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<転移陣の解放>
おめでとうございます、ふたつめの転移陣が解放されました!
【転移陣・ラピススタートゥア】への転移が許可されました。
また、森の中に限らず、自然の中に食べ物や飲み物を放置することはご遠慮ください。
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とってつけたような注意書きは、要するに、お供えはするなよ、ということだろう。
いやでもフィルがしようとしていた御神木へのお供物はどういう扱いなのかな、とちょっと考える。
あれは、元々森の外の祭壇に置かれるものだ。
そしておそらく放置はされず、すぐに、お下がりとして人間の口に入るのだろう。
紗良は、おにぎりを出しかけていた手を止め、仕方なく、浄化をかけるにとどめた。
別に神様を信じてはいないが、こういうものを軽んじないというのは、日本人の日常に刻まれている気がする。
よくよく見ると、落ち葉に覆われているお地蔵さんの足元に、青い模様がちらりと見える。
手で払ってみると、どんぐりの木の根元にあったものと同じ魔法陣が出てきた。
そして、Eat itと書かれていた場所には、Meiji18.7.8:Harukoとある。
「メイジ……明治? 明治18年7月8日? ……春子」
萌絵への対応を見るに、おそらく、聖女をこの世界に呼ぶというのは、かなり体系化された手順なのだと思われる。
どう呼ぶか、呼んでどうするか、どこに住み何を教育しどう扱うか、彼女が快適に過ごしていることから考えて、とてもうまくやっている。
それは、それだけの数をこなしている証拠だろう。
いきなり異世界から女子大生を呼んで、すんなり生活になじませるなんて、無理だ。
それに、萌絵がごねれば、すぐに紗良を呼んでなだめた。
そんな決断だって、一朝一夕に成り立つものではない。
今までどれだけの人が聖女として呼ばれたのだろう。
いずれにしろ、そこまでして呼んだ聖女を、こんな辺境に放り出すことは絶対にない。
つまり、この地蔵尊を据えたのは、聖女ではない。
けれど、日本人であることは間違いない。
「私と同じかな」
紗良があっさり呼ばれたのは、前例があったからだと考えるのが自然だ。
それがきっと、この魔法陣の設置主に違いない。
聖女でもなんでもないのに、異世界に呼ばれてしまった人。
明治生まれで、Eatという、今時は小学生レベルの単語とはいえ、英語を扱えたというのは、かなりの才媛ではないだろうか。
転移陣を設置できるほどの魔法を使えるようになったのだ、ある程度、思考力に優れた人ではあっただろうけれど。
その時、背後に生き物の気配を感じた。
振り向くと、とてつもなく大きな犬がいた。
もちろん、多分、いやきっと、犬ではない。
さすがの紗良でも分かるくらい、それは大きかった。
ヴィーくらいはある。
そして、目がとてもとても青かった。
魔物だ。
紗良は、賢者のレベルを上げるために、この世界の知識を増やそうとしている。
だから、マニュアルノートは隅々まで読んだ。
その中に、この魔物の絵姿があったはずだ。
サピエンティム、と種族名が添えられていた。
賢者という意味の名前を持つ、大きな灰色の犬みたいな姿で、その青い目は、紗良の記憶に強く残っている。
寿命が300年を越えることも、覚えている。
しかし、目の前の魔物が持っている青は、その目だけではない。
耳にピアスのように突き刺さっているのは、金色のカゴに包まれた青い宝石だ。
紗良のイヤーカフととても似ている。
「それは、春子さんの杖?」
声をかけた紗良を、魔物はじっと見ていた。
不思議に、視線がどこを見ているのか、人間同士のように明確に分かる。
彼、または彼女は、紗良の黒髪を見た。
そして、背後の地蔵尊を見て、ゆっくりと俯いた。
この魔物は、転移陣が再起動し、そこに春子がいると思った。
でも、そんなはずがないとも思った。
それでも来ずにはいられなかった。
春子の杖を託された魔物は、賢者と名がつき、賢く思慮深いが、万が一の想いに突き動かされてここまで来たのだ。
とうに亡くなった、春子という人に会いたかったから。
寿命の違う人と魔物は、ずっと一緒にはいられない。
その証明のようだな、と紗良は思う。
魔物は、ふいっと首を返し、林の奥へと歩いて行ってしまった。
しかし、すぐに戻ってくる。
その、おそろしい牙の生えた口元には、小さく可憐な花が一輪、くわえられている。
魔物はそれを、ぽとりと、お地蔵さんの前に落とす。
