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周辺を木立に囲まれた、緑の濃い場所だった。
そして、そこに、人の手が加えられたらしい泉が湧いていた。
ぐるりと石で囲ってあるのだ。
それでも、水量は豊富で、水底が揺らめいて見えるほど吹き出しているのが分かる。
底の方の一部は石が切れていて、どこかで水が循環しているのだろう。
さて、何の話も聞かないまま連れて来られてしまった。
どこからどこに何を運ぶのだろう。
無意識に、現在地を確認しようとスマホを探した。
しかし、ポケットに突っ込んだ手には何も触れない。
「あーっ!」
「どうなさいました?」
「さっきの部屋にスマホ置いてきちゃった! 大変、ごめんなさい、ここにいて下さい、取ってきます!」
別にスマホ依存というわけではないが、見知らぬ土地で地図がないのは異様に不安だった。
紗良は、イヤーカフを外して杖を顕現させると、フィルの返事も聞かずに呪文を唱えた。
「転移」
光に包まれるのとほぼ同時に、さっきの部屋に戻って来た。
2,3分しか経っていないせいで、萌絵と教皇はまだそこにいた。
さらにメイドと、外に立っていたはずの神官二人も入室していた。
萌絵を部屋まで送るためだろう。
萌絵以外は全員、驚いている。
「ご、ごめんなさい、スマホ忘れちゃって」
「気をつけなさいよねー」
「うん、ごめーん」
紗良はテーブルからスマホを取り上げ、ポケットに押し込む。
「じゃあ行ってくるね」
「フィル・バイツェルが全部分かってるから、まずは彼から色々聞いてちょうだい」
「分かったー」
杖を両手で握り、転移を再度唱える。
その瞬間、メイドと、そして神官が、驚愕の表情をして何か叫んだ。
けれど、すでにフィルの元に到着していた紗良には、その言葉は聞き取れなかった。
泉のほとりに戻ると、フィルが直立して待っていた。
「すみません、お待たせしました」
「大丈夫ですよ。忘れ物はありましたか?」
「はい。メイドさんや神官さんを驚かせちゃって。
入り口以外に転移するのはいけないって言われていたの、今思い出しました……」
フィルは慰めるようにうなずいてみせた。
「教皇様もいらしたことですし、今回はおそらく問題ありませんよ。
ところで紗良様は、転移をお使いなのですね」
「はい、他に知らないので」
少し考えるような間があった。
「差し支えなければ、今のでいかほどの魔力をお使いか、教えていただくことはできますか?」
「魔力ですか?」
紗良はスマホを出して確認した。
10%ほど減っている。
「二回分で、十分の一くらい使いました」
「なるほど、だから女神の飛翔を飛ばして、上位の転移なのですね」
「ああ、フィルさんの転移はそちらでしたね。何か違いが?」
「そうですね……魔力量に換算して、おおよそ三倍ほど消費量が違います。
その分、転移は座標のずれが少なく、時間も短く、なにより場所を選びません」
首を傾げてしまう。
「行ったことないところには飛べませんよ?」
「ああ、それはそうです。そういうことではなく。
例えば、私の女神の飛翔では神殿内へは飛べません。転移を阻む結界が張ってあるからです。
しかし、転移はそうした術者による結界を無効化いたします」
「へえ、そうなんですね!
でも、みんなが転移を使えば、入り放題では?」
フィルは、優しい顔で肯いた。
思わず、反応してへらへらしてしまう。
「魔力消費量はおおよそ三倍。
そして、私は、国内でも魔力の多いほうでありながら、女神の飛翔を二回使うのがせいぜいです」
「うーん、つまり……魔力が足りないんですね!」
「はい、その通りです」
なぜかとても嬉しそうにフィルは何度も肯いた。
「きっと、部屋にいたメイドも神官も、紗良様があの部屋に転移してすぐさま再び転移で消えたことに、心から驚き、恐れたことでしょう」
「確かに、めちゃくちゃ驚いてました」
「ふふふ、今頃、己の不見識を恥じ、そして震えていますね。今夜は眠れないかもしれませんね」
「おおげさですよ」
笑う紗良はふと、フィルが少し怒っているようであること、そして、神殿のあの部屋でも同じように少し固い表情だったことに気づいた。
それでようやく、自分があのメイドや神官に疎まれていたのではないかと思い当たった。
紅茶が熱く渋かったのも、嫌がらせかもしれない。
でもなぜ?
初めて顔を合わせたのに?
