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歯ブラシをくわえたまま、玄関ドアを開けてみる。
「うわさむっ」
昨日までのぬるい暖かさを期待していたが、吹き付けてきた風は冷たかった。
思わず首を縮め、急いでドアを閉める。
口を漱ぐのも今日はぬるま湯だ。
薄いアウターをやめ、コートを羽織って外に出た。
ヴィーも見当たらない。
久しぶりに、ファイヤーピットに火を入れた。
あたたかい焚火に手をかざし、木がぱちぱちと爆ぜる音を聞いていると、起きたばかりだというのに眠くなってきた。
別に寝てもいいのだが。
のろのろと立ち上がり、部屋に戻って、コンロにやかんをかけコーヒーをいれる。
わざわざかまどに火をおこすのも面倒だ。
そのまま、トースターでパンを焼き、リンゴジャムを塗ってまた外に出た。
チェアに座ってもそもそと朝食をとると、コーヒーのせいか少し目が覚めてくる。
そしてようやく、思い出した。
「あっ! ソーセージ!」
寒い日に訪ねてこい、というマチューの伝言。
この寒の戻りは、きっとマチューたちの家の辺りにも来ているだろう。
準備してくれているに違いない。
紗良は急いで立ち上がると、皿とカップを洗い、パジャマからセーターに着替えた。
寒い日に、ということは、寒いところで作業するのだろう。
手袋とマフラーはさすがにいらないか?
手にとってはみたが、うーんと考えて、置いて行くことにする。
天気は悪くないので、このまま太陽が昇れば、気温は上がっていくだろう。
「しまったー、ゆで卵……」
燻製にするには、ゆでた後に乾燥させておかなければならない。
さすがに間に合わなそうだ。
けれど、チーズならば、買いに行く時間くらいあるだろう。
まだ9時を回ったところだ。
マチューたちは早起きだけれど、この時間はまだ農作業の真っ最中のはず。
紗良は、まずチーズを買いに行くことにした。
今日は間違えずに、転移でチーズ工房の小屋に直接飛ぶことができた。
「こんにちはー」
「おや魔法使い様、久しぶりだねえ」
「この前、沢山買っちゃったから」
「そういやそうだったねえ」
工房は村の経営のようだが、実際に中で働いているのは、7,8人の奥様方だ。
その中でも、責任者のような役割をしている女性は、名をシーナという。
いつも赤いエプロンをつけ、忙しそうだ。
この間の村長との会話から考えると、読み書きできる村人はほとんどいないはずだが、彼女は計算もできる。
それゆえの責任者なのだろう。
今日も、燻製にしたいのだという紗良の話を聞いて、おすすめを選び、てきぱきと重さから値段を出してくれている。
「燻製にするなんてでも少しもったいないわよ? そんなことしなくても、保存がきくのに」
「あ、保存のためにカチカチに燻製するんじゃなくて、香りをつけるんですよ」
「ええ?」
「スモーキーな香りがつくと、おつまみにとてもいいですよ」
「へぇぇ、そりゃいいことを聞いたよ。ねえ、うちの村でも試してみてもいいかい?」
「もちろんですよ、私のアイディアじゃないですし」
「うまくできたら、おすそわけするからね!」
そんな必要も特にないのだが、くれるというのだからもらっておこうかな。
萌絵も、とれるところからとるのがこの世界、と言っていたし。
「じゃあまた来ます」
「まいどあり!」
元気の良い声に送られて、紗良は今度こそ、マチューの農場へと転移した。
「やあ、来たな」
やはり、マチューは紗良の来訪を分かっていた顔だった。
すでに農作業は終え、早めの昼食をとろうとしていたようだ。
一緒に食べようと言われ、喜んで席に着く。
