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時計が9時を指している。
そろそろ外も、朝の寒さが薄れた頃だろう。
ベッドから出て、まず最初に確認したのは、パネルヒーターの傍に置いてある保存瓶だ。
きっちり蓋をはめず、少し開いている隙間から匂いを嗅ぐ。
「ワインだ……」
強いアルコールの匂いは、爽やかな葡萄の風味をしっかり残している。
もちろん、ワインを醸造しているわけではない。
これは、先日、捕獲網の代わりにフィルからもらった干し葡萄で作っている、天然酵母だ。
パンだ。
パンを食べたいのだ。
以前作っていたリンゴ酵母は、リンゴのストックがなくなり作れなくなった。
しかし、どちらかといえば、干し葡萄のほうが酵母種には向いている。
その証拠に、細かい調整も特にしないまま、水だけ入れて放置していたものが、しっかり発酵している。
軽くゆすると、ぷちぷちと発泡した。
あと一日ほど置けば、エキスを絞れるだろう。
紗良は上機嫌になり、身支度を整えてから外に出た。
手には、昨日鍋で炊いて、炊飯器で保温しておいたご飯と、味噌と鰹節。
朝の寒さを避け、少し遅い時間から活動し始めていた紗良だが、今朝はドアを開けてすぐに空気の違いを感じた。
暖かいとはさすがに言えないが、明らかにぬるんだ外気が肌に触れる。
冬だからと何かとても困った覚えはないが、春というだけで何か心浮き立つものがある。
「薪が減ってきたかなー」
積んである大小の薪を見ながら呟く。
何日かおきに補充しているが、そろそろまた取りに行かなければ。
丁度今日は暖かいし、森に入ることにしよう。
そう思いながら、かまどに火を入れた。
コンテナからネギを持ってきて、刻む。
鰹節と味噌と、少しの味醂でのばしながら一緒に練って、握ったおにぎりに塗っていく。
塗り終わったものから、かまどの網に並べた。
二個、三個と作るうちに、最初の一個からいい匂いがしてくる。
あぶられて柔らかく溶け、そこから少し焦げたところでひっくり返した。
四つ焼いて、ペットボトルのお茶と一緒に二個食べる。
焼けたネギの香りと焦げた味噌のしょっぱさ、噛み応えのある表面と中身のふんわり食感、全てがパーフェクトだ。
残りの二個は、布巾をかけてテーブルに置いておく。
先日、同じようにしておいたサツマイモの蒸しパンは、ヴィーに30㎝の距離で監視されながら残ったままだった。
しかも、それヴィーのだよどうぞ、と声をかけると、一個目を紙カップごと食べてしまったのだ。
大騒ぎしたものの、結局、口の中はすでに空っぽで、二三日は気が気じゃなかった。
結局、布巾の端っこに、油性マジックでヴィーの似顔絵を描いた。
この布巾をかけてあるものは、食べてヨシ、と言ってある。
普通は刺繍かなんかだろうけれど、紗良にはそんなスキルはないので。
ということで、今日もその似顔絵布巾をかけてから、紗良は森へ出かけることにした。
ザックにビニール袋をしっかり入れて、ペットボトルの飲み残しも入れて、さてどちらへ進もうかと考える。
正面へ向かえば、街に近づく。
左手は川に沿って上ることになり、右手はおそらく山へと分け入る方向だ。
いつもなんとなく、御神木へ向かってしまうので、今日は山に入ってみようと思う。
御神木の周囲は、実りが多い。
女神様とかいう存在のせいだろう。
とはいえ、あらゆる植物が群生する、というほどのことでもないので、新しい食材は期待できない。
もちろん、季節が変わればきっと得られるものも変わるだろうが、今はまだ早い気がする。
紗良は、ちょぼちょぼと緑が増えてきた気がする地面を、ゆっくり歩き出した。
さすがに、足元は悪い。
笹藪のような、分け入らなければ歩けない場所を避け、細い木の間を抜けていく。
開けた場所は少なく、葉を落とした木が視界を遮っている。
見通しがあまりよくないので、ほとんど足元だけを見ながら進んでいった。
と、前方に、緑と茶色以外の色が見えた。
鮮やかな赤は、明らかに果実だろう。
期待しながら近づくと、期待以上の光景が広がっていた。
「いちご!」
かなり小ぶりだが、どう見てもいちごだ。
紗良はこんもりしたその一角に駆け寄り、ひとつ、摘み取った。
流水でちゃちゃっと洗い流してぽいと口に入れる。
「……すっ……ぱ!」
紗良が今まで食べたことのあるものとは、酸味の攻撃力がけた違いだ。
甘みと、いちご独特の香りもあるが、ガツンとくるのは酸っぱさだった。
まだ早い?
