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薪拾いをする範囲から、初めてさらに奥へ足を踏み入れる。
足元は、ブーツの丈くらいまでの草むらだが、歩きにくくはなかった。
濃い緑の匂いは、日本では嗅いだことがないほどだ。
スマホのマップが機能するエリア以上は行くつもりがないので、こまめにチェックしながら歩く。
鳥の声はするが、獣の気配はなく、ジャングルというよりは高原の森林といった雰囲気だ。
マップ上の、部屋の位置と自分の位置が少しずつ離れていくのが少し不安だが、20分ほど歩き続けた。
平地ではないし、2kmは来ていないだろう。
「あ、……クルミ?」
見つけたのは、地面に落ちている木の実だ。
クルミっぽい。
日本のそれよりも少し大きい気がする。
マニュアルノートを開いてみると、新たなページが出来ていた。
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<食べられる木の実や野草>
ここは、元の世界とは様々な点で似ていますが、異なる世界です。
新しい生態系を知り、新しい知識を増やして行きましょう。
*食べられる種類を覚えよう
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ノートには、いくつかの果物や木、草の種類が描かれている。
いつも思うが、やたらと絵が上手いな。
どうやら、手に取った木の実は食べられるらしい。
長ったらしい名前がついていたが、説明文のその特徴はどう見てもクルミなので、紗良は勝手にクルミと呼ぶことにした。
そもそも、呪文を覚えるだけでも大変なのに、誰と共有するわけでもないものの名前など、覚える暇などない。
クルミを20個ばかり拾い、得意のビニール袋に入れて、ザックにしまう。
さらに足を進めると、柑橘系の見た目をした果物が群生している。
例によって、これはレモンと呼ぶことにした。
役に立ちそうなので沢山採りたかったが、結構重いので、5個で我慢しておく。
さらに進むと、リンゴのような実も発見した。
リンゴよりもいびつで、だいぶ小さいが、ノートによれば食べられるという。
これも5個で我慢だ。
そろそろ方向を変えよう。
ザックからミネラルウォーターのペットボトルを出し、水分補給してから、そう決めた。
河原から真っ直ぐ北に入って来たので、東に進路をとることにする。
しばらく行ったら今度は南に進むつもりだ。
そうすれば、部屋からあまり離れることなく、ある程度の範囲を捜索出来る。
「暑いな……」
長袖をめくりたいが、葛藤の末、我慢することにした。
さっきから見えないふりをしているが、そこそこ虫が目に付く。
世界で一番人を殺しているのは蚊だとも言うし、用心に越したことはない。
東側は、少しずつ低木が増えてきている。
そのせいか、陽が当たりやすいらしく、様々な野草が生えていた。
ノートと見比べながら、ハーブ類をいくつか採取した。
途中、少し考えて、根っこごと掘り出してみる。
もしかして、植えられないかな。
可能なら、家庭菜園程度の畑を作りたかった。
慣れなければいけないとはいえ、やはり山に入るのは怖いし、億劫だ。
ザックの8割がたが成果で埋まるあたりで、急に足元が悪くなった。
草というよりは藪といった様子で、背丈を越える雑草で視界も確保できないため、ここで引き返すことにした。
初めての探索だし、無理は禁物だろう。
南へ向けるつもりだった足を、まっすぐドアのある河原へ向ける。
四角形を描くつもりだったルートを、三角形に変えた形だ。
木の実のようなものはいくつかあったが、山菜は見当たらない。
やはり季節的なものかもしれない。
冬ごもりの準備が必要だと、身に迫って感じる。
マップを確認しながら河原近くまで戻って来たが、何気にステータスアプリを確認すると、【戦士】と【賢者】のレベルが上がっていた。
どういう仕組みだ。
【戦士】は体力だろうが、【賢者】は?
