するように言う。
「大聖堂では妹のアニエスがお世話になっております」
「そうなんですね。……えっ、アニエスさんのお兄さん!?」
驚く紗良に、思わずといったように口元を緩めた彼は、すぐにそれを隠した。
「はい。私がアニエスの兄でございます。
そして、紗良様にご迷惑をおかけしたメイベルもまた、私の妹。
本当に申し訳ないことをいたしました」
「いえいえいえ、私は全然。何も迷惑なんかかかってないですよ」
「紗良様は寛大でございますね」
子爵は、なんだか疲れたように笑う。
すると、黙っていたフィルが、やはり硬い声で口を挟んだ。
「他人事のようだな。実家を捨て逃げ出した貴殿には、関係がないと?」
「とんでもない、責任の一端は感じております。
確かに私は、メイベルばかりが優遇されることにうんざりし、長子でありながら婿入りを選びました。
しかし、両親も、これでメイベルが婿をとり家にずっといられると大喜びでしたよ。
とはいえ、縁切りをした訳ではない。
あの家と縁づいていることに変わりはありません。
ゆえに、此度のことも、井戸の浄化にはさして時間がかからないだろうと、しかししばらくの滞在を願い、紗良様を歓待せよとの教皇猊下の采配にございます」
なるほどそういうことか。
ようやく、紗良を駆り出すほどでもなさそうな案件に合点がいった。
フィルは眉を寄せ、ぶつぶつ何か言っている。
「教皇様が……? まったく、あの人は……」
「よろしければ紗良様には我が家に何日でも滞在いただき、おもてなしをさせていただきたく」
紗良は顔の前で掌をぶんぶん振った。
「いえいえ、本当に大したことしてないので、そんな」
「聞いたところによれば、紗良様は魚介の生食を愛されているとか。
わが領は、当国で唯一の生魚の食文化を持っております。
安全で美味な魚を、思う存分堪能していただければ」
「泊まります。あ、猫も一匹、追加で」
紗良は勢いよく手を挙げ、そのフードに隠れていたヴィーがつられたようにしゅっと顔を出した。
紗良の滞在が決まり、部屋へ案内をと言われたが、先に井戸の方を確認させてほしいと言った。
なにしろ、水は生命線だ。
食べ物はなんとかなっても、水は命に係わる。
希望が受け入れられ、フィルも伴ったまま、裏庭に設置された井戸へと案内される。
ここで、使用人が毎日水を汲み、生活用水としているのだそうだ。
上水道がひかれている場所もあるが、ここはそうではないらしい。
確かに、来る途中、川などは見なかった気がする。
遠いか、小さいか、あるいは湧水を利用しているか。
ほとんどは、こうして井戸を掘り、庶民たちはそれを共用しているそうだ。
「ほかの井戸では、症状は起こらないんですか?」
「ええ、幸いなことに」
「ふうん。変ですね」
紗良の言葉に、子爵は首をかしげる。
「そうですか?」
「領内にはいくつの井戸があるんですか?」
「128基です」
即答だ。
ちゃんと把握しているあたり、優秀な領主なのだろう。
他所の長男なのに婿入りを認められたのも、当然かもしれない。
「それだけあれば、水脈をここと共有しているところもたくさんありそうです。
でも、症状はここだけ。
ってことは、問題は水ではなく井戸にあるってことじゃないですか?」
紗良は、スマホのライトをつけて、井戸の中を照らしてみた。
しかし、あまりに深いせいか、水面が黒く浮き上がるだけで、よく見えない。
「中が見たいのですか?」
「あ、はい」
すぐ横で同じように中を覗き込んだフィルは、小さく何かを唱えた。
すると、空中に光の球が現れた。
まぶしいほどのその球は、ゆっくりと井戸の下へと下降していく。
「うーん、反射でよく見えませんね……」
光はどんどん下がり、ついには水面を超えてさらに奥へと入っていく。
電気じゃないから、平気なのね。
「深いですが……うん? 何かが……」
「ほんとですね。フィルさんちょっとそのまま明るくしててくださいね」
浮遊でゆっくりとその何かを浮かせる。
井戸の半ばまでくると、何か輪郭が見えてくる。
それが何か。
分かった瞬間、紗良は悲鳴をあげた。