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アレイナの肩には、猫が乗っている。
雑種だ。
毛皮は、何とも言い難い複雑な色味をしている。
名前はルーリー、雌。
15歳だ。
ちなみに、アレイナも15歳だ。
つまり、この猫は、アレイナが生まれると同時に、自宅に住み着いた。
アレイナは、ルーリーの子猫時代を知らないことになる。
けれどなぜだろうか、いつの歳の彼女を思い出しても、やんちゃで暴れん坊の子猫でしかない。
成長していくアレイナの隣で、ルーリーはいつまでも赤ちゃんのようだった。
それがいつのまにか。
本当に、瞬きするような短い間に、成長は逆転した。
アレイナはそろそろ結婚も考えなければならないのに、まだまだ大人になりきれない。
そしてルーリーは、大人を一瞬で通り過ぎた。
もう、目はあまり見えていないようだ。
戸棚の一番上まで一気に上がれた跳躍力は、せいぜいがアレイナのベッドの高さまでになった。
もう紐にじゃれつかないし、ネズミも追いかけない。
アレイナの髪の毛を揺らして遊ぶことも、餌皿を出す音を聞いてすっ飛んでくることもない。
彼女はただ、のんびりと生きている。
歩くのがおっくうなのか、最近の居場所は、アレイナの肩の上だ。
そこに乗って、一日中鼻息を聞かせてくる。
アレイナの仕事は、店番だ。
父親と二人の兄が作る木工製品を、露店で売っている。
今日も、アレイナは店番をしていた。
ただ、いつもは隣に母がいるのに、今日は一人だ。
なにやら、隣国から大きな商隊が来て、市を立てるらしい。
といっても、アレイナのいる露店の通りを、いつもより延長するだけだ。
普段は広場になっている場所に、二股の通りを一本に集約する形で臨時の露店を建てるのだ。
当然、目新しいその隣国の露店に人は集まる。
地元の商人たちは、不満を訴えた。
国はそれを聞き届け、何軒かずつまとまって、出店のように広場に店を出せることになったのだ。
母は今日、厳選した品をもってそちらに行っている。
きっと、こんな奥まった店には、人は来ないだろう。
アレイナは気楽にそう思った。
案の定、店じまいの時間になっても、ほとんど客はなかった。
商品も売れなかった。
まあ、仕方がない。
けれど、さてそろそろ閉めようか、という時になって、一人の客が通りかかった。
フードマントを着た、魔法使いらしい少年だった。
アレイナは思わず、その人の肩を凝視してしまった。
黒猫が乗っていたのだ。
そして、彼の方もまた、アレイナをじっと見た。
変な柄の猫が乗っているからだろう。
彼は軽い足取りでやって来て、ルーリーを指さした。
「おそろいだね」
まだ変声期が来ていないのか、子どものような声だ。
「そうですね」
そんなふうに答えたものの、少し違うな、と思う。
少年の肩に乗っている猫は、前脚で立ち上がり、こちらを一生懸命に観察している。
好奇心旺盛な、若々しい仕草だった。
対して、ルーリーはぺったりとあごを肩にはりつけ、目も開けない有様だ。
「あ」
飼い猫の様子を見ようと顔を横に向けて、思わず顔をしかめる。
まただ。
このところ急に、ルーリーは寝ながらよだれを垂らすようになった。
口元がばかになっているのだろう。
さすがに、店番に立つのに、汚れてもいいボロは着られない。
そこそこちゃんとした服なのに、こう毎日汚されては困ってしまう。
洗うのは構わないが、その分、傷みも早くなる。
そう裕福ではない家だ、節約できる分はしたいのに。
「それ、ください」
「あっ、はい」
少年が指さしたのは、木製のフォークだった。
二本、と言うので、2万ギルです、と答える。
彼は、銀貨を20枚支払った。
「あ、袋はいらないです。
あの、ちょっとだけ猫ちゃんを撫でてもいいですか?」
彼は元々手に持っていた袋に、受け取ったフォークを入れる。
そして、アレイナが頷いたのを見て、ルーリーの額を指先で撫でた。
「あら、何か、光った……?」
「そう? 気のせいじゃないかな」
彼は軽い口調で言うと、紙袋から、濃い灰色の何かを取り出した。
「ありがとう、お礼にこれ、あげる」
「……はあ?」
渡されて反射的に受け取ってしまったが、何の真似だろう。
「防水加工がされているんだって、そのケープ。
しかも内側は水気をよく吸って、冬暖かく夏涼しいらしいよ、凄いよね」
「そんな高いもの……いりません」
「君にあげるんじゃないよ。猫ちゃんにだよ」
ルーリーにケープを?
