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今日は、フィルが迎えに来る日だ。
夕方だと言っていたので、紗良はとりあえず、朝ご飯を食べることにした。
外を覗いてみたが、ヴィーはいないようだ。
鍋を食べた日、危ないからとリボンを取ろうとした紗良の手をすり抜けて逃げて以来、見ていない。
犬の方も、姿を見せる気配はなかった。
ただ、一度、青パパイヤのような固い実が三つ、玄関先に転がっていたことがある。
どちらかのお土産だろう。
どっちかな?
朝食は、一人分なので適当でいいだろう。
今日は部屋で食べることにする。
小麦粉と塩とオリーブオイルで、以前と同じチャパティもどきを作る。
そこにハムとチーズを乗せ、両側を少し折ってからくるくるまいて、再びフライパンで軽く焼いた。
コンビニでたまに買っていたブリトーより、少し固いが、香ばしい。
噛みつくと、溶けたチーズのいい匂いが、口の中に広がった。
さて、荷造りをしよう。
一週間ほどなので、国内旅行用のトランクを引っ張り出してくる。
下着類と着替え、あとは、シャンプーが変わるとまとまりが悪くなるので、使い慣れたそれを、小さなボトルに詰める。
気軽にシャワーが出来るとは思えないので、寝ぐせ直し用に小さなヘアアイロンも入れて置く。
一応、父と母から贈られたちゃんとしたアクセサリと、自分用のイミテーションをひとつずつ。
後は適当に必要そうなものをぎゅうぎゅう詰めて、準備完了だ。
田舎の大家族、と言っていたので、持っていく服はカジュアルラインだが、初日だけはご挨拶の意味をこめて少し綺麗目な恰好で行こう。
両親の仕事の都合上、フォーマルなパーティーにもよく出ていたので、礼装を含めてきちんとしたワンピースは揃えてある。
どれにしようか、と考えながら時計を見ると、もう昼を過ぎている。
なんだかちょっと息苦しい。
決して物理的にどうということではなく、ずっと部屋にこもっていたせいだろう。
河原のウッドデッキという、自然まるだしの中で過ごす時間が多すぎて、感覚が野生児だ。
紗良は、空気を求めて、外に出た。
「あら、来てたの」
ウッドデッキには、いつの間にか、ヴィーがいた。
しかし、魔物はまるでその声が聞こえないかのように、明後日の方を向いている。
いつも通り、魔物もダメにしたクッションに腹ばいになっていたが、目だけが合わない。
怪しい。
紗良は靴を脱いでウッドデッキに上がり、近づいてみた。
「あれ、リボンどうしたの?」
解くのを嫌がって逃げたのに、その首にはもうなにもない。
代わりに、どっしりとしたお腹とクッションの間から、そのリボンの端がはみ出しているようだ。
紗良は、見えている部分をつまみ、ツツツーっと引っ張り出してみた。
結び目は残っていたが、リボンは輪っかの真ん中あたりで引きちぎられていた。
やっぱり、枝か何かにひっかかって切れたのかな、と思ったが、よくよく見ると、その切れ目はどうやら焦げているようだ。
「一体、お前はお外で何をしているの……?」
一応、ヴィーの周囲をぐるっと回って、怪我などないか確認してみた。
毛皮に多少の汚れはあるが、怪我や焦げはないようだ。
とりあえず安心し、浄化をかけてから、リボンをポケットにしまう。
「これはもうポイね。危ないからもうダメ」
ヴィーは、かたくなに紗良を無視したまま、凶悪に唸り声をあげた。
それから、立ち上がってその場で足踏みを三回転ばかりし、くるりと丸くなって寝たふりを始めた。
そんなに首に何か巻きたいのか。
でも危ないしなあ。
紗良は、なんだか可哀想になって、必殺のあんバターサンドを作り、まるごと全部あげた。
