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この子は本当に強いのだろうか。
紗良は、床暖ウッドデッキでクッションを枕にし、仰向けで寝ているヴィーの横に正座している。
フィルはこの魔物を強いと言うし、実際、大きな獲物を捕まえてくることもある。
それでも、この無防備さは、心配になるほどだ。
いやむしろ、強いから無防備に見えるのか……?
とりあえず、小声で呼びかけてみる。
「ごはんだよー」
その途端、ヴィーは仰向けだった体をさっと反転して飛び起き、ぐうっと伸びをした。
相変わらずでっかい。
反射神経はなかなかだなぁなどと思いながら、こちらも立ち上がった。
シンクに下りて、かまどにかけてあった鍋をおろす。
弱火であたためていた味噌汁だ。
今日の具は、玉ねぎとわかめと豆腐。
自分の椀と、フードボウルによそって、ウッドデッキに戻ると、ヴィーはすでに食卓についていた。
その鼻息の先には、おにぎりが三つ。
一口大の鮭の切り身をまるごと入れたものと、肉みそに大葉を巻いたものと、おかかチーズを混ぜたもの。
紗良の二倍の大きさで作ってある。
「はい。いただきます」
紗良が味噌汁をふいて冷ます間に、ヴィーの口におにぎりがひとつ、消える。
機嫌が良さそうだ。
口に合ったらしい。
梅は入れなかった。
以前出した時、明らかに食べるスピードが落ちたから。
酸っぱいのは苦手っぽい。
無言で食べ終え、紗良が洗い物をする間、ヴィーはウッドデッキで顔を洗っていた。
そしてちょうど終わるころ、出かけるらしい顔をして立ち上がる。
ふと、ついて行ってみようか、と思う。
いつもは紗良の用事についてくるのだから、逆があってもいいだろう。
それで、急いで部屋に戻り、コートとブーツを身に着けた。
ウッドデッキ周りは、魔法で温かさを維持しているが、森はもう冬の顔だ。
すっかり寒さに覆われ、どんどん緑を減らしている。
歩き出したヴィーの後を追う。
が、いきなり難関が待ち構えていた。
「そこ道じゃないじゃん……」
ヴィーは、紗良が木々の隙間を縫うようにつけた道をいきなりはずれ、茂みにずぼっと踏み込んでいく。
紗良がついてくるなんて考えていないからだけれど、ちょっと恨めしい。
久しぶりにおなかがもぞもぞしたので、コートをたくしあげて、マニュアルノートを出してみた。
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〈風を操る〉
あなたはいくつかの風に関する魔法を会得しています。
あなたの持つもので最も多い属性です。
魔力の量、質、強さを変えることで、さらに様々に風を操ることができるでしょう!
まずは、自分の身を守るために使ってみましょう。
拒絶
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ふむふむ。
「拒絶」
何も考えずに呪文を唱えると、いきなり目の前の茂みが3mほど押しつぶされたように倒れてしまった。
安全地帯が悪意を持つ者だけを弾くのと違い、物理的に全て押しのけてしまうらしい。
どうやら、紗良の周りに目に見えない魔力の壁があるようだ。
今度は、その壁を小さくするよう意識する。
広範囲である必要はないので、体にそって周囲50㎝ほどをイメージした。
「どうかな」
そのまま、押しつぶしてしまった茂みを踏んで、先に進む。
すると、無事だったあたりから、イメージ通りの範囲で草木が押しのけられていく。
これで、ヴィーを追うこともできそうだ。
ノートをしまい込み、ヴィーの気配を探る。
結構進んでしまっているので、慌てて後を追った。
少しすると、ようやくしっぽの先が見えた。
それにしても、あのように大きな体で茂みを通っているのに、その痕跡がほとんどない。
紗良のように押しつぶしているのではなく、すり抜けているようだ。
ネコ科に似た見た目は伊達ではないらしい。
しゅるりしゅるりと狭いところを華麗に進んでいく。
目的があるのかないのか、適当に進んでいるようだが足取りに迷いはない。
ヴィーの姿だけ見ながら追いかけているので、紗良は方向を見失ってしまった。
帰りは転移すればいいけれど、我ながら迂闊だなと反省する。
開き直って、ひたすらヴィーの後を追う。
残り少ない木の実を食べたり、泉の水を飲んだりと、これは多分散歩のようだ。
というか、泉があったのか。
近づいてみると、透明度が高く、飲めそうだ。
一応、浄化をかけながら口に入れる。
おなかを壊したら大変だからね。
「おいしい。冷たい」
底のほうを透かして見るが、深さが分からない。
この透明度で底がみえないということは、結構深いのかもしれなかった。
これ以上近づくのはやめておこう。
そう思って顔を上げる。
「しまった、見失った」
ヴィーの姿がない。
とはいえ、紗良はなんとなくヴィーの気配がわかるので、その後を追ってみる。
少し広い場所に出たところで、黒いしっぽがゆらゆら揺れているのを見つけた。
声をかけようとしたが、黒い体の向こうに、何か大きなかたまりが見えて足を止める。
あれは。
うーん。
動物か魔物。
そしてその前に陣取るヴィーの動き。
あれは。
うーん。
食事中だ。
紗良は、目をそらしながら後退し、後ろを向いて座り込んだ。
ワイルドな食事シーンを直視したくなかったので。
それにしても、ほんの短時間で、しかも、そう遠くない距離にいた紗良に聞こえないくらいの静かさで、あの獲物をしとめたのだろうか。
だとしたら、やはりヴィーは――。
がお、と耳元で声がした。
ぱっと振り向くと、ヴィーが紗良をのぞき込んでいた。
「あらヴィー。気づかれちゃった?」
声をかけたが、ヴィーは何も答えず、前足で口元を洗い始めた。
ご満悦のようだ。
「ごはんだったのね。終わったの? もう帰る?」
言葉は通じないので、やはり答えはない。
心ゆくまで毛づくろいしたヴィーは、立ち上がって歩き出す。
そして、紗良のほうを振り向いた。
ついてこい、という訳かな?
