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春は遠くはないが、近くもない。
朝の気温は、今が一番、紗良を打ちのめすような気がする。
部屋を出る前から保温をかけていればいい話だけれど、なんとなく、どれくらい寒いかを確認してみたくなるのだ。
「おはようヴィー」
こちらは床暖の具合を確認するのに余念がない。
なぜか猫の姿になっているのは、人をダメにするクッションに全身をあずけるためだろう。
怠惰。
怠惰である。
でも、魔物の仕事ってなに?
やらなければいけないことがないなら、ごろごろしていてもいいってことだ。
少なくとも、自分の食い扶持は自分で稼いでいるようだし。
「朝ご飯はどうしようかな。何かあったかいものが食べたいけど」
紗良は欠伸をしながら、かまどの前に立った。
火を入れて、鍋に水を張ってかけておく。
そのまま部屋に戻ると、冷蔵庫を漁った。
両手に材料を抱えて外に出ると、いったんそれらを調理台に置き、今度はコンテナに近づいた。
種は植えていないが、土がまだ詰まったままのコンテナだ。
手にはキッチンバサミを持っていて、それで切り取ったのは、ちょんと生えたねぎである。
斬り落としたねぎの根元を植えておいたら、いつのまにか10㎝ばかり育っていたのだ。
「さて」
ちょうど沸きかけていた鍋の湯に、かつおぶしをひとつかみ。
持ち出してきた人参と大根とエノキを刻み、鳥のささ身も小さく切る。
すくいざるでざっとかつおぶしを取り出すと、そこに切った材料を全部入れた。
火が通るころ、ジャーから出してきたごはんを水洗いし、投入。
みそを溶きいれて、卵を割り入れ、刻んだねぎを散らす。
「できた」
鍋から雑炊を二人分よそって、そこに、スプーンで皮からこそげた明太子をひとさじ。
バターをひとかけら。
「背徳……」
あんバターサンドよりは落ちるが、これもなかなかに体に悪そうだ。
だがそこがいい。
紗良はリセットされるとして、ヴィーにはどうだろう?
少し考えてしまう。
とはいえ、いつか見たあの象くらいある生き物を本当にヴィーが食べているとしたら、こんな雑炊など、おやつにもなりはしないだろう。
ノーカンということで。
「ヴィー、ごはんだよ」
飛び起きた黒い体は、まだ猫のままだ。
ふーむ。
魔物ではなく猫なのだとしたら、かなり悪い方向にカウントされそうだけど。
本人がいいというのだから、いいのだろう。
湯気の立つ汁物は熱い、ということを学んだのか、ちょこんと座って冷めるのを待っている。
紗良の方は、自分の分を軽く混ぜると、ふうと吹いて食べた。
味噌とバター。
ふふん。
横でようやく食べ始めたヴィーの小さな舌が、チャッチャッとスープを舐めている。
ご機嫌なようでなによりだ。
このまま雪さえ降らなければ、薪を集めに行こう。
かなり効率よく集められるようになったけれど、完全になくなる前に補充しておきたい。
そんなことを考えながら、しばらく無言でお椀の中身を食べた。
食べ終えてふうと息をつくと、もはや暑いほどだ。
体がほかほかして、紗良は慌ててウッドデッキを降りる。
床暖でのぼせそうだ。
食器と調理器具を洗い、空を確認する。
どうやら、天気は良いようだ。
部屋に戻り、動きやすい恰好に着替えると、スーパーのレジ袋をいくつか持って外に出た。
「薪集めてくるねー」
川の水をがぶがぶ飲んでいるヴィーは、いつのまにか魔物の姿になっていた。
相変わらずでっかいな、という感想を得ながら、森に入る。
入口付近の方が、運ぶ距離が少なくていいのは当たり前。
ただ、やはり一年以上、場所を変えつつとはいえ近場で済ませていたため、ちょうど燃えやすいような枝が減ってきたように思う。
いざという時のために、簡単に行き帰りできる距離の木は、残しておこう。
川下側に下りるルートをとって、森に踏み入る。
落ち葉がかさかさというより、じっとりと濡れていて、もしかしたら夕べは少し雪が降ったのかもしれないと思った。