ヴィーは、紗良を無視しながらそれを平らげ、再びまるくなって、今度は本格的に寝始めたのだった。
「お待たせいたしました」
フィルがやって来るのを、紗良はデッキで待っていた。
ネイルも久しぶりにしたし、化粧もなんとかなった。
アイラインを二回失敗したのは痛かったが、間に合ったのだからいいだろう。
ヴィーはまだ寝ていて、丁度良く、家を空けることを説明できた。
分かっているのかいないのか、魔物はまだ眠いようで、大きなあくびをしている。
「私が森の外で待っていたほうが早かったのではないですか?」
「そんなことはありませんよ」
「でも……ここに馬車は持ってこられないでしょう?」
夕方から出発だというので、馬車移動でも近くはあるのだろう。
それでも、無駄な時間は少ないほうがいいと思うのだが。
そう思った紗良だが、フィルは首を振って、意外なことを言った。
「いいえ、移動は馬車ではなく、転移ですので」
「ああ、なるほど!」
そうか、フィルも転移を使えるのか。
この世界の人は、気軽に転移魔法を使っているのだろう。
紗良は納得し、ストッキングの足裏に木の感触を楽しみながら、脱いであったヒールを履いた。
フィルはなぜか、目をそらしている。
「こんな恰好で良かったですか?」
およばれ用ワンピースは、無難に黒ベースでシンプルだが、胸元と袖に同色のレースがついている。
ヒールとコートはピンクベージュにし、それなりにおしとやかなものだ。
「はい、とてもお綺麗です」
「なら良かった」
「では行きましょう。お手に触れてもよろしいですか?」
「はい。荷物はどうしましょう?」
「私が持ちますとも」
「ありがとうございます。ヴィー、行ってくるね!」
ヴィーはあくびで答える。
左手で軽々とトランクを持ち上げたフィルは、右手でそっと紗良の手をとった。
そして、数秒集中する様子を見せた後、詠唱する。
「女神の飛翔」
とても不思議な時間だった。
何も見えないのに、誰かに見られているような気がする。
長いような短いような、時間の感覚もよく分からない。
実際は、ものの10秒程度だったようだ。
無意識に目をつぶっていたが、
「着きましたよ」
というフィルの声で、目を開いた。
そして、思わず、眉根を寄せた。
「紗良様?」
「……田舎の大家族って言いませんでした?」
目の前にあるのは、白亜の邸宅だった。
いっそ、小さな城と言ってもいい。
「はい、ここは王都から、馬車であれば2週間ほどかかる田舎の領地です。
なにしろ、すぐそこが隣国ですからね」
なにがなにしろか分からない。
ふーむ。
これは困ったぞ。
「……紗良様? 何かお気に召しませんでしたか?」
「いえ、よく考えたら、田舎の大家族というのは、藁ぶきのでっかい平屋におじいちゃんおばあちゃんが住んでいることとイコールではないと気づきました」
「なんですって?」
「あなたは貴族ですか?」
唐突な質問ではあったが、紗良の口からようやく意味の分かる文脈が出てきたことに喜び、フィルはにっこり笑った。
「いいえ、私は貴族ではなく、平民です。
しかし、元は貴族の家に生まれました。神官となり分籍しましたので、身分としては平民となりますが、里帰りは許されていますので」
「ふーむ。
ごめんなさい、私が勝手に、ご実家も平民?という身分だと思ったのです。
それで、とてもカジュアルな服しか持ってきていません。
何日も滞在できる恰好ではないので、帰ってもいいですか?」
フィルはあっという間に笑顔を消し、狼狽えたように紗良の手をぎゅっと握った。
そういえばまだつないだままだった。
「も、申し訳ありません、私の説明不足でした!
