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卵を割って、黄身と卵白を分け、それぞれに砂糖を加えながら、別々に泡立てる。

黄身の方に、ふるっておいた小麦粉をさらにふるい入れて、ゴムベラで切るように混ぜたら、卵白と合わせる。

クッキングシートを敷いた天板に流し入れたら、空気を抜いて、予熱しておいたオーブンにインだ。


使ったボウルについていた卵黄をちょっと舐めてから、洗う。

砂糖を擦りまぜた卵ってなんでこんなに美味しいんだろう。

洗い終わったボウルふたつ、片方に氷水、片方に生クリームを入れて、泡立てていく。

もちろん、昨日もらってきた牛乳の上澄みだ。

もったりとして濃いそれは、別れ際に萌絵が浄化してくれた。


確かにちょっと心配だったよね。


衛生観念が同じかどうか分からないし、保存方法も分からない。

とはいえ、ミルク缶があったらしい奥の部屋から、ひんやりとした空気を感じた、とフィルが言っていたので、何らかの冷蔵施設はあるのだろう。


一般の平民は、魔法をほとんど生活に用いない。

それでも、村ぐるみの事業であれば、予算をとって魔道具を購入するくらいはするらしい。


砂糖とバニラエッセンス、溶かしておいたゼラチンを少しだけ入れ、さらにしっかりと泡立てると、ちょうど生地が焼きあがった。

ラップをかぶせてから、魔法で冷やす。

粗熱がとれたのを確認して、生クリームをたっぷり塗って巻いた。


「うおおおおお……」


ロールケーキだ。

思わずごくりと唾を呑み込んでしまったくらい、久しぶりの生菓子だった。

表面に粉砂糖を振ってから、端っこを切ってかぶりつく。


「ああああうまあああい、あまあああい!」


あんこもいい。

だが生クリームには和菓子には補えない良さがある。


クリーム多めの端っこを平らげてから、こんどは綺麗な部分を大きく、そう、15㎝ばかり切り分ける。

残りを冷蔵庫に入れて、さて、と気合を入れる。


ロールケーキを手に外に出ると、相変わらずそっぽを向いたままのヴィーがいた。






昨日は結局、ヴィーの機嫌は直らなかった。

いつもはゆっくり揺れているしっぽが、びたんびたんと床を叩きっぱなしだった。

唸りも鳴きもしないが、紗良と目を合わせようとしない。


猫飼いの友人が、長くでかけた日は飼い猫が引きこもって出てこない、と言っていたが、動物も怒ったりするんだな。


紗良自身は、怒っている時はしつこく謝ったりせず放っておいて欲しいタイプだ。

ヴィーはどっちだろうか。

しっぽの動きの激しさを見ると、冷静になるにはまだ時間がかかりそうだ。

そう思い、昨日は、


「ごめんね、忘れてたよ、次は一緒に行こうね」


と、頭をちょっと撫でてから寝たのだった。





「ヴィーちゃん、新しい美味しいものだよ」


何気ない風に声をかけると、ヴィーはひょいと顔をあげた。

耳がぴくぴくと動いている。


ロールケーキを、皿代わりに載せていたクッキングシートから、ヴィー用のフードボウルに移し、目の前に置いてやる。

ヴィーはすぐに立ち上がると、そこに顔を突っ込んで食べ始めた。


なぜか猫のままなので、いつものようにぱくりと一口で、という感じではなく、一生懸命もぐもぐしている。

本人もそれに気づいたのか、一度動きを止め、それからまた、一心に食べ始めた。

しっぽはぴんと立っている。

紗良はその様子を、お茶をいれてのんびりと眺めた。





食べ終わると、ヴィーは口の周りをしきりにこすっては、もっちゃもっちゃと後味を楽しんだ。

機嫌はすっかり直ったようだった。


人間もこのくらいだったらいいのに、となんとなく思う。

嫌だな、辛いな、不愉快だな、の気持ちが、ロールケーキひとつで消えてしまうくらい。


そんなことを思いながら、フードボウルを洗おうと立ち上がった。

すると、さっきまで寛いでいたヴィーが、すごい勢いで立ち上がり、紗良の足元にぴたりとついた。

驚いて、そして気づく。


「置いていかれると思ったの?」


じっと見上げてくるのが小さな黒猫の姿なのは、いつでも着いてこられるように、置いていかれないように、という気持ちの表れ。


ふと、小さなころのことを思い出した。



いつだったか、あれは、おそらく幼稚園か小学校も低学年あたりの頃だ。

昼寝をして、夕方目を覚ますと、家の中に誰もいなかった。

その日は休日で、寝るときまでは確かに家族全員が揃っていたのに、起きた時にはしんと静まり返っていた。

あの時の、胸がぎゅっとするような不安感を、どうやら今でも覚えている。


号泣しながら家の中を手当たり次第に歩き回っている中、家族が帰って来た時、今度はあまりの安堵にまた泣いた。

近所にたこ焼きを買いにいくことになり、ぐっすり寝ている紗良を起こすのが忍びなくて、置いていったらしい。

寝ている間に帰ってくる予定だったそうだが、ほんの10分ほどの隙間に起きてしまったというわけだ。




紗良はそのまま正座をして、ヴィーに向き合った。


「出かけるときは必ず誘います。私と君とのお約束です」


そう言って立ち上がり、


「よし、出かけよう!」


と叫んだ。

紗良はフードボウルを後回しにして、部屋に戻って魔法使いセットに着替えた。

それから思い出して、残りのロールケーキを冷蔵庫から出し、密閉容器に入れてきっちり蓋をした。


『ロールケーキ持っていくね! 入り口の人に預けておくから!』


萌絵にメッセージを打つ。

返信が来ないので、お祈りとか説法とか、なんかお仕事の最中だろう。

急な思い付きだったので仕方がない。


外に出ると、ヴィーが一目散にやって来て、肩に飛び乗り、そのままフードの中におさまった。


「ぐえっ」


さすがに体重で引っ張られて首が絞まったので、いったん運搬(アンゲスト)をかけてみた。

