31
朝方のひんやりとした空気は、太陽によってだいぶぬるんでいる。
ここに来たのは夏。
秋を経て、すでに冬の入り口だとは思うが、予想よりも気温は下がらない。
紗良の予想は、おおよそ、生まれ育った故郷と、進学先の関東圏を基準にしている。
とすれば、もっと南の地域を想定しておくほうがいいのだろうか。
川岸は、ウッドデッキ付近から見える範囲では石ころだらけだった。
歩き始め、最初のカーブを曲がったあたりから、少し草が深くなってくる。
膝丈の草地をかきわけていると、安全地帯が発動している感覚が何度もあった。
「蛇とかかな……」
全く何もないよりは、安全地帯がちゃんと機能していることが確認出来ていい気がする。
なにしろ、足元が見えない中を進むのは、ちょっと怖いものだ。
実のところ、景色はあまり変わらないように思う。
右手に川、草地を挟んで、左手に森。
それでも、面白いもので、見慣れた森とは形が違って見える。
新しさを感じる。
さらに進むと、森の入り口あたりでガサガサと音がした。
はっとして見ると、数頭の動物が見えた。
鹿に似ている。
目の位置から考えて、草食動物だろう。
つぶらな瞳が、紗良をじっと見ている。
可愛いな、と思っていると、彼らは少しずつこちらへ近づいてきた。
頭を上げたり下げたりしながら、観察しているようだ。
動かずにいると、とうとう紗良のすぐ近くにやって来て、服の袖などを嗅いでいる。
リセットされているから臭くないはずだ、きっと。
一体、嗅いだ結果がどうだったというのか、彼らはすぐに興味を失くしたようにふっと立ち去ってしまった。
「不合格……?」
なんとなく振られた気分で先に進む。
【戦士】スキルのおかげで、3kmをさほど疲れずに歩ききることができた。
しかし、足元が悪かったこともあり、4、50分かかっている。
目的地である支流は、思ったよりは狭く、川幅は3m程度だ。
ただ、本流がカーブの内側であるせいか、水勢は結構強い。
合流地点はどちらも川岸が深く切れ込んでいて、足を滑らせたら引きずり込まれそうだ。
「しまった、竿を持ってくればよかった……」
昔話レベルの竿でも、新しい場所で試してみる価値はあったのに。
思ったより早く着いたことだし、次回こそ忘れず持って来よう。
支流は左手に伸びている。
紗良は方向を変え、そちらに向かってみることにした。
川岸はやはり本流と同じように少し開けていて、森はそこで途切れている。
多分、最初に地図に載っていたのはもっと手前までだろう。
木々で暗くなる先を覗き込んでみると、オレンジ色の実がいっぱいに生った大きな木が見えた。
思いついて、マニュアルノートを開いてみる。
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<新しいエリア>
新エリアでは、今まで見られなかった動植物が姿を現します。
安全なものと危険なものをきちんと見分けましょう。
*新しい動植物はこれ!
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相変わらず絵が上手い。
少し森に入って、ノートとオレンジの実を見比べてみる。
「柿だ!」
もちろん、名前は柿ではないが、その特徴は日本の柿とほぼ同じだった。
紗良は、マニュアルノートをお腹にしまいこんで、実のなる木に近づいた。
大きな木だけあって、枝はそこそこ高い位置にある。
風魔法を使って、まずは一個、落としてみる。
手に取ると、重さや固さは柿だが、形は少し円錐形をしている。
とてもつやつやしていて、いい色だ。
紗良は、ザックの遭難セットから小刀を取り出し、皮を削った部分にかじりついた。
「……し……ぶっ……」
思わず吐き出す。
吐き出したのに、渋みはあとからあとから口に湧いてきた。
慌てて、ペットボトルの水を出して、口をすすぐ。
「ぐう……異世界の自然、おそろしい……」
人生で渋いものなど食べる機会はそうそうない。
新しい体験だった。
渋柿も食べる方法はある。
7、8個を魔法で撃ち落とし、みんな大好きスーパーのビニール袋に入れて、ザックに収めた。
まだ口が苦い。
紗良は、ふらふらしながら川べりに出た。
支流の少し上流にあたるそこは、水深も浅く、さらさらと穏やかに水が流れていた。
ちょうどいい、お昼にしよう。
河原の石は痛そうなので、ザックに入れてあったお気に入りのチェックのひざ掛けを、尻の下に敷いた。
家中を漁って、一度使ったきりになっていた真空断熱の水筒を見つけていた。
今日は、温かいお茶を入れてある。
そしておにぎりは二個。
塩じゃけと、おかかだ。
そういえば、萌絵が持ってきてくれた生鮭があった。
何にしよう。
ちゃんちゃん焼きもいいし、鍋もいい。
バター焼きにしても、フライにしてマヨネーズソースで食べてもいいだろう。
全部、お酒に合うし。
時間は、1時を回ったところだ。
冬の日暮れは早い。
とはいえ、もう少し森を探索する時間はある。
紗良は、おにぎりを食べ終え、部屋に戻りがてら森の中を進んでみようかと考えた。
その時、ふと、川面に何かが跳ねた。
水しぶきは小さかったが、紗良には見えた。
そっと川に近づき、目を凝らす。
「魚がいる」
小声で呟く。
魚だ。
なんだろうこの、そわそわする気持ち。
水産大国で生まれた紗良だけに、肉ばかりの生活よりも、魚の方がずっと身近だった。
よし、あれを獲ろう。
釣り竿はない。
だが、紗良には魔法がある。
今一番得意なのは、風魔法だ。
どう使うべきか。
下から持ち上げる、運搬が一番良さそうだが、どうも水の中で瞬間的に発動させるのは難しそうだ。
一度失敗したら二度目はないぞ。
なんとかして空中に跳ね上げたい。
【戦士】のスキルで、それくらいの素早さはあるのではないだろうか。
そう、きっと出来る。
何か──何か棒のようなものがあれば。
紗良は、一瞬でそこまで考えた。
しかし、棒状のものなど、河原にはない。
森まで取りに行けば、魚から目を離すことになり、戻って来た時にはもう見つけられない気がする。
決断は早かった。
紗良は素早く耳に手を伸ばし、じっと魚から目を離さないまま、イヤーカフをむしりとる。
ぱっと杖になったそれを、素早い移動と共に、魚のしたに差し入れた。
足が冷たい!
しかし、その水音を魚が感じ取るより前に、紗良の杖はその魚体を空中に弾き飛ばしていた。
すかさず、風魔法で掴む!
「うおおおおおおやった!」
河原の石の上で、大きな魚がぴちぴちと跳ねていた。
以前釣ったものより、少し小さい。
鮎っぽい。
紗良はすぐさまマニュアルノートを開き、魚が食べられるかどうか確認しようとした。
そこには、こうあった。
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杖は! とても! 大事! 魚とる、ダメ、絶対!
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ダメだったらしい。