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マリアの手元を見てから、同じように糸端を始末する。
結び目は美しいとは言えない。
布をぴんと張って掲げてみると、縫い目が蛇行しているのがはっきりと分かった。
「駄目じゃない?」
「何がだい?」
ひとり言に答えが返ってきて、ちょっと吃驚する。
ついつい心の声が漏れた。
裁縫とは、人を無心にするのだ。
ファンファーレが聞こえた。
よしよし、順調に【裁縫】レベルが上がっているようだ。
マリアの前だからスマホは出さないが、三つくらいは上がったはず。
「ううん……その、ちょっと見た目がね」
「初めてなんだからいいんだよそんなこと。お金をもらうわけじゃなし」
彼女がこともなげに言うので、紗良は少し心が軽くなる。
ここは、パン窯のある農家のリビングだ。
パン窯のある家の夫婦、と呼ぶのは長いので、名前を教えてもらった。
奥さんの方はマリア、旦那さんの方はマチューというそうだ。
約束通りにプラムの収穫に来て、午前中に一気に終わらせてしまった。
その後、シチューと冷たいハム、温かいパンの昼食をごちそうになった。
シチューというか、ヤギのミルクを使ったスープだそうだ。
独特の匂いはあったが、決して嫌ではない、むしろ癖になりそうな味だった。
ハムは分厚く切られ、パンとともに食べるともうお腹がいっぱいになるくらい。
もちろん、食後にはプラムも出た。
酸っぱいけれど、香りと瑞々しさはやはり収穫したてのせいか素晴らしい。
種の周りは唇が尖るくらい酸味があったのに、二つも食べてしまった。
その時敷いてあったランチョンマットは、少し荒い目の布が丁寧に縫われたもので、特に布の重なる角の処理が綺麗で、思わず感心した。
マリアのお手製らしい。
そこから、あれよあれよという間に、紗良は彼女の手ほどきをうけることになってしまった。
マリアは、鉄製のひしゃくのような器に、かんかんに焼けた炭をぽいと入れる。
そして、手のひらをかざして熱さを確認すると、紗良の持っていた布を取り上げ、端をさっと三つ折りにしてひしゃくで伸した。
ひのし、というやつだろう。
アイロンの元になったやつだ。
それにしても、目分量できっちりまっすぐ伸せるのだからすごい。
「さあ、あともう少しよ?」
紗良はマリアに笑顔でうながされ、真面目な顔で針を手に取った。
出来上がったランチョンマットは、縫い目ががたがただった。
木工職人としてのトラウマが、また刺激される。
まさか四つ足の家具以外にも、がたがたするものがあるとは。
しかもマリアがしっかりアイロンで折り目をつけてくれたのにも関わらず、なんだか四隅が歪んでいる。
うーん。
これはひどい。
絶望しかない。
もしかして、裁縫の才能がないのかもしれない。
そう思った紗良だったが、
「まあまあ、上手じゃないの!」
というマリアの言葉に、お世辞だと分かっていながらちょっと気持ちが上向く。
「どれどれ。ふむ。いいじゃないか」
マチューにも褒められ、えへ、となった。
えへへ。
なんたるぬるま湯だ、これは気分が良い。
紗良の両親はとても良い両親だが、このように手放しで褒めるということはなかった。
頑張りは褒めつつ、成果に対しては的確な評価を伝えてくるタイプ。
親として紗良を育てる義務があるのだから、当たり前だろう。
それに、どちら側の祖父母も、遠方に住んでいてそう頻繁には会えなかった。
だから、こうして甘やかされるのはとても新鮮だった。
「どれ、ご褒美におやつをあげよう」
えへへへへへへ。
ふーん、と萌絵は言い、しげしげと紗良のランチョンマットを眺めた。
暇が出来たから、と連絡がきて、数分後にはここにいたのだ。
彼女は今、ウッドデッキでヴィー用のクッションに寝転び、周囲を冷たい空気で覆う魔法をかけ続けている。
冷房だ。
すごい。
どうやるのか後で教えてもらおう。
「縫い目はひどいけど、この布可愛いじゃない」
「うん、マリアがため込んでた布だって」
「あー、おばあちゃんって、何かとため込むよね」
