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ほうれん草の間引きをして、引き抜いた小さな葉を嗅いでみる。
これ、食べられるのだろうか。
マニュアルノートには何も書いていないが、食べられないことはないだろう。
一回目のそれは雑草のようだったけれど、二回目ともなるとそれなりに大きくなっていて、捨てるに忍びない。
「これが食育……」
綺麗に洗って、今朝のお味噌汁にいれることにした。
あとは出し巻き卵と茹でたブロッコリー、フィルがくれた少しすっぱいトマトにする。
自分しか食べないので、出し巻きには鰹節をそのまま混ぜ入れて焼く。
見た目は良くないけれど、ゴミも出ないし、香りが強く立って美味しいと思う。
川面に反射する太陽の光を見ながら、のんびり食べ終わったころ、スマホが音を鳴らした。
画面には地図アプリの通知があり、どうやらフィルが森に入って来たようだ。
今日はお供えの日ではないが、どうしたのだろう。
食器を洗い終わるころ、思った通りにフィルが顔を見せた。
「紗良様」
「おはようございます、フィルさん。どうしました?」
「大変に申し訳ありません。実は、紗良様にお会いしたいという者がおりまして」
話を聞けば、どうやらそれは、先日荷物を配送した領地の領主らしい。
「水害のほうは落ち着いたんでしょうか」
「そのようです。仮設ではありますが住宅も形になり、避難所は解散とのこと」
「良かったですねえ」
「そうですね。
しかしながら、突然訪問してきて、聖女の半身である紗良様に会いたいなど、無礼にもほどがあります。
断っても構わなかったのですが」
「せっかく来たんだから会うよ、なにか話があるんでしょう?」
フィルはかすかに笑った。
「ええ、紗良様ならきっとそうおっしゃるだろうと思い、待たせてあります。
宿を取らせたので、後日でもかまいません。一か月後でも」
「今日会いますよ、今日!」
しかし、あ、と思い出す。
「でもごめんなさいすぐは無理かな。
今日はピザを焼くつもりで、もう準備してたから」
「ああ……先日のパン窯、出来たのですね。素晴らしい、さすが紗良様です」
手放しで褒められて、ちょっと照れる。
この人は本当にいい人だ。
神に仕える生涯を選んだ人というのは、やはり人格者なのだろうか。
「そう、その窯の作り方を教えてくれたご夫婦にもお礼にうかがおうと思ってました。
せっかくだから、一緒に行ってもらえますか?」
「お供しましょう」
あとピザも手伝ってね。
紗良は、すでに火を入れていた窯の様子を確認しつつ、仕込んでおいたピザ生地を部屋から出して来た。
二次発酵が終わり、良い具合に膨らんでいる。
作業台に打ち粉を振って、小分けにしてあるひとつをのせ、手で広げていく。
ある程度のところで、今度は両手で持ち上げ、生地が自重で伸びるのを、持ち替えながら丸く整えていく。
日本で言うなら、Mサイズといったところ。
生地は四つ分あるので、せっかくだから全部使ってしまおう。
「フィルさん手伝ってください」
「……も、もちろんでございます」
少し怯んだ様子のフィルだ。
もしかして自炊しないタイプだろうか。
そもそも、一人暮らしなのか、寮のようなものがあるのか。
別に隠しているわけではないだろうが、私生活の読めない人だ。
用意した具材を、好きなようにのせてもらう。
今回はベーシックに、サラミやソーセージ、バジル、トマト、エビとアスパラくらいしかない。
初回だからね。
上手くいくようなら、今度は変わり種も試してみたいと思う。
最初に配送業で訪れた村のチーズを、たっぷりかける。
そして、作っておいたピザスコップを取り出す。
ステンレスでピザを乗せる部分、柄は熱くなりそうだったので木で作ってある。
果たしてこの素材であっているのか、自信はない。
木の柄が燃えないかな、というそこはかとない不安はある。
具をのせきって満足そうなフィルの手元の一枚から焼いてみよう。
ピザをスコップ部分にのせ、いざ、窯の中へ。
5~10分程度だとは思うけれど、まあ目は離せない。
奥の方が少し温度が高いのか、軽く焦げ目がついて来たので、スコップを差し入れくるっと前後を入れ替える。
「……今!」
ここぞというところで取り出すと、一気に酸素に触れたせいか、端の焼き色が強くなった。
とはいえ、焦げたわけではなく、許容範囲だろう。
ちなみに、ピザスコップも焦げなかった。
「美味しそう!」
「本当ですね、このように薄い生地でも、窯に入れて大丈夫なのですね」
「具が載っているからですかねー」
二枚目を窯に入れ、早速焼きあがったほうを味見してみることにする。
残念ながらピザカッターはなかったので、包丁で四等分だ。
「だめ、ビールにしよう。フィルさんは飲めますか? 仕事中?」
「そうですね、私は遠慮しましょう」
「じゃあジンジャーエールで」
冷蔵庫から急いで飲み物を持ってきて、プルタブを引く。
窯の熱ですっかり暑かったし、そもそもすでに陽が高く、汗をかいた体にビールが染み渡った。
フィルも、目を瞬かせながら飲んでいる。
「スパイスの利いた飲み物ですね」
「苦手じゃないですか?」
「美味しいです」
本当かな、と目を見る。
