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紗良は、がばり、とベッドから起き上がった。
思いついたのだ。
川を渡る方法を。
『海を見る』という、今のところ唯一にしてほぼ絶望的な『決断』において、問題点はふたつ。
ひとつは距離の問題。
もうひとつは、いくつかの川が行く手を阻んでいることである。
ひとつ目については、転移石が鍵になると思っていた。
先日見つけた【転移石・どんぐり】のことだ。
あそこを起点にして、次の転移石を見つければいい。
もちろん、海に向かう方向で探す。
見つかって起動できれば、今度はその転移石に飛び、さらに次の石を探す。
探せたら、帰りは【転移石・どんぐり】に飛び、そこからならば徒歩で戻って来られるわけだ。
それについては、石を見つけた初日にぼんやりと思いついていた。
ただ、川を渡る方法はなかなか難しい。
丸太を渡して、一本橋にする?
ゲームではあっさり叶う方法だが、安定して向こう岸に渡れるものだろうか。
錬金釜を持って行って、製材して橋を造る?
何カ月かかるか分からない。
土を魔法で固めて渡る?
大量の土が必要になり、周囲の地形を変えてしまうかもしれない。
人はいないが動物はいる森の中で、あまり勝手はしたくなかった。
とはいえ、木製の橋よりはずっと現実的だ。
そうやって、このところ、なんとかうまいこと安定して川を渡れないものかと考えていたのだ。
そうして今朝、ついに、最も手軽で安全な方法を思いついた。
紗良はベッドを飛び出すと、すぐさま遭難セットを作った。
そしておにぎりを握る傍ら、パンをトースターに放り込み、コーヒーを落とす。
厚手のコーデュロイパンツにセーターを着て、チンと鳴ったトースターからパンを取り出し、いちじくのジャムをたっぷり塗って食べる。
落としたコーヒーの半分は、水筒に詰めた。
いつものセットに、コートを羽織り、おにぎりを入れたザックを背負う。
外に出ると、ヴィーが地面にぺったり伏せてなにかをじっと見ている。
鼻先にあるのは、何かが両の手のひら一杯分入ったらしいビニール袋。
「あれ? なんだっけ、あの中身」
はっとした。
どんぐりだ。
鹿にもらったどんぐりが入っているはずだ。
おかしいな。
その割に、なんだか動いているように見える。
ビニールの表面が、カサコソと、いや、うねうねと、小さく動いている。
「あばばばばば……」
紗良は動物が好きだ。
だから、動物園も好きだ。
それゆえ、あまりみんなが知らないだろう、『どんぐりポスト』の存在も知っている。
子どもたちが、いや別に大人でも良いが、どんぐりを集めて動物園に持っていくのだ。
何のために?
どんぐりそのものももちろん役に立つ。
しかしそれと同じくらい、動物園側が期待しているのは──。
「ぎゃー! だめ、ヴィー!」
ひげをぴくつかせていたヴィーが、ビニールの動きに我慢できないように、ちょいと前脚でつつこうとしている。
紗良は生きてきた中で一番素早くかけより、ビニール袋を指先でつまんでぶら下げると、反対の手で杖を顕現させ、
「飛来、どんぐり石!」
と叫んだ。
紗良はビニール袋ごと姿を消し、後には、うごくおもちゃを取り上げられて不満そうな魔物が残った。
あれを開けたら、きっと、とてもたくさんの虫たちが飛び出してきて面白かったのに……。
「あああああああ、ああああ、いええええええええ!」
ビニールを森に残して行くわけにはいかない。
紗良は、どんぐりの大木の根元に、決死の思いで袋の中身をぶちまけた。
わらわらと四方八方に散っていく小さきうごめくもの達から、これまた俊足で距離を取る。
「ひいいいいいいい!」
全力で走り、叫びながら、もう絶対使えない空のビニール袋を魔法で燃やし尽くした。
鳥や爬虫類たちは、思いがけないおやつを喜んでくれるだろう。
河原に出ると、なんだかぐったりした気持ちになる。
まだこれからだというのに、早くも気力体力の半分を失った。
目の前には、川がある。
そうだ、この川が、今日の目的だ。
紗良は気を取り直し、まずは、全力で振り回していた杖をイヤーカフに戻した。
早速、気持ちを切り替え、思い付きを試してみることにする。
うっかり見てしまった袋の中身については、忘れることとする。