川上方向には、横枝の少ない直立した木が多い。
杉に似ているが、杉ではなさそうだ。
それに対し、今向かっている方には、樹冠の大きな横に広がる木が生えている。
低い位置の枝を多少切っても、影響はそうないだろう。
切断で近いところから枝を切り落とし、それをさらに適度な長さに揃える。
スパスパと気持ちよく切れはするが、集めるのは人力だ。
軍手をした手で、よっこらしょと拾って歩く。
ある程度たまったら、レジ袋にまとめて入れる。
これを5袋分はがんばろう。
隣の木に移動しようとした紗良のお尻が、なにかに柔らかく突かれた。
安全地帯は発動しなかったのに、と驚いて振り向く。
鹿がいた。
「わあ……君たちは、前に会った子たちかな?」
こちらでの名前は忘れた。
転移石を解放したときにいた鹿かもしれない。
やけに人懐っこいところが、とても似ている。
「こんなところまで遊びに来たの?」
言いながら思い出したが、どんぐり石はここから一番近い転移石だ。
紗良の足でも1時間かからなかったような覚えがある。
彼らにとっては、そんなに遠くないのかもしれない。
鹿はぴすぴすと鼻を鳴らすと、足元の何かを紗良の方に押しやった。
まるまる太った何かの木の実だ。
どんぐりに似ている。
周囲の鹿たちは、それをぼりぼりとおいしそうに食べていた。
「あ、ありがと」
一応拾うと、目の前の一頭は、安心したように近くの実を食べ始めた。
人に勧めずにはいられないのだろうか。
なんとなく、兄を思い出す。
紗良の兄も、いつも誰かに食べ物を与えていた。
ポケットには個包装のおやつがぎっしり詰まっていたし、自宅のパントリーは兄の買い置きでいっぱいだった。
当人はさして量を食べるわけでもなく、どちらかというと痩せ気味だ。
彼はただ、おいしいものを人に勧めるのが好きなのだ。
いずれ母の後を継ぐだろうと思ったが、選んだのはアパレル業界で、紗良は驚いたものだ。
「いや、俺、料理はそんな好きじゃないし」
理由を聞いた紗良に、兄はあっさりそう言った。
「オシャレだってそんなに好きじゃないじゃん」
「まあね。でも、流行とか経済には興味があるよ。
料理学校より、父さんの会社の方が面白そうだし」
久しぶりに、兄のことを思い出した。
年齢が離れているせいか、性別が違うせいか、姉よりも少し距離のある兄妹だったと思う。
あれでなかなか優秀なのだと、めったに人を褒めない姉が言っていた。
そうは見えない、飄々として何を考えているか分からないと返せば、姉は大声で笑って言った。
あんたは兄に似たんだね、と。
「今思い出してもショックだわ……」
変人に似ていると言われた衝撃は、その後しばらく、紗良を無口にさせたものだ。
ただ、今は思う。
こうして異世界に放り出され、一週間ばかり泣きはしたものの、結局なんだかんだ馴染んで暮らしている。
家族の中でそんなふうにするのは、紗良と兄だろう、と。
父と母と姉は、きっとさっさと人里に出るに違いない。
なんとか元の世界に戻ろうともするだろう。
無理っぽいなと分かっても、一通りの努力をするのが彼らだ。
兄は違う。
兄だけがきっと、紗良と同じように、森でのほほんと暮らすだろう。
だから姉の言うことも、間違ってはいなかったかもしれない。
「じゃあね鹿たち、兄のように図太く生きるんだよ」
紗良は、レジ袋入りの薪を運搬しながら、彼らに別れを告げた。兄に似ている鹿は、差し出した指の先の匂いをちょっと嗅いでから、また木の実をぼりぼりと食べ始めた。
その耳の先をちょっとだけ撫でた。
河原に戻ると、ヴィーはいなかった。
ごはんを食べに行ったのかもしれない。
ふと、さっきの鹿たちのことが心配になる。
前に、お土産にはいらないよ、とヴィーに頼んだけれど、食べないでとは言わなかった。
それは紗良の言うことではないし、頼める話でもない。
でもなんとなく、大丈夫な気がする。
彼の耳の先についた紗良の匂いを、ヴィーはきっと嗅ぎ分けるだろう。
少なくとも、そのかすかなしるしがあるうちは、あの子は安全に違いないのだ。