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「ほほう……これはこれは」
教皇様は、祭壇の前に立つと、ゆっくり二回頷いた。
そして、森の中をのぞくように、ぐっと体を乗り出す。
何が見えているのだろう。
「これは……見事に淀んでおる」
「えっ」
紗良は思わず、声を出した。
聖なる森なのに、淀んでいるなど、そんなことがあるのだろうか。
「ふむふむ、あちこちに魔物が集まっておるようだ。
どうだね神官長、近隣の魔獣被害は」
「確実に減っております」
「よろしい。紗良嬢のおかげですな」
にっこり微笑まれたが、当の紗良は首を傾げた。
「私の? ……何がです? どういう意味ですか?」
「ふむ。女神様は、森の役割を教えてはくれなんだか……。
だとすれば、我々の口から伝えるのも僭越やもしれんが」
悩むような教皇様の横から、萌絵が口を出す。
「知ってても知らなくても、津和野さんの生活は変わらないわよ。
加護もあるし、魔力もあるし、黒いのもいるし」
「それもそうじゃな。
紗良嬢、聖なる森は、魔獣にとって心地よい場所なのだよ。
その上、なぜかやつらは女神様の気配に惹かれてやってくる。
すなわち、森に暮らす紗良嬢の周囲には、あらゆる魔物が集ってくるというわけですな」
マタタビかな?
「いや、知らせておいて欲しかったな!」
「なんで?」
「えー……心構え?」
「まあね。そうかな。でも……結果オーライ?」
「いやいや、私ほら、最初の頃、死にかけたよ?
なんか毒蛇っぽいのに噛まれたけど、後からマニュアルノート見たらあれ魔物だったし!」
「解毒覚えた後じゃない?」
「え? ……うーん、確かにそうだけど」
「じゃあ死なないよ」
「え、死なないんだ」
「うん」
自信満々に萌絵が言うので、そんなもんかな、という気になってきた。
「佐々木さんにも寄ってくるの?」
「来るよー。でも神殿には来ない」
「ふうん?」
じゃあどこで寄ってくるのかな。
聞こうとしたが、目の前のしげみががさがさ揺れたので、聞きそびれてしまった。
顔を出したのは、ヴィーだった。
のっそりと森から出てくると、やはり見慣れていてもでっかいなと思う。
「あら、お迎えに来たの?」
ぐう、とヴィーがうなると、騎士達が教皇様を守るように前に出て、付き添いみたいな神官は後ずさった。
「あ、これ、大丈夫です。……多分」
大丈夫と言った後、自分以外にも大丈夫かどうかは本当のところ分からないなと思い、ちょっと曖昧な語尾になってしまった。
そのせいか、騎士達は全然警戒を解かない。
「仕方ないな。ヴィー、お腹空いたの?
ごめんなさい、私、ここで帰りますね。
送らなくて大丈夫でした?」
「あ、帰りは神殿行きだから、私が連れて帰るよ。ここから直接帰ろうかな」
「フィルさんも、大聖堂に転移石ありますよね」
「はい、ご心配なく」
「じゃあ皆さん、お先に失礼します。佐々木さん、またね」
「うん、またねー」
紗良が森に足を踏み入れると、ヴィーは、その後を追うようにくるりと身をひるがえした。
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森の茂みに、黒い大きな体が消えると、騎士たちはようやく少し力を抜いた。
その背中が緊張しきっていたのを、後ろから見ていた萌絵は少し不思議に思う。
「どうしたの、魔獣なんて見慣れているでしょう?」
彼らは、巡礼の旅にも帯同する騎士達だ。
顔も名前も知っている。
教皇が森を見に行くと言ったので、わざわざ彼らを連れてきたのだ。
魔物に慣れているという理由で。
「ええ……しかし、あの方の前で、聖女様は剣を抜かれないでしょうから。
その場合、お守りしきれるかどうか、正直自信がありませんでしたのでね」
年かさのほうが、気安い口調で言った。
教皇も頷いている。
あの黒いのが襲ってくるとは思っていないが、仮にそうなった場合、確かに彼らに制圧は不可能だろう。
「あれは名前もあるのよ。首輪もしてたじゃない。警戒しすぎよ」
「それが我々の使命ですから、仕方ありません」
騎士として満点の答えをした後、彼らはようやく、剣にかけた手を離した。
「それにしても、あのような大物を従えていらっしゃるとは」
「従えてるとか言うと、真顔で否定されるわよ。
本人は、隣人くらいのつもりなんだから」
「上位魔獣と近所づきあいされたのでは、たまったものではありませんね」
騎士とおしゃべりしている間に、教皇はここでも祈りを捧げていた。
祝福というより、女神賛美だろう。
好きにやらせておく。
「ねえ、神官長は、あの黒いのと仲がいいの?」
神官らしく直立不動で教皇の背中を見守っていたフィルは、萌絵の問いに首を振った。
「とんでもない。しょっちゅう威嚇されますし、森で追い掛け回されたこともあります」
「ええ? 森で? 津和野さんは気づかなかったの?」
「紗良様が、森歩きの護衛にとつけてくださったのですよ」
「ああ……そう……」
萌絵とフィルは、遠くを見つめてしばし、沈黙した。
「ところでね、もちろん気づいていると思うけれど、津和野さんは年をとらないわ」
騎士はぎょっとしたが、フィルは小さく頷いた。
やはり気づいていたらしい。
「今のままじゃ、私とも、あなたとも、ほかの誰とも違う時間を生きることになる。
私はね、フィル・バイツェル。それをいいことだとは思っていないの。
不老不死に憧れる人間の気が知れないわ。
だって、それは全ての親しい人間と別れ続ける時間でしかないのだもの」
「価値観は人それぞれでございましょう」
「じゃああなた、津和野さんがそれを望む価値観を持ってるっていうの?