「あ、そうだ、私も布いっぱいあるんだよね」
紗良は、部屋に戻り、木箱を運んでくる。
水害復興のお手伝いのお礼にもらった、大量の布類が入っている。
「ああ、フロー子爵のとこの?」
「そう、佐々木さんには別にお礼したって言ってたけど、一応見る?」
「見る」
起き上がって箱の中を一通り見た萌絵は、
「何枚か色違いとか見たことないのとかあるけど、だいたい一緒っぽいねー」
「そうなんだ。欲しいのあったら持ってっていいよ」
紗良の言葉に、ひらひらと手を振る。
いらない、ということだろう。
そしてまた、ごろりとクッションに寝転ぶ。
「そのおばあちゃんに、裁縫教えてもらうの?」
「うん、お願いしようかと思って。
そうだ、フィルさんに教えてくれる人探してって頼んでたの、取り消さなきゃ」
「いいよねえ優しいおばあちゃん」
唇を尖らせる萌絵をみて、そういえば、と思い出す。
魔術やお仕事を教えてくれる前聖女が、とても厳しいと言っていた。
やはり聖女たるもの、修行が厳しいのだろうか。
「うん。お母さんて厳しいけど、おばあちゃんって優しいよね」
「責任あんまりないもんね」
「あー、将来にね」
「うちも、日本のおばあちゃんは優しかったな」
「お母さんは?」
うーん、と萌絵は唸った。
思い出すように目を閉じ、そしてそのまま話し始める。
「うちのお母さんの口癖はね、『あら、あんた太った?』なの」
紗良は思わず、萌絵を上から下まで見てしまった。
「太ってないのに?」
「まあね。本人も万年ダイエットしてる人でさ。
ことあるごとに、私の体型を批評するんだよね。
だから私はずーっと、痩せてなくちゃいけない、スタイル良くなくちゃいけないって常に心のどこかにあったんだよね」
萌絵は目を開け、ひょいと起き上がると、テーブルの上のポテチをつまんで食べた。
「それで、こっちきたら今度は、みーんな私に食べさせようとするんだよね。
やれ食え、もっと食え、って。
そんなに食べられないって言うと、不憫そうな顔するんだよね」
「……貧しくて食べられなかった子だと思われてる?」
「そう。そして食べるとすごく満足そうな顔する」
何かを思い出すように細める目は、多分、実母ではなく神殿の誰かを見ているのだろう。
そう感じた紗良の感覚を裏付けるように、萌絵はさらりと言った。
「私は何も変わらないのに、こちらに来ただけで、私の価値はとても高くなった。
ありがたいなんて思わないけど、多分……不幸ではないんだわ」
神殿の人々に、この言葉は届いているだろうか。
あるいは、女神様とやらに。
泣いて喚いて絶望した夜を乗り越え、彼女はそんなふうにこの異世界と折り合いをつけたのだ。
どうかそのことを忘れずに、いつまでも萌絵を尊重してくれたらいい。
ここで生きることを不幸ではないと、いつまでも思わせてくれたらいい。
もしもそう思えなくなった日が来たら──紗良はいつだって、一緒にこの世界を壊しにかかるだろう。
萌絵がパチンと指を鳴らした。
その途端、紗良の目の前のテーブルに、どさりと書類が落ちてきた。
5cmはあるだろう。
「さ、じゃ、署名してくれる?
宅配業についてのいろんな手続きは私がやるけど、津和野さんのサインが一切不要というわけにはいかないのよね。
まあ住所とか印鑑とかはないからさ、そのマーカー引いてるとこに、ちゃちゃっと名前書いちゃってよ。
こっちの文字で名前書けるようになっておいてって、言ってたよね?」
紗良はゆっくりと肯いた。
「モチロンダヨー」
のろのろと部屋に戻り、ボールペンを取ってくると、紗良は書類と向き合い始めた。
全部に署名するのに、40分かかった。
「じゃあ帰るねー」
夜も更けた頃、萌絵は、日焼け止めや化粧水なんかをごっそり抱え、書類の束はふわりと浮かせたまま、光るドアを抜けて帰って行った。
ちなみに夕飯は、萌絵がそうめんを茹でてくれた。
つながったネギと、大きさがばらばらの刻み海苔がついていて、美味しかった。
今度、萌絵の【裁縫】スキルのレベルを聞いてみよう、と思う。
なんだか大差ない気がするんだよね。