84
三寒四温というより、一寒六温くらいの季節。
そんな言葉はないけれど、もうこのまま春になっていくかなと思うと、急にひんやりした日が来たりする。
今日もそんな日だ。
まあそれでも、さむっ、と口にするのは今日が最後だろう。
「……前回もそう思った気がするけど」
ずずっ、とうどんをすする。
せっかく肌寒いのだからと、これをチャンスと昼は鍋焼きうどんだ。
ほうれん草と油揚げ、かまぼこ、鶏肉、落とし卵と具だくさんだから、食べ終わるころには満腹だし、汗もかいた。
横では、ヴィーが素うどんを食べている。
上に載っていた具を全部食べてしまったらしい。
好きなものは先に食べるタイプか。
食事を終えて片づけをしていると、鳥が一羽、飛んできた。
見覚えのない、金色の小さな鳥だ。
それは、低い位置を輪を描くように回ったあと、ふいと紗良の肩に止まってしまった。
「えっ」
人懐っこいな、と思ったところで、その鳥が口を開く。
「ごきげんよう紗良様、フィル・バイツェルです。
実は折り入ってご相談したいことがございまして、お時間がある時にでも大聖堂へいらしていただけませんでしょうか。
私は本日よりしばらくは他所へ出かける予定はございませんので。
それでは」
どうやら鳥は、フィルの伝言用に飛ばされたものだったようだ。
てか、声なんだ。
紗良は、耳元で囁かれたフィルの声に硬直したまま、金色の羽が再び空に舞い上がるのを見送った。
さすが魔力で生み出した鳥だ。
手紙なら、そこらの伝書バトと変わらないもんな。
喋るくらいするよね。
「それにしても、相談ってなんだろ」
紗良は、止まっていた手を動かし、食器を洗い終えると、よしと頷いた。
どうせ暇なのだ。
今日行こう。
「顕現」
まるまる太ったシマエナガを出し、今から行きます、の伝言をフィルに向かって飛ばした。
直接行った方が早いけれど、使わないと忘れてしまいそうだ。
まだ部屋着のままだったので、着替えをする。
日が出て少し暖かくなったので、薄手のワンピースにパーカーを羽織る。
今日は大聖堂にしか行かないつもりなので、普段着でいいだろう。
軽いスニーカーを履いて、紗良は転移を唱えた。
「こんにちはー」
相変わらず開かれたままの大聖堂の扉をくぐる。
教会から呼び名が変わって以降、常に信者が訪れていたが、なぜか今日は誰もいなかった。
「まあまあ紗良様、ようこそいらっしゃいましたわぁ」
現れたのは、アニエスだ。
そして、その声を聞きつけたのか、遅れて後からフィルが顔を見せる。
「お呼びだてして申し訳ありません」
「いえいえ、相談なんて珍しいなと思って。どうしたんですか?」
そう聞くと、二人は目を見合わせた後、そろって同じ方向を見た。
その視線を追う。
信徒席の一番前に、誰か一人、座っているのが見えた。
さっきは気づかなかった。
静かに祈っているようだが、中年の男性だということは分かる。
「あの人が何か? どなたですか?」
「あれは……私の父ですの」
困ったように言うアニエスの言葉に、さすがに驚く。
フィルは脇の扉から、奥の関係者エリアに紗良を導いた。
応接室のようなソファーのある部屋に通され、アニエスが紅茶を淹れてくれる。
「もしかして、相談ってアニエスさんのことでした?」
「ええ、わたくしごときのためにごめんなさいねぇ」
「どんとこいですけど、役に立てますかね、私」
あ、どうも、と言いながら、サーブされた紅茶をすする。
おいしい。
同時に座ったアニエスは、おっとりと笑いながらこんな話をした。
アニエスの生家は、王都にほどちかい領地を持つ伯爵家だ。
兄と姉のいる三番目の子で、ごく普通の令嬢として育った。
貴族としての地位も普通、家族仲も普通、教育も普通、そういう普通の家だ。
ゆえに、普通に、13歳の時に家同士の話し合いで婚約者が決まった。
相手は、同じ伯爵家の二つ上の令息で、名をルシアンという。
政略という意味では、さほど強い意味をもつものではない。
ただ、下手に変な相手に目を付けられるよりは、安全な家同士で先に結びついてしまおうという、消極的なものだ。
とはいえ、婚約は婚約。
アニエスは、ルシアンと交流し、仲を深めた。
そして、二年が経ち、アニエスが伯爵夫人としての教育を受け始めたころ、とんでもない事実が発覚する。
姉が子を身ごもった。
それも、姉の婚約者ではなく、ルシアンの子だという。
父は激怒し、母は泣き、アニエスは呆然とするばかりだ。
話によれば、姉の婚約者はすでに王宮にあがり、将来の文官としての手ほどきを実父から受けているせいで、ほとんど交流がなかった。
にもかかわらず、妹はルシアンとむつまじくやっている。
それが妬ましかったと彼女は言った。
最初に距離を詰め始めたのは、姉だったということだ。
とはいえ、それに応えたのはまぎれもなくルシアン本人で、そこに言い訳の余地はない。
姉妹とそれぞれの婚約者、3家を巻き込んでの騒動は、アニエスの意思を置き去りにして無理やりな終息を迎える。
婚約者の入れ替えだ。
それが一番、醜聞を最低限に抑えられる。
姉とルシアンは、当然それを受け入れた。
彼らはそれにより、なんの犠牲を払うこともなく、落ち着くべきところに落ち着くことができるのだから当たり前だ。
しかし、姉の婚約者はこれを拒否した。
当然だ。
こんなに人を虚仮にした話はない。
男の矜持、貴族の体面、全てを傷つけ、あげくにそれをなんとかごまかそうとした結果でしかない提案だ。
こちらとしても、受け入れるしかない。
アニエスの行き先は宙に浮いた。
そして思った。
バカみたい、と。
「だってねぇ、お母様もお父様も、お前の幸せのためだよぉって言うから、大人しく従っていたのよぉ?
なのに、全然幸せじゃないじゃなぁい?
それで、バカバカしくなって、女神様の元に参りましたの」
頬に手を当て、首をかしげるアニエスの顔は、思ったよりも穏やかだ。
以前に32歳だと言っていたから、もう人生の半分以上、家から離れているわけだ。
神に仕えることで、達観したのだろうか。
「女神信仰の世界でも、女性の地位は低いんですねー。
不思議ですね」
「ほんとですよねぇ、男性の中でその矛盾がどのように処理されているか、調べてみたいものですわぁ」
んんっ、とフィルが小さく咳ばらいをした。
「アニエスさん、ご相談をするのではなかったのですか?」
「あらそうでした。
まあそんなこんなでもう十数年ここにいるのですけれどね、何を思ったか急に父がやって来たのです」
それが、さっき女神像に祈っていた男性だろう。
ちょうど年のころもそのくらいだった。
「何しに来たと思いますぅ?」
「アニエスさん?」
「まあ、神官長様はせっかちですわねぇ」
くすくすと笑ったアニエスは、しかしすぐに、少し困った顔をした。
「父が言うには……家に戻ってきてほしい、と」
「ええーっ、今更ですか? なんで?」
「それが、要領を得ないのですけれどもね」
彼女の声が、ひそめられる。
「家が、呪われている、って」