さて、思い付きにはもちろん、魔法を使うのだ。
今まで使ったことがないので、呪文で補助をする。
「厳冬」
イメージと共にエーテルを操作すると、川の両岸、少し浅い部分から順に、その表面が凍り始めた。
方向を一定にし、幅を定めることで、ちょうど1mほどの氷の橋がかかり、紗良は思った通りの結果に手を叩いて喜んだ。
氷の上を歩くことに問題はない。
紗良の冬の靴は全て、滑り止め加工されている。
故郷で売っている靴は、それが普通だ。
都会で数センチばかり雪が降り、つるつる滑っている人がテレビに映るのを不思議に思っていたが、どうやら世の中には靴底を加工しない地域があるらしい。
一歩、川に踏み出してみる。
いける。
しっかりグリップの利いた靴底で、危なげなく川を渡り切ることができた。
「やった……」
エアカーテンに続き、紗良が自分で編み出した解決策だ。
やればできる子だ。
成長していると言えるだろう。
振り向いて、氷を溶かしておく。
「これでよし」
とはいえ、これは今日の目的の半分でしかない。
出来れば、この先に転移石を見つけておきたい。
川を境目に、ここからはあまり木々が深くない。
地図アプリを確認すると、紗良の部屋は東西の山地の谷間、その東の山のすそ野にある。
谷間には川が流れ、その上流から北に広がった平地に、ナフィアの街がある。
反対に下流に進めば、川は、山の間を抜け、そこから海へと続いていた。
今いる場所は、山と海の境目と言えよう。
とはいえ、大草原ということではない。
雑木林のように、木々が生い茂ったエリアが広く続いている。
それは森よりもまばらで、ずっと明るいというだけだ。
木の種類も違う気がする。
どちらかというと針葉樹が多いのか、山と違って緑がちだった。
はたと思い付き、マニュアルノートをチェックする。
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<生態系の違い>
海沿いの平地には、森とは違う動植物が広がっています!
新しい世界を覗き見てみましょう。
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なんだかそっけないな、と思うのは気のせいだろうか。
まあなんにせよ、相変わらず上手なイラストで、この辺の生き物を紹介してくれている。
そのうちの一つに、目が留まる。
「これは……!」
背の高い、けれど少し華奢な低木が載っている。
その葉は、防水加工用の塗装剤になるそうだ。
もちろん、ウッドデッキなどにも、植物由来のニス様塗料は塗っている。
しかしこの新しい品種は、口に入れても安全、というところが大きく違う。
つまり、これがあれば、食器が作れるということだ。
紗良は忘れていない。
スプーンを作ろうとして挫折し、棒を二本削って箸だと言い張ったあの日のことを。
「今ならいける……」
スプーン・リベンジだ。
紗良は、その木の特徴をしっかり目に焼き付けると、河原ではなく雑木林の中に入った。
やはり、そっけないと思ったのは気のせいだったようだ。
マニュアルノートは、紗良の希望をこんなにも分かってくれているのだから。
しばらく林を進む。
途中、食べられそうなものを探したが、やはりもうほとんどないようだ。
そもそも裸子植物が多く、結実する品種が見当たらない。
代わりに、景色は良かった。
木々を抜けてくる日差しや、遠くに見える川のきらめきまでもが見える。
足元も森よりは悪くないので、紗良は順調に歩を進めていた。
もうまもなく、次の支流が見えるだろうというところまで来た。
アプリで見ると、氷の橋から4kmというところか。
そろそろお昼にしようかなと思っていると、紗良の視界にとんでもなく違和感のあるものが飛び込んできた。
「……ええ?」
それは、石造りの彫刻だ。
自然の中に突如現れたことも驚くが、より驚くのはその造形だ。
「お地蔵さん……?」
まるっこい顔と、三頭身の愛らしいフォルム。
おそらく赤かっただろう首周りのぼろぼろの紐。
短い両の手を胸の前で合わせた姿は、どうみても地蔵尊である。
なぜこんなところに?
いやいやなぜこの世界に?
疑問は多々あれど、紗良は正面にしゃがみ込み、無意識に合掌した。
そのとたん、どこかで見たような青い光柱が天を貫くように立ち上った。