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チン、と軽快な音が鳴って、我に返る。
紗良は、ベッドに寝転んで考え事をしていた姿勢から、ひょいと起き上がった。
レンジの中から取り出したガラスボウルの中を覗き込むと、角切りにされたサツマイモのいい匂いがラップ越しにも漂った。
ミトンを嵌めた手でそれを持ったまま、紗良は外に出た。
冷たい風が吹きつけて、思わず肩をすくめる。
慌てて保温をかけるものの、耳の冷たさは残ったままだ。
さぶさぶ、と言いながら、キッチンに急ぐ。
かまどにかけておいた蒸し鍋は、すでに沸騰寸前だ。
昨日の夜に準備しておいたボウルを覗き込む。
中には、サラダオイルと砂糖、牛乳、それにふるっておいた小麦粉と自家製酵母を混ぜたものが寝かせてあった。
しっかり発酵しているようで、ぷくぷくと泡が立っている。
そこに、部屋から持ち出したサツマイモを混ぜこんだ。
「なんで魚はとれないのかなぁ」
手は調理をしながらも、ずっと考えているのは魚のこと。
今朝も、川に沈めた捕獲籠は空っぽだった。
今日にいたっては、あのライチみたいな魔魚さえかかっていない。
やっぱり季節だろうか。
もう春まで諦めるべきかもしれない。
お弁当用の紙カップに生地を流しいれ、湯気の立つ蒸し器に並べて、布で巻いた蓋をする。
この本格的な蒸し器も、姉にもらったものだ。
一度使って満足したきり、彼女自身はレンジで使えるグッズを多用している。
紗良もそっちがよかったけれど、今となっては、レベルが上がる分こっちで良かったかなとも思う。
待っている間に、紗良は運送業について少し考えることにした。
一応、出納帳くらいつけるべきかな。
帳簿のつけ方なんて分からないし、せいぜいお小遣い帳くらいの記録になるにしても、ないよりはマシだろう。
そもそも、経費はほとんどかからない。
車もガソリンも高速代も不要だ。
ただ、もし場所を借りるならその家賃が要るし、どこかに書類を提出するなら事務用品だって継続して買うことになるだろう。
いや……リセットするからそれもいらないか?
などとノートにメモしていると、チャリチャリと小さな音がした。
顔をあげると、河原の方から灰色の大きな魔物がやって来るところだった。
「とういちろうさん、いらっしゃい」
音は、耳のドッグタグが立てる音らしい。
そして彼の姿は、妙に小汚い。
どこかで泥遊びをしてきたようだ。
紗良は浄化をかけつつ、ウッドデッキに迎え入れた。
「どこで遊んできたの?」
お座りをしてしっぽをぱたぱたと振る姿は、本当にただのでっかい犬のようだが、発する気配はやはり魔物だ。
顔の位置は立っている紗良より上だし、ぺろりと出た舌の向こうには、鋭い牙が何本も生えている。
紗良など、甘噛みでも真っ二つになりそうだ。
「あ、蒸しパン食べる?」
ちょうど頃合いだ。
ミトンで蒸し器の蓋をとり、むわっと湧き上がる湯気が晴れるのを待つ。
相変わらず竹串はないので、菜箸をぷすりと刺す。
引き上げた先には何もついていないので、どうやら良さそうだ。
火からおろし、あつあつの内に取り出して、気休め程度にふうふう冷ます。
寄って来たとういちろうさんの鼻先に突き出すと、ふがふがとすごい勢いで嗅いだので、慌てて紙カップをむいてあげた。
「熱いよ? 熱いからね?」
手のひらに載せたそれを、ぱくりと一口で食べた彼は、美味しそうにもぐもぐとやっている。
ヴィーより熱に強いかもしれない。
それとも、ヴィーが弱いのか?
猫舌なのかもしれない。
残りの5個を皿に載せて、ウッドデッキに上がる。
紗良が一つ、それから、とういちろうさんにもう一つ、分け合って食べた。
砂糖を少なめにしているので、肉まんの生地のような淡白さがあるが、その分、ころころしたサツマイモがとても甘い。
元はそうでもなかったはずだが、寝かせた上に熱をゆっくり加えたせいだろうか。
「美味しいね」
わふっ、と答えるとういちろうさんは、まるで紗良の言葉が分かっているようだ。
まさかそんなことはないだろうけど。
残りの3個は、紗良の夜食と、ヴィーの分だ。
そういえば、ヴィーの姿が見えない。
どこか遠くにお出かけだろうか。
以前から警報装置がかけてあるので、何かあったらすぐにスマホに通知が来るはずだ。
だから心配はしていない。
蒸しパンは冷めても美味しいし、取っておくことにしよう。
埃避けに布巾をかぶせてから、さて、と立ち上がった。
これはいよいよ、とういちろうさん用の食器を作らねばなるまい。
せっかくだから今やってしまおう。
と、そう考えて靴を履いた紗良の真後ろに、当のとういちろうさんが近づいてきた。
ん?と振り向く間もなく、髪がはたはたとはためくほどの鼻息が後頭部にかかる。
そして、紗良は、とういちろうさんに襟首をばくりとくわえられてしまった。
「え?」
首筋に牙が当たっている、とふと感じた瞬間に、紗良は、ふわりとした浮遊感を覚える。
それは、知っている感覚だ。
転移だ、と気づいた時には──紗良は、すでに別の場所に立っていた。
「見覚えは、ある」
紗良の目の前にあるのは、可愛い小さなお地蔵様だ。
その足元には、春子の名がある転移石が見えた。
場所を認識すると同時に、爪先立ってぶら下げられていた状態から、とすんと地面に降ろされる。
以前、とういちろうさんが転移を使えるのだろうと考えたが、当たっていたというわけだ。
しかも、紗良を連れての転移ということになる。
「君はもしかして、名のある魔物なのでは?」
いや個人名というわけではなくてね。
人の口の端に上るような、強い魔物なのかな?