これから甘くなる?
それともこれが熟した状態?
目を白黒させながら考えていると、お腹のあたりが猛烈にもぞもぞした。
もはや慣れたその感覚は、もちろんマニュアルノートだ。
取り出して開いてみる。
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いきなり食べてはいけません!!!
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今までの三倍くらいの大きさの字で、そう書いてあった。
紗良はそっと、目の前のいちごを見た。
いちごにしか見えない。
だからと言って、いちごだと知っているわけではない。
なぜならここは異世界だからだ。
「これ、食べちゃダメだった……?」
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食べられます。
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食べられるんじゃん!
紗良は、いつのまにか詰めていた息をほっと吐いた。
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<山の植物>
商品として流通している野菜や果物とは違い、山には様々な植物が生息しています。
植物は特に、子孫を残すことへの進化に特化しており、身を護るための手段を多く持っています。
麻痺、毒、神経に作用する、意識を奪うなど、人体に影響のあるものは種類も豊富です。
これらは意思をもって攻撃するものではないため、安全地帯にもひっかかりません。
それとは別に、植物に擬態し、突然襲ってくる生物もいます。
なんにせよ、その安全性を確認する前に口に入れるなど、言語道断!
二度としないように!
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ものすごくごもっともすぎて、反論も出来ない。
「ご、ごめんなさい」
謝ると、ページがぱふっと閉じて、まるでため息をつかれた気分になった。
反省しつつ、手はいちごを集め始めている。
確かに酸っぱいけれど、加工すればきっと美味しい。
ジャムにするのもいいし、冬にいちごのシャーベットもおつなものだ。
これから甘くなる可能性に期待をもって、大半は残すことにする。
それでも、両手いっぱいにはなった。
ビニール袋に入れて、ザックに仕舞う。
いちごは冬の果物なので、これから甘くなるというのは過大な期待だが、河原から距離はないので、また来ればいい。
少し進むと、いちじくの木があった。
すでに実は少なく、残ったものも、一部が開いてしまっている。
持って帰るのは難しいだろうけれど、あれは完熟のサインなので、この場で採って食べてみた。
「甘い。うまい。いちごが酸っぱかった分、甘いったらない」
舌がきゅっとなるようないちごの酸味が、上書きされるほど美味しかった。
これで、あとはもうしばらく食べられない。
次の秋のお楽しみだ。
ジャムはまだ残っているので、そのうちあれでクッキーを作ろうと思っている。
「次の秋かぁ」
なんとなく、口元がほころぶ。
少なくとも、秋と冬の収穫物について、紗良はすでに生えている場所を知っている。
長い、長い間、ここにある森だから、きっとその場所はそんなに変化しないだろう。
この場所に馴染んでいる感じがして、なんだかとてもいいなと思う。
同時に、これから初めての春がきて、初めての夏もくる。
どんなふうになるだろう。
きっと今、同じように見えている森の中で、山菜が生えようとしていて、新たな果物がなろうとして、じわじわと準備がなされている。
「美味しいもの、あるかな」
あれも食べたい、これも食べたい、と考えていたので、薪を集めることを忘れてしまったのは、仕方がないことだと思う。