ちょっとおかしな人かしら、と、警戒の気持ちが顔を出す。
「その子は、君の肩が大好きみたいだから。
君がそのケープをすれば、そこに乗っていられるでしょう?」
確かにそれはそうだ。
防水ケープがあれば、ルーリーがいくらよだれを垂らしても構わない。
「……いえ、やっぱりいりません。
防水ケープがなくったって、この子の居場所はここですから」
そう言ってケープを差し出したが、少年はにっこり笑って首を振った。
「じゃあ貸しておくよ。君が気にしないとしても、猫ちゃんのほうが気にしているかもしれないから」
なるほどそれは、アレイナにはない視点だ。
「本当だよ、動物っていうのは、案外いろいろ考えているものだよ」
だから貸しておくよ。
そう言い残して、少年は軽やかに去って行ってしまった。
アレイナは、追いかけることも出来ず、結局、そのケープが手元に残ってしまった。
「せっかくだから明日から使わせてもらおうか」
取られたとかなんだとか、後から言いがかりをつけてこられたら困るなとも思ったが、彼はどうもそういうことをしそうにない。
それに、ケープは確かに手触りがよく、きっとルーリーも喜ぶだろう。
だから、明日も明後日も、アレイナはルーリーを乗せて店番をする。
春になり、夏になっても、このケープは使えるらしい。
秋になり、冬になったら、また暖かく使えるだろう。
だから、これからずっと、アレイナはルーリーを乗せて店番をする。
そしていつか。
ルーリーが女神さまに呼ばれることがあれば。
その時は、水をよく吸うというケープの裏側が、アレイナの涙をいくらでも拭い去ってくれるのだろう。
耳元で、ぷすん、とルーリーが鼻から空気を漏らす。
「そうだね、帰ろうか」
ぷすぷすと鼻が鳴り、それは珍しく、彼女が空腹を訴える仕草だった。
病気じゃないから治らない。
どうしようもない。
父さんはそう言った。
アレイナだって、女神さまがルーリーを呼ぶ準備をしているのは、分かっている。
それでも、何かを食べたがるなら、もしかして、ほんの少しだけ、一緒にいられる時間が伸びたのではないかと。
「お魚食べようね」
アレイナの記憶の一番最初から、ずっと聞いてきた鼻息は、まるで子守歌だ。
いつだって安心するし、いつだって嬉しい。
広場から戻って来た母と一緒に商品をまとめ、迎えに来た兄に背負わせて、家へと帰る。
ルーリーはご機嫌に喉を鳴らし、アレイナはご機嫌に歩く。
冷えた月が出ている。
けれど、肩が暖かいから、アレイナは平気だ。
この重みを、この温かさを、ずっと、覚えていよう。
いつか、ルーリーという猫を思い出すために。
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自前の朝食をとりに行ったらしいヴィーが見当たらなかったので、紗良はレーズン酵母で作ったパンをもそもそと食べた。
堅い。
だがそれがいい。
チーズを載せて、魔法で少しあぶって食べると、またその食感が変わる。
まあ、堅いことは堅い。
だがそれがいい。
さて今日はまた山に入ろう、と考えた。
どう考えても、春だ。
まだアウターは必要だが、コートではなく、薄手のもので十分なのだ。
これは春だろう。
本当は、耐火シートを縫わなければならない。
先日買ってきた、防火加工がされた布は、あくまで素材なのだ。
せめて布端を縫わなければ、糸がびろびろはみ出したままでみっともない。
「みっともないけど使えてしまっているよね」
火事が怖くて、とりあえずではあるが、すでにファイヤーピットの下には布が広げてある。
ごくわずか斜めに裁断されているのも気になるが、使えないことはない。
紗良としては、できるだけ先延ばしにしたいのだ。
だって、裁縫はあまり得意ではない。
紗良はびろびろの布から目をそらした。
その時、久しぶりに頭上から音が聞こえた。
羽音だ。
ばっさぁ、という、大きな翼が風をはらむ音と共に、もはやおなじみの姿が降り立った。
ペリカンだ。
赤いスカーフをなびかせ、ウッドデッキに降り立つ。
ペリカンは、近づく紗良に、ぱかっと口を開けて見せる。
覗き込むと、今回はなんだか小さい袋が何個か入っていた。
表面には何か書いてある。
一部が、種、と読めた。
「種だって」
春が来た。