外食することがまずない生活で、自分の味以外の食事は嬉しいものだ。
メインはチキンだった。
鶏むね肉を開き、ほうれん草のようなものと何かのきのこ、そして塩気の強いチーズを混ぜたものを挟んで焼いたようだ。
バジルの香りもするし、ローストしたくるみも入っている。
とても美味しい。
紗良のレパートリーはもちろん、記憶にもない料理だ。
硬くて酸っぱいパンと、干し肉の入ったスープはあっさりしていて、メインによく合っている。
「美味しい」
「そうかい? そりゃよかったよ」
「あ、そうだ、手土産があるよ。私が作ったの」
忘れず持ってきていたスパイスクッキーは、食後に出した。
期待通りにマチューが気に入ってくれた。
エールが飲みたくなるなあというのをなんとか阻止し、三人で片づけをしてから、いよいよ納屋に連れ出される。
テーブルの上に歪んだ金属のボウル、傍らには井戸水を溜めた桶が置いてある。
ボウルの中に、マチューが挽いたらしい肉が入っていた。
「これはね、塩だ。コショウと、砂糖。ほい、ほいっ、と」
材料は非常にシンプルだ。
「ハーブとか入れないの? 辛いやつとか」
「うんうん、肉に何かを混ぜると、まとまりにくいんだ。
紗良は腸詰めを作るのが初めてだろう?
最初はできるだけ、入れるものは少なくした方がいい」
「そうなんだ」
マチューは、優しく頷くと、ボウルの中身をこね始めた。
時々、桶の水に手を入れては、またこねる。
「さ、やってごらん。先に手を水につけてな」
「うん?」
言われた通り、桶に手を突っ込む。
「ぎゃー!」
めちゃくちゃに冷たい。
井戸水だからなのかなんなのか、体全体が震えあがる。
その手を、おそるおそるボウルの中身に触れる。
「ひぃぃ」
めちゃくちゃに冷たい。
今日はただでさえ寒いのに、何もかもが冷たい。
「はっは、腸詰めの肉は、絶対にあたためちゃいけないんだ。手を冷やしながら頑張るんだぞ」
だから寒い日限定だったのか。
紗良は、ほとんど泣きながらボウルの中身をこねる。
途中で見かねたマチューが代わってくれたが、そのころにはもう手が真っ赤になっていたほどだ。
肉の脂を落とすために手を洗うのもつらい。
「やれやれ、お嬢様の手だなあ」
「当たり前だろ、お嬢様なんだから!
まったく、無茶させるんじゃないわよ!」
様子を見に来たマリアが、マチューに怒っている。
紗良は、魔法で自分の手を温め、ようやく一息ついた。
そのころにはもう、マチューは口金のような充てん装置に、白っぽいぐにぐにしたものをはめている。
もちろん、腸だろう。
「さあ、詰めてみるかい?」
ちょっとだけ手本を見せてもらった後、口金の後ろの袋状の中身をゆっくり押し出してみる。
「あっ、膨らんだ、ああっ、空気が!」
最初はうまくいかなかったが、【調理】スキルがあるせいか、すぐにちょうどよい力加減を覚えた。
うまいうまい、とマチューが褒めてくれる。
全部詰めたら、真ん中でねじり、そこからさらに鎖状になるようねじっていくと、出来上がりだ。
それをゆで、ゆでている間に、燻製の準備をする。
前面に扉のついた、頑丈な木箱だ。
「マチューが作ったの?」
「そうさ」
「なんでも作るのよ、この人は」
それはすごい。
茹で上がったソーセージは、また井戸水にひたしてしっかり冷やす。
水気をとったら、木箱の上部に渡した棒に通し、ぶら下げる格好だ。
下の方には網があり、そのさらに下に、ウッドチップが盛られていた。
マチューはその上に焚き付けを置き、火をつける。
やがて、香ばしいような煙いような匂いがしてくる。
扉を閉めたマチューは、ぱんぱんと手の木くずを払い、立ち上がった。
「さてこれで」
「うんうん」
「二時間待つぞ」
長いな?