「あっ、きのこ!」
案内される道中、たくさんのきのこを発見した。
去年は、保存食を作るためにたくさん収穫したが、今年はそれほど採集していない。
保存を覚えたことと、街との行き来をするようになったことなどが理由だ。
それでも、去年の『きのこハイ』は体にしっかりしみ込んでいたらしい。
テンションが上がって、しゃがみこんでしまう。
「あっ、ビニール袋がなーい」
すっかり転移の能力に甘えてしまい、遭難セットを持ってきていない。
そのせいで、採集したところで持ち帰る術がなかった。
油断大敵。
仕方なく、紗良はスマホを出し、現在地を確認してみた。
聖なる森の、ご神木からだいぶ離れた場所のようだ。
「うーん、ピンが打てればいいのに」
しかし、探してもそうした機能はついていないようだ。
仕方なく、できるだけ拡大しつつ、現在地を頑張って記憶する。
立ち上がると、お座りして待っていたらしいヴィーが腰を上げた。
そしてまた、歩き出す。
紗良は後を追う。
「あっ、柿!」
すっかり熟した柿があった。
下流にあったものとは、果実の形が違う気がする。
種類が違うのかもしれない。
お腹からマニュアルノートを出して、森の動植物が描かれたページをめくって探し出すと、同じ形の果物が見つかった。
食べられるらしい。
紗良は思い切って、柿にかじりついてみた。
「あまっ、おいしい!」
ふと見ると、ヴィーもその実を前足で叩き落して食べている。
険しい斜面の近くなので、紗良だけならここには来なかったかもしれない。
「ねえ。もしかして、ヴィーのお気に入りの場所を紹介してくれてるの?」
話しかけたせいか、ちらっとこちらを見る。
けれどやはり、何も言わない。
言わないまま、柿を叩き落しては食べている。
ただ食べたかっただけのような気がしてきた。
ふと気づくと、あたりは少し、暗くなってきている。
森の中なのではっきりしないが、太陽はだいぶ傾いているようだ。
「もうそんな時間? 大変、帰ろうヴィー、夕ご飯作らないと」
ごはん、という単語には、反応があった。
食べていた柿を一気に丸呑みし、それから、しゅるんと黒猫の姿になったのだ。
そのまま、紗良の肩にジャンプする。
「柿なら持って帰れるかも」
二、三個だけポケットに突っ込んで、紗良は杖を出した。
「よし帰ろう。転移」
河原に戻ると、見慣れない包みがウッドデッキに置いてあった。
ここまで来られるのは、萌絵かフィルだけだ。
萌絵なら事前にSNSで連絡が来るだろうから、きっと後者だ。
包みを開けてみると、案の定、フィルを通して頼んでいたキルトラグだった。
四種類の布をそれぞれ正方形に裁断し、モザイクに配置してある。
色のバランスはさすがの一言だ。
「よし、敷いてみよう」
ウッドデッキの上にあるテーブルやなにかを浮遊で避けて、ラグを敷く。
暖かそうで、雰囲気ががらっと変わった気がする。
どかしたものをまた戻して、靴を脱いで上がってみた。
床暖が感じにくいので、ちょっと温度を調整する。
キルトラグを通して、ほわりとした暖かさを感じた。
うにゃうにゃと声が聞こえたので振り向くと、ウッドデッキの前で、魔物に戻ったヴィーが座って待っていた。
慌てて、浄化をかけ、泥や土や、その他もろもろ毛皮についている汚れを落としてやると、待ちかねたように上がってくる。
そして、ごろんと寝ころんだ。
夏は木の感触が気持ちいいけれど、冬は柔らかい布の手触りがよく似合う。
満足そうに寝ころぶヴィーの隣に、紗良も仰向けになってみた。
少し厚めのキルトなので、寝ころんでも痛くない。
「これは良いものだ」
ぐう、とお腹が鳴った。
紗良のお腹だ。
今日は、お弁当を持たずに森に入ったので、お腹が空いていた。
さて、今日は何にしよう。
「ヴィーはやっぱりお肉?」
森の観光ガイドをしてくれたお礼に、好きなものを作ってあげよう。
それに、やはりヴィーは強いのだと改めて認識する。
ヴィーについて歩いている間、今までになく安全地帯の発動回数が少なかった。
ほとんどなかったと言っていい。
ヴィーの気配を察知して、逃げていたのだろう。
まだまだ知らないことがたくさんあるな、と思う。
森についても、ヴィーについても。
思い出して、ポケットから柿を出した。
ふむ。
ヴィーはまだまだ、こういう隠しスポットを知っているに違いない。
また散歩について行ってみよう。
紗良は、いびきをかきだしたヴィーを背後に感じながら、かまどに火を入れた。