意味は分かっていないだろう。
ただきっと、春子がそうしていたから、真似をした。
いじらしいその姿に、紗良は、胸がぎゅっとなる。
「期待させてごめん」
魔物は、すん、と鼻を鳴らす。
まるで泣いているように見えた。
きっと思い出に浸っているのだろう。
紗良は、そっとその場を離れた。
明治という時代に異世界なんて、大変だっただろうに。
そして、その生涯を、あの魔物とともに過ごしたのだ。
すん、とまた聞こえた。
驚いて振り向くと、犬の魔物がいる。
すん。
鼻を鳴らす。
いや。
紗良のザックを嗅いでいる。
「……」
「……」
「……」
睨み合いに負け、仕方なく、ザックを降ろして……──おにぎりを出した。
お座りをする魔物。
アルミホイルを外す紗良。
一瞬でおにぎりを食べる魔物。
いやもう、お前は犬だ。
犬は、おにぎりを二個食べ尽くすと、ぺろりと口元を舐めて、さっさとどこかへ去って行ってしまった。
紗良は、お地蔵さんに向かって、犬の躾について少々苦言を呈した。
昼ご飯を奪われた紗良は、空腹で河原に戻って来た。
転移石を使うとはいえ、結局、どんぐり石からは歩いて戻って来なければならない。
やはり早いところ、自由転移を覚えなければ。
くたくたではあるが、猛烈にお腹も空いている。
軽くシャワーを浴びた後、スウェットのパーカーワンピースに着替え、もこもこのアウターを羽織った。
ふと、マニュアルノートがぱらりと開く。
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<火の用心>
これから乾燥する季節です。
火の使用、後始末には十分気をつけましょう。
毛糸やけば立った生地の服は、火が付きやすくなっています。
表面が溶ける生地も、焼けた際に肌に張り付いてしまいます。
火をつけたまま寝落ちなど言語道断です。
注意一秒怪我一生!
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町内会の回覧板か?
とても異世界のマニュアルとは思えないが、言っていることはまっとうだ。
紗良は、もこもこアウターを諦め、うーんと考えた挙句、ワンピそのものに保温をかけた。
なぜ今まで思いつかなかったのだろう!
暖かい上に動きやすい。
マニュアルノートも、業を煮やして教えてくれたのだろうか。
最近は、手取り足取りという感じではなくなっている。
紗良の成長を促すためだろう。
何にせよ、お腹が空いた。
冷蔵庫から、豚バラブロックをふたつ、出す。
外に出ると、すっかり日が暮れている。
夜が早く、そして、長い。
紗良は、その冬の夜の始まりを、楽しむことにした。
米を研ぎ、無水鍋に入れて水加減し、かまどにかけておく。
そして、豚バラブロックの片方に、塩をたっぷり擦り込み、密封バッグにぴっちりと空気を抜いて入れる。
これはもう終わり。
後日食べる分だ。
今日の分の、もう片方のかたまり肉には塩コショウをすりこみ、それを分厚くスライスする。
そして、森から採って来たさやいんげんを5cmに切っておく。
火にかけたフライパンには、オリーブオイルとスライスしたにんにくを熱している。
本当はすりおろしにんにくがいいけれど、やつはとても跳ねる。
凶悪だ。
今日は戦う気力がないので、スライスで妥協した。
肉を入れ、焼いていく。
こちらのさやいんげんは皮が少し固いけれど、その分、揚げるように焼くと、歯ごたえと香ばしさが格別だった。
タイミングを見極め、肉といんげんに同時に焼き色を付けていく。
味付けはシンプルに、醤油とはちみつ、酒で溶いた味噌を少々。
仕上げにレモン汁をたっぷりしぼる。
炊きあがったごはんと、肉炒め、インスタントのオニオンスープをつけ、部屋から冷えたビールを持ってくる。
我慢できずに、ぷしっと開けて一気に半分ほど飲んだ。
「あああー」
天をあおぐ。
星が綺麗だ。
そう思った紗良の脇腹に、どすん、と何かが突き刺さった。
ヴィーの鼻先だった。
「来てたの。食べる? ……ぐえっ」
再び鼻先が突き刺さり、紗良は急いでフードボウルに肉炒めをよそった。
ようやくウッドデッキに落ち着き、肉を一口。
口の中で肉の脂が溶ける。
分厚くも柔らかい肉質と、爽やかなレモンが、その脂を美味しく胃へと押し流してくれる。
とどめのビールで、感嘆のため息が出た。
ヴィーも満足げだ。
沢山歩いて、美味しいご飯と冷えたビール。
隣には、物言わぬ友。
紗良はささやかな幸せを感じる。
遠く、とても遠くで、長く悲し気な遠吠えを聞いたような気もするけれど。
静かな夜は、更けていく。