ただ、運搬魔法はわりと意識を向けていなければいけないタイプなので、ずっとかけつづけるには向いていない。


紗良は再び首を絞められながら、マントの内側を探った。

そこには、大きめの深くてマチのないポケットがついている。

なんと、異世界マニュアルノート専用入れだ。

萌絵が作ってくれていた。




*********************************


<人と魔物>


人と魔物は、以前も言った通り、元の世界における野生の肉食獣との関係に似ています。

基本的には相いれない存在で、魔物は人を襲い、人は魔物を討伐します。

ゆえに、あなたとアテルグランスの関係は、一般的に受け入れられないと考えておくべきでしょう。


変態の魔法を使用した魔物は、おおよそ人の感知できる魔力の気配を抑え込んでいます。

ただし、ゼロではありません。

あなたと同じレベル以上の【賢者】は、微量の気配でも読み取ることが出来ることを覚えておきましょう。



*物体を浮遊させる   浮遊(ティリースティク)

*見えない紐でつなぐ  いつでも一緒(シーモル)



**********************************




何か問題が起こったら、萌絵に迷惑がかかるかもしれない。

少し迷ったが、もし騒ぎになってしまったら、転移で逃げよう、と決めた。

背中でフードにはまりこみ、紗良の肩に顎を乗せているヴィーの鼻息が荒いというのに、今更やめられない。

それに、マニュアルノートも止めてはいないようだし。


紗良は、ヴィーにいつでも一緒(シーモル)の魔法をかけた後、さらに浮遊(ティリースティク)をかけた。

喉が一気に楽になったし、今までよりもより色濃く、ヴィーの気配を感じ取ることが出来るようになった。


「よし、行こう!」


そう言った途端、ノートがまたもぞもぞとし始めた。

水を差す奴だ、と思いながら開く。




**********************************


<金銭感覚>


王都と言えども、バッグの中に入っている金貨は貴族向けの店でしか使えませんよ!

そして、ドレスか紳士服でなければ貴族向けの店には入れません!

庶民向けの店では、銅貨か、せいぜいが銀貨までです!


**********************************




「ええー?」


紗良のウエストポーチの中には、金貨十枚を入れた革袋が入っている。

これだって、十万ギル分、日本円で一万円換算だ。

以前聞いた物価からみれば、金貨は向こうの千円札なのだから、全然使うだろうと思っていた。





***********************************


<給料制について>


この世界にも、契約と雇用のシステムは存在します。

ただし、元の世界で一般的な、週払い、月払い、年俸という形は非常に少なく、日払いがほとんどです。

人々はその日の金を得て、その日の暮らしを賄います。

また、保存方法が確立されていないこともあり、数日分の買い物をする、ストックする、という感覚はありません。

毎日を銅貨や銀貨で生きるのが、平民の暮らしです。


もちろん、一日の給金は一万ギル、すなわち千円を超える者も多くいますが、釣銭を計算するという作業を忌避する者もまた多い、という現状もあります。

算術の出来る人間は半分ほど、それも簡単なものに限られるため、相互に理解がない場合、問題に発展することが多く、ゆえに、釣銭を避けようとしたのです。


***********************************



なるほどねえ。

納得はした。

けれど、だとすると、ちょっと困った。


昨日、牧草運びをして稼いだ金額は、170万ギル。

高い。

しかし、フィルの話では、あの量をいっぺんに運べる魔力量を持つ者は少なく、本来であれば十日以上をかけて、十人ほどの隊列で運搬するものであるとのこと。

そう考えれば、動物の病気にたいする処置が早く出来るという点においても、昨日の働きは価値があるとのことだった。


そこから、いずれ支払う税金を引いて、残りを萌絵と折半したら、82万ギル。

それが紗良の稼ぎだ。

当然全て、金貨だ。


「ええー……」


スマホをチェックしたが、萌絵からの返信はなく、既読にもなっていない。

まだお仕事中だ。

背中のヴィーの鼻息は、少しずつ小さくなっていく。

いつでも一緒の魔法のせいか、ちょっとしょんぼりしているような気配を感じなくもない。

紗良は焦った。


あと知っている人間は、フィルか教皇様かの二択。

神殿の職員たちが協力してくれるとは、さすがの紗良も思わない。

嫌われているみたいだったからね。


「よし、フィルさんに相談してみよう。

 ヴィーちゃん、先に街に行くよ。それから王都に行って、美味しいものを食べよう」


耳元で、ヴィーの鼻息が勢いを取り戻した。







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― 新着の感想 ―
[良い点] 猫ちゃん!可愛いよ猫ちゃん! もしかしたらおでかけしないかも…ってちょっとしょんぼりしかけるところも可愛いですね(*´ω`*) そして美味しいものと聞いて興奮するところもラブリーキュートで…
[良い点] ヴィーカワ(・∀・)イイ!!
2024/08/04 09:04 退会済み
管理
[良い点] 今回はヴィーの可愛いさ5倍増し。 [一言] いつも楽しみにしております! 紗良とヴィーがお互いに 「この子ポンコツだから私が面倒みてあげなくちゃ」 と思ってる感がありニヤニヤしてしまう。…
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