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そうだ、今日は海を見に行く計画、三回目の日だ。
紗良は、毛布を跳ね上げて起き上がった。
こちらに来てから、目覚まし時計は一度も使っていないけれど、なぜかちゃんと朝のうちに目が覚める。
健康的な生活といえる。
紗良の部屋は、パネルヒーターだ。
故郷の両親は、紗良が一人暮らしをする部屋を探すにあたって、冬をどう越すかを中心に考えたらしい。
だから、実家と同じ、冬は24時間つけっぱなしの集中暖房方式が備わっている。
しかし住んでみて分かったけれど、関東の暮らしやすさを決めるのは、冬ではなく夏である。
夏の暑さときたら、それはもう。
それはもう……。
なんにせよ、寒くて起きられない、ということがないのは、それはそれでありがたいものだ。
ベッドから出て、歯磨きをし、ツナ缶の油を切っている間に顔を洗って、コーヒーをいれながらツナマヨおにぎりを作る。
一缶使い切りたいので、二個ともツナマヨ。
水筒にティーバッグを入れてお湯を注ぎ、その間に着替えをする。
ジーンズにセーター、ダッフルコート、そしてでっかいザック。
ティーバッグを取り出して捨て、蓋をした水筒も入れておく。
外に出ると、雪は降っていなかったが、やはり息が真っ白になるほど寒い。
紗良は家にとって返し、手袋を掘り出して使うことにした。
「ヴィー、ちょっと行ってくるねー」
川べりで水を飲んでいたヴィーに声をかけ、出発する。
転移は覚えたが、まずは、前回の最終地点である【転移石】に飛ぶことにする。
「飛来」
なんだか無意味に目を閉じてしまう。
川のせせらぎが聞こえ、瞼を開くと、目の前におじぞうさんがいた。
こんにちは、と声をかけ、両手を合わせてから、さて、と振り向く。
「うわ」
驚いた。
少し離れたところに、人がいたのだ。
見たことのない人だ。
服装は、無地の麻のような上着に、茶系のズボンをはいている。
背中にフィルと同じようなカゴを背負っていて、山菜採りか何かのようだ。
とはいえ、間に聖域である森があるのだから、この人は歩いてここへ来たわけではない。
「こんにちは」
声をかけると、その人は微笑みながら近づいてきた。
年の頃は30ばかり、顔立ちはやはり欧米っぽい、彫りの深い様子をしている。
しかし、彼は、途中で何かに阻まれたように立ち止まってしまった。
不思議そうな顔で、目の前の何かを触っている。
しばらくして、バチンとはじかれた。
あれ、もしかして安全地帯が発動してる?
「いって、なんだ、これはよ。……とりあえず、あんたが聖女の手下って人?」
その一言で、ああ苦手な人種だ、と気づく。
物言いは不遜で、酒やけしたような声をしている。
顔を突き出すような話し方も、こちらを尊重する気のない態度を表していた。
「どちら様ですか?」
「誰だっていいだろ、なあ、あんたがくれる食いもんが癒しの力をもってるって聞いたんだよ。
少しでいいから、俺にくれよ」
「司祭さんを通してくれますか」
「それじゃあ、金にならねえだろ」
男はとても面白そうに笑った。
紗良はちっとも楽しくない。
ここまで来られる人か。
どのくらい魔力があるのだろう。
紗良より強いだろうか。
このひどく横柄な態度は、自信の表れだろうか。
「さ、一緒に行ってやるから、森まで移動しようぜ。
なんだか中には入れないらしいから、俺は入り口で……ま……」
調子よく話していた男は、急に、目を見開いて言葉を止めた。
その視線が紗良の背後に向いていると気づき、振り向いてみる。
「あら、来たの? どうやって? もしかしてあんたも転移できるの?」
そこにいたのは、ヴィーだった。
さっきまで河原にいたし、ここは6、7kmは離れているはずだから、こんなに一瞬で追いつくはずがない。
話しかけた紗良に、フンッ、と鼻息をひとつ吐いて返事としたきり、ヴィーの視線は男からちらとも外れない。
再び目の前の男を見ると、彼は、じりじりと後ずさっているようだった。
そうか、忘れていたけど魔物だったね、ヴィーちゃん。
「そ、その、それは、あんた、なんで……」
「なんでって言われても」
ヴィーが一歩すすんで紗良の横に立つと、男はとうとう腰を抜かしたように座り込んだ。
「分かった、諦める、なかったことにするから、そいつを抑えてくれ!」
「え? 私がですか? うーんそれは難しいと思いますけど……」
なにせでっかいので。
力比べで勝てるわけがない。
とりあえず、紗良は、スマホを取り出した。
そして、男の写真を撮っておく。
「ええと、むやみに必要以上の食べ物を街へ持ち出すと、腐って食べられなくなるみたいですよ。
だから、司祭様を通してお渡しする分しか、女神さまが許さないってことだと思います。
あなたのしていることは、無意味です」
「……そんなの俺は信じねえ」
紗良は首をひねる。
「どういう意味ですか?」
