82
アンナの家を訪れて二日目。
カフェで甘いものをたらふく食べ、お茶を飲み、はち切れそうなお腹を抱えたまま教会へと歩き出す。
馬車を使ってもいいが、消化のために歩きましょうとアンナが提案したのだ。
それにしても、やはり紗良は紅茶よりコーヒーが飲みたかった。
甘いものにはあの苦みが必要だ。
砂糖もミルクも入れない、熱くて濃いやつがいい。
おそらくアンナに言えば、どこからか手に入れてくるだろう。
家に帰ればいくらでもあるものだから、そこまでしてお願いするのも気が引ける。
バカでかいトライフルは美味しかったが、そこだけが少々残念だ。
「あら、アンナじゃない」
もうまもなく教会だというところで、年若い女性が声をかけてきた。
「タチアナ、久しぶりね」
おや、と思う。
アンナにしては、ずいぶんと言葉少なだ。
いつも――というほどの付き合いはないが、それでも、彼女ならばもっと朗らかで長々とした会話があるだろう。
「そちらは?」
「ええ、伯父のところで知り合った友人なの」
「その恰好……変わっているわね」
「ええ、魔法使い様だから」
「まあ」
タチアナと呼ばれた少女は、一度目を丸くすると、すっとそれを細める。
そのまま紗良を上から下まで眺めた。
「そう。すごい知り合いがいるのね」
「……私たち、これから教会に行くの。タチアナは?」
「仕事よ。もちろん。じゃあね」
「ええ、また」
去って行こうとするタチアナを、紗良は思わず呼び止めた。
「あの」
「え?」
「私とアンナは知り合いじゃなくて友達です。そう言いましたよね?」
「……そうだったかしら」
そのまま、彼女は背を向けて去って行った。
紗良とアンナは、再び並んで教会へと歩き出す。
「なんとなく分かったかも」
「ええそうね、今のはとっても象徴的だったと思うわ。私と、かつての友人たちというのは、おおむねあんなふうね。
もちろん、彼ら彼女らのせいだなんて思わない。
だって私も変わったもの」
「あ、そうなんだ?」
「たくさんの知識は私の可能性を広げたし、将来の考え方を飛躍させたわ。
そして、学園という幸運をつかんだ私に、かつて一緒に道端を走り回った知己たちがどんな態度をとるようになったか、ってこともね。
私のいろいろなものを変えたと思うの。
それがいいことだったか、悪いことだったか、今はまだ分からない」
にやっ、と笑った彼女は、ちょうどたどりついた教会の開かれた入口をくぐりながら言った。
「でもね、たとえ悪い方だったとして、私は変わることを恐れないのよ」
「提案があるんですけど」
その夜、紗良は食卓でそう切り出した。
「ふむ、なんだろう、楽しみだね」
「どんなことかしら?」
メイドが注いでくれたワインを一口飲んで、美味しくて驚いた。
こちらのワインはみんな酸っぱいと思っていたが、高いものは違うらしい。
「ご夫妻は、マチューとマリアにしばらく会ってないんでしたよね。
遠くて、行けないから」
「そうなのよ、商売から手が離れるようになるまでは難しいわね、ああ、生きてるうちに会えればいいのだけれど」
紗良は二回、頷いた。
「もし、会いたいなら、私が連れてきましょうか?
その、……魔法で?」
夫婦とアンナは、三人で顔を見合わせた。
「実は私、宅配業をやっているんです。魔法を使って。
たいていは物ですけど、人も運べます。安全ですよ」
「ほう。つまり君は、商人である私に、商売を持ちかけようというのだね!」
「そうですそうです。一応、教会を通すことになってるんですけど、ばれなければ個人でお金を稼いでもいいんです」
「おやまあ」
アンナの父は大声で笑った。
「それは願ってもないことだ。ぜひ頼みたい。
彼らをこちらに連れてきてほしい。
いつか私たちが向こうへ行くことがあるとしても、逆はきっとないだろうから」
「分かりました。一応、マチュー達にも都合を聞きますね」
にこにこしていたアンナが口をはさむ。
「今は種まきの季節だからダメよ。
来てくれたらせめて一日か二日は泊ってほしいじゃない?
農作業が水やりだけで済んで、一緒に牛の世話をしてくれる人がいる日じゃなくっちゃね」
「そうか、明日ってわけにはいかないのか……」
そうか、明日ってわけにはいかないのか。
紗良も内心そう思ったが、すました顔で頷いておいた。
『食べられる野草』を実際に探しに行こう、と郊外の森に馬車で出かけたり、教会のバザーに出すクッキーを山ほど作ったり、アンナのアドバイスで美味しいワインを買ったりといった三日を過ごし、紗良は河原の部屋に帰ってきた。
山ほどのお土産を抱えて来たためか、ヴィーはぐるぐるとその辺を走り回っている。
匂いがするのだろう。
主に果物の匂いだ。
向こうではやはり、ナフィアの町では手に入らないような、多くの種類の果物が売っていた。
大きい都市というのは、いろいろなものが集まってくる。
良いものは高価だが、庶民にも手の届く物はたくさんあった。
「出かける時にいなかったけど、どこに行ってたの?」
ヴィーに一応聞いてみるが、もちろん答えはない。
ただひたすらぐるぐると回っている。
「分かった分かった」
今日はフロー子爵のところに寄ってお礼を言い、お土産を手渡し、この河原に帰ってきただけで、疲れてはいない。
お泊りの荷物を部屋に入れただけで、すぐに外のシンクで果物の皮をむいた。
柑橘系の何かと、あとは見たことない何か。
匂いは桃に似ている。
果肉も柔らかいし、桃だとは思うが、色が青い。
食欲をそそらない見た目だ。
フードボウルと皿にそれぞれ盛り付け、ウッドデッキに落ち着く。
座った途端、なんだか急に疲れが襲ってきた。
体の疲労ではなく、よその家にお邪魔したための気疲れだろう。
「はぁぁ、家はいいなー」
河原だけどね。
今となっては、ここも含めて家のようなものだ。
傍らからは、ごーごーとヴィーが喉を鳴らす音がしている。
明らかに春めいてきた日差しもあって、大変に気持ちの良い日だ。
口に入れた桃のようなものは、十分甘くて美味しい。
やはり、品種改良なども行われているのだろう。
つまり、辺境の田舎と、資金力のある領地とでは、生活に差がある。
おそらくは、紗良が思うよりもずっと格差は大きい。
仕方のないことだ。
この世界は、物も人も情報も、なかなか遠くへは行けない。
マチューとマリアは、大きな町の大きな家で暮らす妹家族を見てどう思うだろう。
紗良の提案は、果たして正しかっただろうか。
かつて萌絵は、裕福で恵まれていた紗良を羨んだと言った。
それは彼女がそうあることを望んでいたからだ。
あの世界では、普通で当たり前のことだった。
SNSどころか新聞や雑誌でさえ庶民にはいきわたらないこの世界で、知らないことなどいくらでもある。
想像さえつかないことも。
見て、聞いて、知ってしまうことは、人を変えうる。
けれど紗良は思うのだ。
マチューとマリアはきっと、大荷物を抱えて妹の家へ行き、家族との再会を喜んで、そしてまた大荷物を抱えて帰ってくるだろう。
そして次の日はまた畑へ行き、牛の世話をする。
また会える日を、楽しみにして。