この人はきっと、苦手なものも苦手と言わないんじゃないだろうか。
「ピザもどうぞ」
「ご相伴に与ります」
「手づかみで食べたりするの、大丈夫ですか?」
貴族なのに、というニュアンスで聞くが、すでに彼はピザを手に取っていた。
そして、にっこり笑って一口。
ピザですらなにやら上品だ。
「これは、確かにビールが欲しくなりますね」
「そうでしょう? 残念ですね、仕事中で」
「ふふっ、全くですね」
「今度は、仕事の後にしましょう。好きな具を持ち寄るのもいいですね」
紗良も一口食べる。
サラミの濃い塩気と、それを超えるチーズの香り高さの奥に、かすかに薪の匂いがする。
小麦のしっかりした味が、ぱりっとした耳から感じられた。
出来立てだからか、生地が水っぽくなることもなく、我ながらいい出来だと思う。
保存の魔法をかけながら四枚とも焼いてしまってから、ちょっと困ったなと思う。
「どうやって運ぼう……」
デリバリーピザのような、あの平たい段ボール箱が欲しい。
あるわけない。
仕方ないので、部屋から丸い大皿を三枚出してきて、食べかけ以外をのせた。
食べかけにはふわっとラップをして、上から『ヴィーちゃん用ふきん』をかぶせておく。
帰ってきたら勝手に保存を解いて食べるだろう。
紗良は、魔法使いスタイルに着替えた。
そして、フィルが両手に二枚、紗良が左手に一枚、皿を持つ。
紗良の右手は、フィルの腕に触れている。
「じゃあいきまーす。転移」
農家の夫婦は、紗良の訪問を喜んでくれた。
ピザも喜んでくれて、ぜひ一緒にと誘ってくれたが、領主様が待っているので後ろ髪を引かれる思いで断った。
またおいで、と言われ、空いた手にリンゴを二つ入れた紙袋を持たされた。
お礼に来たのに、またものを貰ってしまった。
どことなく、祖父母に似ている。
姿かたちではなく、訪問客をもてなそうとするところが、祖母そっくりだ。
そして、そんな祖母をフォローするのが祖父の役目で、二人はいいコンビだった。
祖母が他界したのは、紗良が高校生の頃だった。
そして、祖父はその後、半年ほどであっという間に弱って、後を追うように亡くなってしまう。
お父さんは、「男は妻に先立たれると弱いもんだな」と泣いていたが、紗良にはよく分からない。
男だ女だというより、誰のために生きているのか、なんだろうと思った。
だって、多分、お父さんはお母さんが死んでも、すぐにはいなくならない。
紗良がいるから。
まだまだ手もお金もかかる紗良のために、お父さんもお母さんも、生きることを諦めたりしないに違いないと、その時思った。
ああでも。
両親の傍に、もう紗良はいない。
自分が誰かの生きる理由だった頃が、どれだけ幸せだったのかを、今になって知ったようなものだ。
「また来てもいいですか」
「もちろんよぉ、もうすぐプラムがなるからね、沢山とれるわよぉ!」
奥さんが指さす先には、確かに少し青い実がなっている。
「えっ、プラム! すごい好きです!」
「あらぁ良かったわぁ!」
「収穫も手伝いますね、ほら私、魔法使えるので!」
久しぶりに思い出した家族の顔が、みずみずしいプラムに置き換わり、テンションが上がる。
紗良は、ほくほくと夫婦の家を後にした。
再度転移をし、ようやく教会へ着いた。
中には相変わらず、あの修道女さんがいて、しかし今日はその横に二人の人物が増えていた。
「こんにちは」
彼ら、フロー家当主とその息子は、片膝を立てて跪いた。
「ごきげんうるわしゅう、魔法使い殿。
わざわざ御足労いただき、申し訳ない」
「いえいえ、そんなふうにされるほど大変なことではないので、立って下さいね」
二人はそろって立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべた。
こうしてみると、災害時にどれだけ心労があったのかと心が痛む思いだ。
「此度の水害に際し、想像できぬほどのご尽力をいただいたこと、感謝いたします」
「ご心痛でしたね、もう落ち着いたんですか?」
「はい、つつがなく。国からの補助で護岸工事もはいることになりましたし、川幅を広げる計画も立ちつつあります」
「わあ、決定まで早いですね、良かった」
「魔法使い殿が、聖女様に送ってくださったシャ……シャシンのおかげです」
言いなれないシャシンという言葉にやや詰まりつつ、息子のジルが微笑む。
確かに、あの写真は我ながらいい手だったと思う。
ヴィーをフードに入れて歩くときに会得した、浮遊魔法を使って、スマホで航空写真を撮ったのだ。
上空から川を含めた地形を見せられたら、それは工事の計画も立てやすいだろう。
ふふん。
「本日は、感謝のしるしに贈り物をお持ち致しました」
「報酬は国からちゃんともらってますよ」
「気が済まないと……父も領民たちもきかないので」
ジルが父親の代わりに答えると、当の領主は素知らぬ顔をした。
そして、傍らに積んであった木箱を紗良の前に移動させた。
蓋が開かれたので、中身をのぞいてみる。
「わあ、素敵な……素敵な、何ですか……」
「布です。我が領地は、綿花の栽培と機織りを特産としておりますゆえ」
「嬉しいです、ありがとうございます」
紗良は淑女のふりで微笑む。
頭の中で、【裁縫】スキルがいまだ5レベルであることを思い浮かべながら。