「あ、知識か?」
この世界の知識が増えたからだろうか。
今日の行動を思えば、その可能性が一番高い。
【魔法使い】のように、魔法を使えば使うほどレベルが上がる仕組みなら、毒にあたりまくって解毒しまくらないと【賢者】のレベルが上がらないことになってしまう。
自ら蛇に噛まれにいこうかどうしようか、いや絶対無理、などと葛藤していたので、これは都合がいい。
ドアは、あった。
良かった。
河原に帰り着き、戦利品をとりあえずドア近くの草地に出してみる。
下手に部屋に持ち込むと、虫が発生しそうだし、ビニール袋から出すだけでちょっと並べて置く。
リンゴとレモンだけは、後で冷蔵庫に入れておこう。
それから、ペットボトルの残りを飲み干しつつ、ノートを確認する。
使える呪文がいくつか増えていた。
【賢者】スキルらしいものもある。
紗良は、鍵を開けて部屋に戻って、脱いだものを洗濯機に入れ、シャワーを浴びた。
「ぎょえええええ」
自分でも気づかないような細かい切り傷が、いくつか出来ている。
シャンプーが沁みて、悲鳴が出た。
手足にもあるようで、身体を洗うのが一苦労だった。
本当はその場で新しい魔法を試してみたかったが、シャワー浴びたさが先に立ち、呪文を覚えていなかった。
適当に体を拭き、裸のままでノートを手繰り寄せ、
「うう、これ、ええと……治癒」
そう言うと、今までとは違い、明らかに身体がほのかに光った。
ほんの弱い光だが、驚いて少し固まった。
生活感しかない自室で起こる不思議現象の、違和感たるや。
確認すると、手足の切り傷はすっかり癒えている。
リセット機能に頼れば、明日の朝まで残ったままだっただろう。
便利だ。
「しまった、外でやればよかった」
これではレベルに貢献しない。
まあ、真っ裸で悔やむようなことでもないか。
紗良は、パジャマ代わりの着古したワンピースに着替え、冷蔵庫を漁って外に出た。
材料を、自作の木のテーブルに載せて戻り、今日の戦利品の中からクルミを取ってくる。
ついでに、残った木材を放置してある横の、金槌も一緒に抱えて、石のテーブルに載せた。
金槌でクルミの固い殻を割ると、中はぎゅっと詰まっている。
ほじくりだした実はやはり少し油ッ気があり、クルミそのものだ。
三つ分くらい取り出しておく。
コンロを掃いて綺麗にし、新たにたき火をセットする。
「使ったらすぐ片付けるべきだよねほんとは」
分かっているけど、一人きりだとどうしても、後回しにしていいものはすぐ手を付ける気になれない。
火をつけ、部屋まで戻って、紙パックのハウスワインを北欧キャラのついたコップに注ぐ。
フライパンも忘れずに。
毎回取りに来るの、面倒だな。
クルミをフライパンで煎って、カリカリになったところで、包丁で刻む。
それを端によけ、そのまま、沢庵を同じくらいの大きさに刻む。
ボウルに入れて置いておいたのは、クリームチーズだ。
少し柔らかくなっているところに、クルミと沢庵を入れ、ゴムベラで混ぜた。
しっかり混ぜたら、ラップに落とし、円筒形に包んで形を整える。
本当はスライスするのかもしれないが、面倒なので、そのまま石のテーブルに運ぶと、スプーンですくって口に入れた。
チェアに座ってもぐもぐやりながら、コップワインを飲む。
沢庵もクルミもチーズも、全く別方向の味なのに、一緒に食べると絶妙に香りが立つ。
どの素材も混じる気配はなく、なのに反発もせず、心地よい歯ごたえを残した。
「パンにつけて食べたい……」
紗良はパンが好きだ。
ごはんも好きだが、パンはもっと好きだ。
特に、ハード系のものが好きで、甘いパンはあまり好みではない。
高級パンとかいう角食も、母親が送ってくるから食べていたが、甘くて驚いた。
いま部屋にあるのは、スーパーで買った148円也の6枚切り食パンだけだ。
美味しいけど。
深夜ドラマで主人公の男の人が言っていた、『パンだけは一度レベルを上げると戻れない』というセリフに、深く肯いたものだ。
強力粉はあるのだが、あいにくとドライイーストを切らしているので、作ることも出来ない。
やっぱり横着せずに買っておけば良かった。
最後の夜を思い出す。
日本での、最後の日のことだ。
その日の紗良は少し落ち込んでいて、それで、買い物をさぼった。
何もせずに家に帰って、寝てしまおうと思ったのだ。
あの日、ちゃんといつも通りにスーパーに寄っていたら、もっと冷蔵庫も充実していたかもしれないのに。
そこまで考えて、やめた。
日本のことを思い出すと、じんわりとした不安感に襲われる。
もう戻れないとノートは言うが、本当か?
今、家族はどうなっているの?
本当に、このまま一生ここで暮らすの?
ワインを飲んで、それら全ての疑問を胸に押し込む。
紗良は、部屋からカップラーメンを持ってきて、お湯を沸かし始めた。
外で食べるカップラーメン。
いいじゃん。
ジャンクな匂いと味を久しぶりに堪能し、満足して一日を終えた。