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結局のところ、罪悪感があった、ということだ。
アニエスの元婚約者であるルシアンと、実姉、ともに、良くないことをしたのだという自覚があった。
だから、呪いを解くためにはアニエスの許しが必要だ、などと思い込む。
「お姉さんの名前って、なんでしたっけ?」
「メイベルっていいます。それとね、私の名前も本当はクラリッサというのです」
そういえば最初の頃、本当の名ではないと言っていた。
それはさておき、そのメイベルとやらが悩んでいるそうだ。
誰もいない場所で、誰とも知れない声が聞こえる、と。
最初のうちはルシアンもそれを気のせいだと慰めていたようだが、次第に、彼もまたその声が聞こえると言い出した。
困ったのは父親だ。
婿を取り、ルシアンを跡継ぎとするため、当然彼らは同居しているのだが、父親にはその声は聞こえない。
母親にも聞こえない。
否定したり、なだめたりするうちに、次第にメイベルはやせ細り、寝込んでしまうようになった。
「それで、なんでアニエスさんなの?」
「メイベル様が、その声が私のものだと言い出したそうですの」
「ふうん」
すっかり話に聞き入ってしまったが、ふと気づく。
「ええと、私は結局、何をすればいいんですか?」
そうそう、何か相談事があると呼ばれたが、聞かされたのはあまり紗良には関係なさそうだ。
首をかしげていると、横からフィルが話を引き取った。
「アニエスさんが行ったところで、あまり良い結果にはなりそうもないと私は思うのです」
「うーん、そうですよね」
「しかし、アニエスさんは今でも父であるラトリッジ伯爵の援助を受けています。そして教会も。
まあそれはどうでもいいのですが、なにより、貴族の要請です。むげには出来ない」
「断れないってことですよね」
「はい。かといって、アニエスさんを一人で行かせるのは心配なのです。
私は立場上、招かれてもいないのに訪問するわけにはいきません」
なるほど、分かってきた。
「私が一緒に行けばいいんですね?」
「……お願いできますか」
「神官長さんはダメで、私はいいんですか?」
「ええ、紗良様は女性ですから」
なるほど、分からん。
「いいですよ、私がアニエスさんを守ります!」
力強く言ってみた。
フィルさんは、少し困ったような顔で笑う。
いや違う、これは、心配している顔だ。
「無理はしないでください。いざとなったら、転移でここへ。いえ、教皇様のいる神殿でもいいかもしれません」
「そうだ、今回は魔法使いじゃなく、聖女の半身様として行きましょう」
「ああ……それはいいですね。では、以前に仕立てました祭服をご着用ください」
「分かりました」
深々と頭を下げるアニエスは、思ったよりも呑気そうな顔をしている。
これなら大丈夫そうだ。
五日後、紗良達は、ラトリッジ伯爵家に到着した。
伯爵本人は、来た時と同じように馬車で移動してもらった。
紗良とアニエスは、宅配便の要領で転移だ。
フィルが紗良を連れて領地の教会に設置された転移石へと跳び、戻って、今度は紗良がアニエスを連れて跳ぶ。
「私、荷物のようではないですか?」
「まあまあ」
紗良は、かぶったフードの下で笑ってごまかした。
アニエスの実家は、アンナの家くらいの規模だった。
訪ねると、妙に冷ややかな執事が出迎え、案内された応接室には誰もいない。
これまた無言のメイドが淹れた紅茶を飲み切る頃、ようやく扉がノックもなしに開かれた。
「クラリッサ! クラリッサ許してちょうだい、私が悪かったわ!」
飛び込んできたのは、まあ驚くほどアニエスに似た女性だ。
ただ、顔色は悪く、そのくせ高そうなドレスを着ているところが違う。
「あらあらメイベル様、どうなさったのです? それと、私の名はアニエスです」
「そっ……そんな他人行儀な呼び方、よしてちょうだい!
ああやっぱりあなたは、ずっと私を恨んでいたのね……私がルシアンを奪ってしまったから!
どうか許して、そして呪いを解いてちょうだい!」
あらあら、とまたアニエスは笑う。
ただし目は笑っていない。
怖い。
「僕からも頼む。謝って済むなら何度でも謝ろう、だからこれ以上、メイベルを苦しめないでくれないか。
ああ、あの時僕が、君を傷つけることさえなければ……」
彼女を追うように入ってきた、線の細い綺麗な顔の男は、泣き崩れる妻の肩を抱いてそう言った。
こういうのを、優男、というのだろうな、と紗良はなんだか感心する。
「クラリッサ、分かるだろう、もういい加減にしなさい」
「そうよ、こんなことをしても、誰も幸せにはなれないわ!」
ということで、一家が勢ぞろいだ。
その様子を、執事以下、数人のメイド達が痛まし気に見ている。
ふう、とアニエスがため息をつく。
そして、すっと立ち上がると、いつも浮かべている柔和な笑みを消した。
ぞっとするような冷ややかな顔で、家族を見回している。
「困りましたわね。いつまでもいつまでも……一体この家は、いつから時間が止まっているのです?」
「ク、クラリッサ……?」
伸ばされた姉の手を、振り払う。
「もう17年も経つのです。婚約者を奪う? 私を傷つけた?