そう、そうですよね、女性はそうですよね、どうしましょう……」
だから帰ろうよ、と言おうとしたが、その二人をさっと光が照らした。
すでに暗くなりつつあった玄関先で、正面扉が開いたのだ。
中の眩しい光に、一瞬、影のようにシルエットが浮かび上がる。
「あなたたち、何をしているの? こちらはノックを待っていたのだけれど?」
目が慣れてみると、大きな扉の向こうに立っているのは、年配の女性だと分かった。
ドアの脇には、びしっと燕尾服をキメたおじいさんが、頭を下げて立っている。
「これは母上。ご無沙汰しております」
「ええ、本当に。勝手に遠方に行ってしまったわりに、元気そうではないの」
「はい、とても元気ですよ」
「……。まあいいわ、あなたのことは後よ。
初めまして、界渡り様。いつも聖女様をお支えくださり、感謝いたしますわ。
わたくしはフィルの母、この屋敷の主の妻で、フィオーラ・バイツェルでございます」
紗良は、困ったなあと思ったままだが、両親に躾けられた通りに、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、サラ・ツワノと申します。
この度はご家族お寛ぎの時間にお招きいただきまして、ありがとうございます。
お邪魔でなければよいのですが」
厳しい、あるいは厳格な印象のある女性だったが、口元をにこりとさせると、フィルに似ている。
「いいえ、わたくしがお呼びだてしたのですよ。
紗良様が……紗良様と呼んでよろしい? ありがとう。紗良様がおひとりで年送りをされると聞いて、ならばお連れしなさいと。
それで……何を揉めていらしたの?」
「……すみません、母上。
私が自分の身分を平民の神官と名乗りました。
それゆえ、紗良様は……」
「ああ……もういいわ、大体分かりました。相変わらず、気の利かない子だこと」
「すみません……」
「こちらでは、わたくしたちがなんとかしてあげられますけどね。
向こうでちゃんとしているのかしら、全く……」
なんだかんだで、口調は厳しいものの、面倒見の良い家族らしい。
紗良は微笑ましくなる。
「息子の不始末を、どうぞこの母に挽回させてはいただけませんか?
このままお帰りになられては、馬鹿息子が馬鹿だとばれてしまいますからね。
幸い、我が家には、お年も体格も近い娘がおりますの。
お召し物はそれで我慢していただけませんかしら」
「我慢だなんてそんな、こちらこそお手数をかけてしまって。
それでは申し訳ありませんが、お世話になってよろしいでしょうか」
紗良の負担にならないよう、息子のためとは言っているが、そもそも家に呼んでくれたのはこの夫人の優しさだ。
やはり、見た目よりずっと、多方面に心を砕ける人なのだろう。
「どうぞお入りになって。そしてフィル、お前はそろそろ紗良様のお手をお放しなさい」
言われてようやく、フィルの手がぱっと離れた。
中に入ると、燕尾服のおじいさんが扉を閉めてくれる。
その上、紗良のコートを預かり、荷物もフィルから受け取っている。
まさかお年寄りが運ぶのか、とそっと見ていると、若いメイドが出てきてそれらを受け取った。
良かった、あのトランク、重いんだよね。
中身の着替えの大半は、使わないことになった訳だけれどもね。
紗良は、そこでようやく、左手に持っていた紙袋を燕尾服さんに差し出した。
中身は手土産だ。
と言っても、もちろん百貨店も専門店もないのだから、家にあったものを持って来たに過ぎない。
失礼かとは思ったけれど、ないよりはマシだろう。
「つまらないものですが」
「は」
燕尾服さんは、夫人の顔を見た。
彼女が頷くのを見て、ようやく受け取ってくれた。
「フィルさん、もしかして、手土産の文化はありませんか?」
「そうですね、後日届けることが多いように思います」
「なるほど。すみません、マナーにそぐわないようですが、後日お届けすることも難しいので、ここでお納めいただければ」
夫人はといえば、あたりをきょろきょろ見回した後、燕尾服さんに近づき、紙袋の中を覗き込んだ。
「母上……はしたない」
「お前に言われたくありません。誰も見ていないからいいのよ。だって気になるじゃない。
紗良様、見てもよろしい?」
「もちろんです」
入っているのは、籐の四角い蓋つき籠に入った、ケアセットだ。
ハーブ入りの入浴剤とか、アロマ入りのハンドクリームとか、なんかそんなものがぎゅうぎゅうに詰まっている。
母が、もらったけど使わないから、と送って来たきりになっていた。
訪問先が大家族だろうが貴族だろうが、どちらにしろそぐわない手土産だが、部屋には他に新品の贈り物と言えるものはなかった。
「まあ。まあまあ、これは、面白いお話が色々聞けそうですわね」
中身をあらため、今度こそ本当にご機嫌な夫人が案内に立ち、紗良とフィルはその後ろをついて歩く。
彼はそっと、紗良の耳に囁いた。
「我が家は、農業中心の産業から、それ以外の地場産業を起こそうと考えているのです。
母があまりしつこいようなら、私が連れ出しますからね、ご安心ください」
明らかに夫人に聞こえる音量だったので、諸々ふまえて、あまり信用しないでおこう、とそっと思った。
再び、燕尾服の老人が、目の前の大きな扉を開ける。
一斉に、中の人々の視線が紗良をとらえた。