「……司祭と村長と領主がつるんで、ちょっとしか領民に与えてないに決まっている。
残りは山分けか、金儲けに使ってるんだ、絶対」
男は、何度も肯きながらそう言った。
自分ならそうするから、というのが理由だろう。
世界が自分の知る範囲だけで回っていると思っている人というのは、どの時代、どの世界にでもいるのだな、と紗良はむしろ感心した。
「もしそうだとしても、あなたが便乗してお金儲けしていい理屈にはなりませんけどね。
とにかく、私を使って儲けようとしないでください」
ヴィーが低く唸ると、男は途端に頭を抱え、
「わ、分かった、分かった、もう帰る、くそっ、魔物を従えてるなんて……!」
そうして、口の中でぶつぶつ何か呟きだした。
それがあまりに長いので、
「どうしたんですか、大丈夫ですか? 具合悪いですか?」
そう聞くと、男はすごい顔で睨んできた。
「転移の詠唱中なんだ、話しかけるなよ!」
「あ、はい……」
男はせわしなく紗良とヴィーを交互に見ながら、またぶつぶつ呟きだす。
脂汗をかきながら、どうやら一分ほどでようやく長い詠唱が終わったらしく、その姿がかき消えた。
めっちゃ時間かかるじゃん。
なんだあれ。
せっかくの探検日なのに、幸先が悪い。
「ヴィー、助けに来てくれたの? 優しいねえ、いい子だねえ」
そう言うと、ヴィーは、さっきよりも長く鼻息を吐き出し、心なしかあごをそらして誇らしそうだ。
その下には、赤い石が揺れている。
まだ壊れていないようだ。
丈夫でなにより。
「なんか興が削がれたね。ちょっとだけ探索して帰ろうか。
ヴィーも一緒に行く?」
紗良は、先に立って意気揚々と歩くヴィーと、1kmばかり歩いてから、おにぎりを一個ずつ分け合って食べた。
それから、ヴィーを連れて転移で家に戻った。
「委細承知致しました。対応は全て、こちらにお任せください。
今後二度と、この男が紗良様を煩わせることはないと誓います」
お供物を届けに来たフィルに男の写真を見せると、彼はそう言った。
言葉の内容はなにやら不穏だが、とても優し気な顔で微笑みながらなので、きっと大丈夫なのだろう。
あれから二日経っているが、どこの人間か分かるのかな?
「それ、絵ではないのですよね」
「……あ、写真ですか? そうですね、実際の映像です。
静止画と、動画もありますよ」
紗良は再びスマホを出して、先日、神殿でコスプレ大会をした時の動画を見せた。
「おや、聖女様ですね」
「そうです、ドレス買うっていうので、呼んでくれて」
写真をスライドして見せる。
「紗良様は可愛らしい色がお似合いですね。お買い求めでしたか?」
「えっ。あ、いえいえ、着ていく場所もないし、写真撮ったら割と満足っていうか」
どんどんスライドしていくと、日付が遡り、フィルの実家での写真になる。
人や家は映していない。
馬や街の写真だ。
それから、いつの間にか日本での映像になった。
食べたものの写真や、欲しかったもののスクショ、紗良や友達の日常が流れていく。
「紗良様の世界は、色に溢れていらっしゃいますね」
「そうですか? うーん、そうかも?」
カラーリングの自由なプラスティックや、はっきりした染めの布地などは、たしかにこちらにはなさそうだ。
「この世界でも、楽しく暮らしていただけるといいのですが」
「今のところ楽しいですよ。毎日がキャンプみたいで。
先のことは分からないけど、ちゃんとこっちで暮らすつもりではいます。
いつまでも精霊様みたいに過ごさず、人間として」
スマホをポケットに入れながら言う。
フィルはそれを聞いて、とても嬉しそうに笑った。
それから少しだけ顔をしかめ、
「件の無礼な男のように、紗良様を不快にさせる人間はこれからも現れるでしょう。
私が全てを排除して差し上げたい。
けれどそれは現実問題、難しいでしょう」
どこか切なげな表情で言った彼は、並んで座っていたウッドデッキで、真っ直ぐに目を合わせてきた。
「聖女様に匹敵する魔力をお持ちの紗良様は、めったなことでは危険に陥ることはないと思います。
けれど、もしも万が一、身の危険をお感じになられたら……よろしいですか、」
真剣な顔と声に、紗良は息をのむ。
「ためらってはいけません。
紗良様に危害を加える輩は、あなた自身も、そして周囲の人間も、排除することを許されています。
私がいれば、私がやりましょう。必ずです。
けれどそうでないならば、その手で断罪するのです。それで、正しいのですよ」
ああなにか不穏なことを言われているな、ということは分かった。
けれど、その意味するところはあまり考えたくない。
そんな紗良の微妙な表情を読んだのか、フィルはまた、安心させるようににこりと笑った。
「頭の片隅に置いておくのですよ。
そうして、いつか、その時に直面したら、思い出すのです。
紗良様の安全以上に大切なことなど、何もないのですから」
言葉の通り、自分の声を紗良の中に刻み込むような、低い優しい声だった。