答えは返ってこないが、代わりに、彼は軽快な足取りで歩き始めた。
そして、紗良を振り返る。
着いて来い、というわけだ。
地蔵尊に向かって右手が、海への方向だ。
けれど、灰色の背中が向かうのは、真っ直ぐ前だった。
森ではないが、草原でもない。
まばらな雑木林と言ったところで、歩きにくくはなさそうだ。
「どうしよう、遭難セット持ってきてないな」
油断大敵、と、来た当初に決めたはずだ。
が、よく考えれば、あの頃とは違い、今の紗良には転移があるのだ。
何かあれば、自室に直接転移することが出来る。
「それに、せっかくのお誘いだから」
期待を込めた目で振り返る魔物を置いては帰れない。
紗良は、その後をゆっくりと追いかけることにした。
ニットのワンピースにざっくりしたカーディガン、足元はスニーカーと、山歩きの恰好ではない。
保温のおかげで寒くないことだけが救いだ。
足元は、少し湿った土に、やはり湿った落ち葉がべったりはりついている。
夜の間に凍り、昼には溶ける、を繰り返しているようだった。
実に栄養豊富だろう。
春のコンテナ栽培に向けて、土採取の候補地としておこう。
前を行くとういちろうさんの足元も、次第に泥で汚れてきた。
その汚れにどうやら見覚えがある。
もしかして、今日、蒸しパンを食べに来る前、彼はこの辺を散歩していたのかもしれない。
驚いたことに、しばらく進むと、目の前が大きく開けた。
林が切れ、深い草原が広がっている。
左手には、カーブを描いて林の切れ目が続き、そのずっと遠くには山もある。
あの山が、紗良のいる聖なる森に続いているものだ。
右に転じれば、そちらはどこまでも広い平地である。
もしかしたら、その地平線の向こうは海かもしれない。
前方に目を戻すと、待ってくれていたらしいとういちろうさんが、身体ごと振り返ってじっと紗良を見ていた。
「ごめんごめん」
お待たせ、と歩き出すと、彼はさらに軽快な足取りで進む。
ふと、斜め前方、少し遠くに、何かが動いた。
紗良の安全地帯より何倍も遠いから、反応はしていない。
それでも、その生き物がとてつもなく大きく、よくない殺気を放っているのが分かる。
魔物だ。
紗良は思わず足を止めたが、とういちろうさんは全く気にする様子もなく進んでいく。
ええどうしよう、と悩むが、いざとなったら今度は自分が彼を連れて転移しよう、と心を決めて、足を進めた。
じっと目が離せないでいるうちに、その凶悪な魔物は、紗良めがけて慎重に近づき始めた。
困ったなあと思うが、思っているうちに、魔物は足を止めてしまった。
その視線が、ちらちらと、とういちろうさんに向いている。
慎重で、警戒しているのは、このとういちろうさんに対してらしい。
とてつもなく葛藤している様子が見える。
なにしろ前方にいるので、紗良たちが歩めば、その距離が勝手に近くなる。
魔物は、とういちろうさんが近づくにつれ、警戒から、怯えのような様子に変わった。
そして、とうとう、背中を見せて素早く逃げ去ってしまったのだ。
「……君、やはり、名のある魔物なのでは?」
見ただけで逃げるなんて。
本能で怯えるような相手、と考えて間違いないだろう。
とういちろうさんは、相変わらずわっふわっふと小さく鳴きながら、ご機嫌である。
そして、ある場所まで来ると、ぴたりと止まり、行儀よくお座りをして紗良が追い付くのを待った。
近づいてその足元を見る。
予想はしていた。
三つ目の転移石がそこにあった。
相変わらず、青い美しい幾何学模様が描かれ、そして一部にアルファベットが彫られている。
「んー……croquette。クロケット……コロッケ?」
コロッケ?
「???????」
そんなわけないか。
きっと紗良の知らない単語なのだろう。
意味は分からないが、何か重大なメッセージだろうか。
でもごめん、分かりません。
謝罪の意味も込めて、しゃがんで手を合わせて拝むと、見覚えのある強い青い光が転移石から立ち上がる。
三つ目の解放だ。
いよいよもって、道の駅スタンプラリーだ。
「連れてきてくれてありがとね」
とういちろうさんにそう伝える。
彼は、青い光のような強く長い遠吠えをひとつ。
まるで、光と共に空に届くような声だ。
大気に溶けるような声の残響が消えると、とういちろうさんの前脚が、ぼふっと紗良の膝に乗った。
でっかい重いあったかい、の気持ちが一気に押し寄せると同時に、紗良は、河原に転移していた。
「……コロッケ食べたい」
紗良の呟きの意味がまるで分かったかのように、とういちろうさんが、わふっ、と元気よく返事をした。