ねえ皆様、本当に、一体いつの話をしていらっしゃるのですか。
そんなもの、とうに癒えております。
傷ついたのは私の恋心ではなく、矜持でした。
貴族の娘としての役目、婿入りの立場で自由恋愛を優先した婚約者、尊くあれと育てた親の掌返し。
私の全てが無に帰したのですから」
アニエスは大きくため息をついた。
「ですが、私は世俗を離れ、女神の元で祈り以外のすべてを捨てたのです。
いまや私は貴族令嬢ではなく、ましてや婚約者に捨てられた女でもない。
さらに言えば――あなたたちの家族でもないのです」
「そんな!」
口々に悲鳴のような声をあげる元家族をまるっと無視して、アニエスは祈りの仕草なんかしている。
「そういうわけで、私がこの家を呪うなどということはありえません。
ある種、どうでもよいのですもの」
「どうでも……いい……」
なぜかショックを受けた風のルシアンに、紗良はフードの下で顔をしかめる。
まさか、15歳なんて子どもの頃の政略結婚の相手を、倍以上の年月好きでいたなんて思ってるんだろうか。
キショ。
「ででででも、本当なのよ、声が……変な声がするのよ!
だから、だからね、クラリッサ、あなたうちに戻ってきたらいいんじゃないかしら!
きっと家族と離れているから、心の底で怒りが消えないのよ、だからね……」
「戻りません。そして、声がするという件、別に解決しないとは言っていません」
「え、どういうこと?」
「そのために、この方をお連れしたのです」
じゃじゃーん。
ようやく出番だ。
紗良は、かぶっていたフードを外し、そのまま脱ぎ去った。
中に着ているのは、フロー伯爵からもらった布で仕立てた、なんだか神聖に見える祭服だ。
シンプルなラインの青いケープつきのワンピースに、銀糸で細かな刺繍を入れてある。
神殿を表すシンボルも首元に入っていて、いかにも高そうだ。
それが自称でない証拠に、ラトリッジ一家はそろって慌てたように立ち上がり、礼をとった。
「も、もしや、聖女様の半身様では……」
「はい。はじめまして」
「まさかこのような場所にいらしていただけるとは!」
「ええ、アニエスさんのお願いなので」
彼らは顔を見合わせる。
「クラリッサ……アニエスとは親しいので……?」
「お世話になっています。なのでこれはお礼ですね。
じゃ、早めに帰りたいので、早速始めますね」
「何を、ですか?」
紗良はそれには答えない。
代わりに、イヤーカフを外し、杖を出す。
周囲が驚愕する中、ふうと集中する。
「浄化」
浄化の上位呪文を唱える。
範囲は、この屋敷全体だ。
まるで風のように、光がさあっと広がっていく。
対象は、建物と家具。
しかし――。
紗良は首を傾げた。
「呪いなんてかかっていませんね」
「あら、どういうことですの、紗良様」
「少なくとも、建物と家具に限っては、悪意のあるものはどこにも何もない、ということですね」
それを聞き、アニエスはじっと考え込んだ。
そして、そのまま、メイベルを見る。
「はぁん?」
「な、なによ!」
「やりましたわね、メイベル様。そうですわね、お得意ですものね」
「だから何をよ!」
「嘘をつくこと」
そのとたん、メイベルは顔を真っ赤にした。
「ちが、そんな、私は嘘なんかついてないわ! ひどい!」
紗良は、ぽんと手を打つ。
「あ、いいことを思いつきました。今の浄化は建物に限っていましたからね。今度は人も対象にいれましょう。
そうすれば、悪い心を持った人が分かります。
ね、いい考えじゃないですか?」
そう言ってみる。
それこそ嘘だ。
今の紗良には、人の悪意を見抜くなんて出来ない。
でも、嘘つきには嘘で返してみてもいいだろう。
本物の聖女ならそんな手は使わないだろうが、あいにくと紗良は一般人なので、そのくらい平気だった。
だって、アニエスのためだからだ。
案の定、メイベルは赤かった顔を青くして、夫の背に隠れるように後ずさった。
その様子から、周囲の人間も本当のことを悟ったらしい。
「メイベル、どうして……」
「だって、だって……モリスが」
「モリス? 僕たちの息子がどうしたっていうんだ」
「私があなたを妹から奪って結婚したってどこかで聞いたみたいで……」
なるほど。
息子は16か17歳か。
潔癖なお年頃だ。
両親のなれそめを知り、反抗期もあいまって、嫌悪を抱くのも致し方ない。
「だからクラリッサが戻って来て、私たちと仲良くしてくれたら、きっと誤解も解けると思って!」
「わあ、浅はか」
思わず口にした紗良に、アニエスだけが小さく拍手した。
めそめそし始めたメイベルを、誰もが気まずそうにただ眺めている。
沈黙に耐えかね、紗良はアニエスの手を握った。
「あ、じゃあ、もう用はないでしょうから帰りますねー、ではー」
「えっ、半身様、待っ……」
ちょうど杖を出していて助かった。
一瞬の後に、紗良は大聖堂に立っていた。
女神像の前には、フィルがいる。
そして、ほっとしたように笑った。
「おかえりなさいませ、紗良様。そして……よく戻りました、アニエス」
「ただいま戻りました、神官長様。
紗良様、連れ出していただけて助かりました。
私がもうすぐにでもここへ帰りたいと思っていたこと、どうして分かったのです?」
紗良は、両手をふって、彼女の言葉を否定する。
「違います、私が帰りたかったんです!
人の嘘がばれるのを見てる時って、なんかもう、いたたまれなくてほんと、耐えられなくないです?」
「あらぁ、私は楽しいですけれど」
ひえ。
ほほほと笑うアニエスが、世俗を離れて全てを捨てたなんて、絶対嘘だなぁと思う。
まるくおさまって良かったですねえ、と笑い合うフィルとアニエスが、心底から貴族なんだなと、紗良はちょっと、震えた。