それに、彼らは、聖女である萌絵にはとても深い敬意と敬愛を抱いているようだった。
そうか、と一人ごちる。
それが原因か。
偉大な聖女に対し、平民の紗良が気安く接している、あるいは明らかに大事にされて近い位置に置かれているから。
そんな馬鹿げたこと、とも思うけれど、多分大きく間違ってはいないだろう。
日本にいた頃──本気ではないぼんやりした悪意を感じていたが、原因が分からなかった頃と同じだ。
恵まれた生活であることが、もやもやした嫉妬の対象になることに、本気で気づいていなかった。
随分と不遜で、贅沢な人生だったと、今なら思う。
それはきっと、今でも同じなのだ。
女神に囲われ、膨大な魔力を与えられている。
マニュアルノートに助けられ、食べ物を分け合う相棒もいる。
幸運で、恵まれている。
けれど。
ただ。
彼らは分かっていない。
それらは全て、紗良の、続くはずだった人生と引き換えなのだ。
フィルは紗良の様子に何かを感じたのか、小さく首を振り、それから切り替えるようにさてと言った。
「申し訳ありませんが、お手をこの泉の水に浸し、ほんの少しだけ魔力を流してください。
ここの転移石は泉の底にあります。
管轄の神殿には許可をとっておりますので、解放してしまいましょう」
「魔力を流す?」
何か物理的に物事を成すこと以外に、魔力を使ったことがない。
戸惑っていると、フィルもうーんと考え込んだ。
「そうですね……純粋に魔力を流さずとも、触れれば良いので……。
紗良様は水を生み出すことができましたね?」
「はい」
「では、手を差し入れ、この泉に紗良様の水を混ぜてしまいましょう」
それでいいのか。
うんうんと肯き、紗良は泉の中に手をじゃぼんと入れると、流水で水を出した。
そのとたん、水面がぱあっと光る。
春子の石を解放した時と同じ色だ。
「いいですね。これで、ここへは飛来で来られます。
まあ……紗良様の場合、もし必要があれば、転移の方が便利でしょうが……」
フィルは懐からハンカチを出し、紗良の手を水から引き揚げて丁寧に拭いてくれた。
「ありがとうございます」
「冷たい思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
そう言って、彼は、優しい手つきで紗良のフードをかぶせた。
目のあたりを調整し、ちゃんと周りが見えるようにしてくれる。
「さてそれでは、今から行くのは、荷物を運ぶほうの場所です。
聖女様のお言葉で言えば、『配送先』とのことです」
「はいはい、理解です」
「まずは、『配送先』を紗良様が訪れ、転移できるようにする」
「うんうん、行ったことないところには行けないから、行ったことあるところにする、っていう」
「はい、その通りです。
次に、王都へ戻ります。そして、『配送元』へ向かいましょう」
要は、紗良の計画通りということだ。
フィルは、説明しながらも、先導するように小道を歩き始める。
スマホの地図を確認すると、自分を示す青い点の隣に、フィルを示す赤い点があった。
向かう先は、広い草原と、所々に固まって建つ民家で、おそらく酪農地帯だろうと思われた。
紗良の予想通り、やがて視界が広くなると同時に、木の柵と、その向こうに広大な牧草地が見えた。
故郷の東部を思い出す光景だ。
遠くには、白黒の動物が小さく見える。
「何を運ぶの?」
「はい、乳牛用の飼料と、薬です。
この一帯では、今年に入って、他国から乳量が増えるという餌を取り入れたのですが、ここの牛種には合わなかったようでして。
胃の中で発酵が起こり、病気になってしまったのです」
てくてくと道を行く。
馬車のわだちを辿り、着いたのは、ひときわ大きな民家だった。
「お待ちしておりました、神官殿!」
飛び出すように現れたのは、小太りのおじさん。
柔和そうな目が、肉に埋もれてしまっているが、その小さな目が輝いている。
「薬は! 薬はどこです!
ああああ早くしないと、うちのカトリーヌが!」
「……失敬、病気なのは牛と聞いたのだが」
「カトリーヌは牛ですが!」
名前つけるタイプだった。
きょろきょろと辺りを観察すると、牛舎らしきものがある。
サイズ的にも、大規模ではなさそうだ。
それはそうか、と思う。
おそらく手作業だろう。
たくさんの牛の面倒は見られない。
「薬と飼料は今から持ってくる」
「そんな……ではなにしに空手でいらしたのですか!
今からまた王都へ往復となると、十日はかかる!
そんなにはもたないのですよ!」
「落ち着かれよ、村長。今から、とは、今からだ。
半時後には到着する。ここへ一括して届けよう。だから、各家から運ぶ人手を呼んでおけ」
「おお……おっつけ本隊が来る、ということですかな。分かりました。
おい、お前たち、牛飼いの家全部に走って伝えてこい」
村長らしいおじさんに言われ、小さな子供たちが数人、戸口から飛び出してきて一目散に散って行った。
「それでは紗良様、参りましょう」
はい、と肯きながら、紗良はなんだかひっかかるものを感じた。
牛の名前を呼ぶ村長の言葉を聞いてからだ。
うーん。
何か忘れている気がするんだけど。