32
そっと杖に浄化をかけ、何事もなかったかのようにイヤーカフに戻すと、紗良はぱたんとマニュアルノートを閉じた。
「さ、帰ろう」
魚には保存をかけ、ビニール袋に入れる。
水筒とひざ掛けと一緒に、まとめてザックにしまい込んだ。
びしょびしょになった足元は、風魔法と火魔法の組み合わせで一気に乾かしておく。
ちょっと気持ち悪かったのが、大分マシになる。
森を通って帰ることは可能だろうか?
柿の木のあたりまでは、足元もそう悪くない。
問題は、途中で先に進めなくなったときに、河原に出られるかどうかだ。
カサカサと茂みが鳴った。
はっとして目をやると、柿の木の奥の草むらから、鹿の顔が突き出している。
来るときに見かけた個体だろうか。
残念ながら、見分けはつかない。
じっとしていると、鹿は、ケーンと一声鳴いた。
まるで、着いて来いと言っているようだ。
紗良は、道がなければ戻ればいいだろう、と、鹿について行ってみることにした。
近づいても、そいつは逃げない。
潜り込んでいった草むらに手をかけ、かき分けてみる。
少し茂みを切り開けば、歩きやすそうな草地に出るらしい。
そして、そこには、4、5頭の鹿が、やはり紗良をじっと見ていた。
彼らが身をひるがえし、先を進んでいくのを、ゆっくりと追う。
森は深いが、木漏れ日はところどころ地面を照らし、光の暖かささえ感じる。
ふと、鹿たちが駆けだす。
さすがに足元が悪く紗良は走れないが、方向を見失わないように目を凝らした。
少し背の高い草をかき分けると、彼らは、大きな木の下にたむろしていた。
なんだか嬉しそうに、その足元で何かを口に入れている。
「どんぐりだ」
とても大きな木だ。
御神木ほどではないが、それでも、樹齢を感じさせる。
鹿たちは、紗良に向かって、何度も首を上下させて見せた。
そして、戸惑っているこちらに、鼻先でどんぐりを押しやる。
「あ。ああー、おすそ分け? してくれるの?
うわー、ありがとね」
でもさすがにどんぐりは食べられないな。
野生動物の好意、というなかなかレアな経験をさせてもらったが、それに応えてどんぐりを口に入れる勇気はない。
紗良は笑顔を作り、散々迷った挙句、ザックからビニール袋を出した。
ほんとあれ。
こんなに役に立つもの、他にない。
涙するほど感謝しながら、紗良はどんぐりをその袋に入れた。
鹿たちは、首を傾げるような仕草の後、次々とどんぐりを鼻先で集めてくれる。
可愛い。
可愛いけど困る。
笑顔を絶やさないよう、両掌一杯分くらいのところで声をかけた。
「もういいよ、ありがとう、あとは君たちがお食べ。
なくなっちゃったら困るからね」
袋の口を結んでザックに仕舞うと、納得したのか、鹿たちはまたぽりぽりとどんぐりを食べ始めた。
その様子を微笑ましく眺めていたが、そのうち一匹の足元に何かがあることに気づく。
近づいてみると、深い落ち葉に埋もれた大きな石だ。
目を引いたのは、その表面に青い彫り込みがあったせいだった。
手で落ち葉を払うと、50㎝ばかりの平たい円形をしていることが分かる。
正円というにはややいびつだが、石の形としては驚くほどきれいな丸だ。
その表面には、同心円と直線を用いて複雑な文様が描いてある。
「なにこれ」
分からないことがあったら、頼る先は一つだ。
腹からマニュアルノートを出して、開く。
**********************************
<転移陣>
転移魔法が使えない人のために、魔力のみで起動する転移陣があります。
ただし、発動には条件があります。
設置した本人か、その本人が許可したものに限るのが通常です。
同じ魔力で設置された陣は、共通して許可されることが多いのも、個人設置の特徴です。
聖域の周辺には、全部で20の転移陣があります。
探してみるのも面白いでしょう!
**********************************
道の駅スタンプラリーかなんかかな。
この石の正体は分かったものの、肝心の、発動の条件とやらが分からない。
紗良はこういうものを作る知り合いはいないし、許可が出そうもないなと思う。
それにしても、どうやって色を付けているのだろう。
綺麗な刻みと、綺麗な青だ。
美術品のような気持ちで、陣を眺めてみる。
「ん?」
おかしいな、今、何かが意識に引っかかった。
複雑で細かな模様が幾重にも描かれいている、そのどこかに──。
「英語?」
思わずしゃがみ込み、顔を近づけると、模様に混ぜてはっきりと英語が書かれている。
こちらにはない文字のはずなのに、そこにはこうあった。
『Eat it』
「……それを食え?」
ってどれ?
近くに何か食べ物が置いてあるのだろうか。
紗良は、きょろきょろと辺りを見回してみた。
しかし、見えるのは秋の森の枯れた色ばかり。
あちこち見回している紗良の動きに反応したのか、また、一匹の鹿が、愛想よくどんぐりを鼻先で勧めてくれた。
「あ、うん、ありがと……」
はっとする。
えっ。
まさか?
「……うそでしょ」
それ、とはまさか、このどんぐりだろうか。
日本では鹿は神様の遣いだと言うが、そもそもこれは鹿じゃないし、大体、どんぐりって食べられるの?
紗良は、さきほどマニュアルノートが教えてくれた、近隣の食べられる植物を確認してみた。
柿しか見えていなかったが、一応、このどんぐりも載っている。
苦いらしい。
それからしばらく葛藤したが、結局、食べてみることにした。
日本にいた頃の紗良なら、絶対に食べないだろう。
けれど、今の自分は、いつもしないことをしてみたい衝動で一杯だ。
切断で殻ごと二つに切り、出てきた中身をころんころんと手のひらに出す。
良くない色をしている。
紗良が躊躇していると、すぐ近くでぶるんと鹿の鼻息が聞こえた。
目の前にぐるりと5匹分の鼻先が並び、なんだかとても期待した目をしている。
もはや食べないという選択肢はない。
紗良は、思い切ってそのふたかけらを口に放り込み、噛みしだいて呑み込んだ。
「……思ったより……香ばしい」
美味しくないピーナッツみたい。
そんな感想を持った時、紗良の身体がふわりと光った。
癒しをかけた時に似ている。
けれど、もっとずっと青みを帯びている気がした。
光は少しずつ広がり、そして、魔法陣の描かれた石に触れると、そこに一瞬、強く青い光が立ち上がった。
すぐに消えてしまったが、まるで天に届くような高さだった気がする。
光が消え、鹿がぶるんぶるんと鼻を鳴らす。
嬉しいのかなんなのか、角を擦りつけ合って楽しそうだ。
紗良自身には何が何だか分からないので、当然、マニュアルノートを開く。
**********************************
<転移陣の解放>
おめでとうございます、【転移陣・グランディフェライ】が使用できるようになりました!
以後、ここへは自由にやって来ることができます。
転移の呪い 飛来
**********************************
「ん?」
来ることができる、ということは、つまり帰るのは徒歩か。
自宅に帰るには、やはり【賢者】のレベルアップを待って習得するしかないらしい。
紗良は、喜びの頭突きをしてくる鹿に小突かれながら、ザックを背負いなおした。