そんなわけないわよね。
津和野さんを森から引っ張り出したのは、あなただもの」
「私はそんな大それたことはしておりませんよ」
萌絵は顔をしかめた。
「私は忙しいの、あなたと言葉遊びをするつもりはないわ。
覚悟を決めて頂戴、神官長。その地位は、誰のためのものなの?
津和野さんをあの場所から――止まった時間から引きずり出せるのは、きっとあなたよ」
私は、とフィルは言い、その後を続けないまま、いつの間にかうつむいていた顔を上げた。
教皇の祈りが終わったのだ。
「さて、帰ろうかの」
ちょっとそこまで、のノリで言うのに対し、萌絵もただ頷いて、気軽に杖を出した。
教皇が、フィルに頷きかける。
「どれ、突然で悪かったな。だが祝福は早いほうがよかろう」
「ええ。ありがたいことでございました。
聖女様にも来ていただけるとは、大変に光栄です」
「いいのよ。別にあなたのためでも土地の人のためでもない動機だから」
「ええ。それでも」
ちょっと意地悪な言い方をしたのに、フィルは穏やかに感謝をささげた。
「んもう、イライラするわね!
津和野さんを実家に連れて帰るのでしょう?
もういろいろと決まったようなものじゃない!」
またもぎょっとする騎士、目を限界まで開くアニエス。
いたんだ、アニエス。
だが、当のフィルは、困ったような顔をした。
「……紗良様は、そのようなことだとは全く思っていらっしゃらないと思います」
「はあ?」
萌絵は鼻で笑った。
「年末年始に実家に連れて行くのよ? その意味の、何が分かんないのよ、そんなわけないでしょ」
無駄な抵抗をするな、という意味で、もはや嘲りともとれる言い方をしてやった。
しかし、フィルは、ただただ困った顔をしている。
「……」
「……」
「……うそでしょ?」
思わず萌絵の口がぽかんと開く。
「えっ……いえ、待って、そう言われてみれば、ゼミ飲みの時も女子会の時も、津和野さんの口から異性の話題が出たことは……なかった?
私ですらカレシがいたことあったのに、あんな余裕ぶった生活しておいて誰とも付き合ったことがないなんてことある?」
「ゼミ飲みとはなんですか」
騎士が口出ししてきたが、質問に答えている場合ではない。
「好きな人すらいなかった可能性があるわ……うそでしょ、そんなハタチいる?」
「年齢は関係ないのでは?」
「あるに決まってるでしょ、馬鹿ね、馬鹿、あるわよ」
アニエスが深く頷いている。
フィルは、真顔で萌絵を見ていた。
萌絵は、そっと、目をそらした。
「……さ、帰りましょうか、教皇様」
「見捨てたのう」
「何のことか分からないわ」
「聖女でも道を示せぬらしい、これは試練だのう、フィル・バイツェルよ」
萌絵が杖を握って魔力をこめると、地面に魔法陣が浮き出る。
陣に触れていれば、手をつながなくとも全員を転移させることができる代物だ。
紗良にも可能だが、萌絵は黙っている。
その方が、楽しいから。
「神官長になるための試練より、ずっと難しいですね」
「思ったんだけど」
萌絵は、重々しく言った。
「簡単なよりは、難しいほうが、長持ちする気がするの。うん。きっとね」
「きっと……」
「多分ね。うん。そうに違いないわ。
それじゃ、幸運を祈ります」
萌絵は転移を唱え、新しい大聖堂への祝福任務は完了とした。
逃げたわけではない。
決して。
うん。