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数日後、SNSアプリが通知を鳴らした。
『今日の夜、行ってもいいかな?』
萌絵からだった。
『いいよ、ずっといるから何時でも』
『じゃあ19時くらいに行くね
津和野さんの近くに扉を開くから、迎えもいらないです』
了解、のスタンプを送る。
さて、ということは、今日はカレーだ。
あ、と気づいてまたスマホを手に取る。
『佐々木さんちって、何カレー?
うちいま、豚みたいなものと鶏みたいなものの肉しかないんだ』
『実家はだいたいビーフカレーだけど、ないならなんでも大丈夫
みたいなもの、って何……?』
『じゃあチキンカレーにするね
なんとかって名前のこっちの動物だけど、だいたい鶏だから問題ないよ』
『う、うん、ありがとう』
紗良はフライパンを火にかけた。
薄切りにした玉ねぎを、サラダオイルとバターでじっくり炒める。
天国に一番近い匂いはこれだと思う。
あめ色になったら、にんにくを追加し、さらにじゃがいもと人参をくわえて油がまわるまで軽く火を通す。
そこに手羽元を並べて入れ、上からカットトマト缶を入れた。
蓋をして、しばらく放置だ。
頃合いを見て蓋を開ける。
野菜の水分で、鍋の7割ほどが埋まっていた。
そこに、この間作ったばかりの無花果のジャムをひとさじ。
あとは、市販のカレールーを溶かして、蓋をしてまた放置する。
普通のカレーがいい、と萌絵が言ったので、これ以上は手を加えない。
カレーオブカレーの匂いをかぎながら、夜を待つ。
萌絵が来るよりも先に、ヴィーがフードボウル改をがこがこ鳴らし始めた。
この間、フィルを送ってもらったこともあり、この魔物の優先順位は高い。
紗良は、炊飯器からこんもりごはんを盛り、カレーもたっぷりかけて、ウッドデッキに置いた。
とはいえ、萌絵もそろそろ来るだろう。
ファイヤーピットに火を入れ、少し暖めておこう。
紗良は再びキッチンに立ち、キャベツをちぎって、魔法で出した氷といっしょに水に放っておいた。
その間に、ブロッコリーとなすを一口大に切って、素揚げしておく。
その時、盛大な破裂音とともに、すっかり暗くなった河原を浮かび上がらせるような強い光が現れた。
紗良の部屋のドアの横、全く同じサイズで、四角く切り取られた光だ。
「こんばんは」
「いらっしゃい佐々木さん」
彼女の後ろから、大きなカゴがふわふわとついてくる。
全体が河原に現れると同時に、背後のドアが消えた。
また結界を無理矢理破ったのではないか?
大丈夫かな。
紗良の心配をよそに、萌絵は今日もひらひらした異次元の恰好で平気そうな顔だ。
「うわぁ、素敵、キャンプ場みたい。作ったの?」
「うん、そう」
「ウッドデッキだ!」
「……あっ」
嬉しそうに走り寄った萌絵が、段差につまづいて転んだ。
辺りは暗く、ウッドデッキは濃い茶色をしていて、境目が分からなかったのだろう。
「……痛い」
「大丈夫?」
「うん……平気……だって聖女だもん……」
萌絵は、少し落ち込んだ顔で、自分のすりむいたすねを魔法で癒している。
「カレーの匂いがするね」
「うん、もう食べる?」
「食べる。あと、この辺ちょっと改造してもいい?」
「いいよ。あがるとき靴ぬいでね」
紗良が、冷やしておいたキャベツに、塩とごま油とすりおろしにんにくを混ぜている間に、萌絵はウッドデッキの周囲にぐるりとほのかな光を灯した。
オレンジ色の電球みたいな色で、まぶしくない程度に周囲が明るくなった。
ついでのように、頭上にもランタンみたいな灯りを設置する。
紗良はエアカーテンをはり、万が一にも虫が寄ってこないようにした。
そういえば、虫に悩まされたことがないな、とふと思う。
もちろん、女神様の采配だろう。
もしわんさと虫がいる環境だったら、今でも部屋から一歩も出ていないかもしれない。
お皿を二枚、ごはんとカレーを盛りつけ、素揚げした野菜を添えると、萌絵がローテーブルに運んでくれた。
スプーンと箸と、キャベツを山盛りにしたガラスボウルをそのまま、これは紗良が運ぶ。
「何飲む? えっと、ビールと安ワイン、あと街の人にもらった酸っぱいワイン。
無糖の炭酸水と牛乳とオレンジジュース」
「最後まで聞いておいてなんだけど、ビールにする。日本のでしょう?」
紗良は、部屋の冷蔵庫から缶ビールを出してきて、テーブルについた。
「いただきます」
「召し上がれ」
カレー、カレー、ビール。
カレー、キャベツ、カレー。
「ああああああ美味しいいいいいいいい!」
「それはなにより」
「ねえ、素揚げしたブロッコリーってヤバいね」
「でしょう?」
「ビールすごい美味しい、なにこれ。
これがリセットされるですって……? 神よ……」
萌絵はカレーをおかわりし、途中でこちらもおかわりにやって来たヴィーにびくびくしながらも、食べ終わるまで帰るつもりはなさそうだった。
「魔物もカレーたべるんだ」
「魔物って分かるの?」
「うん。なんとなく?」
「すごいね。私、黒ヒョウだと思ってた」
「いやでっかいじゃん」
「でもほら。故郷の熊くらいだし」
「でっかい育ちしてんなぁ!」
萌絵は、カレーを食べ終わった後も、ビールも二本目を開け、キャベツと交互にやっている。
「ごめん、すっかりカレーのことしか考えられなくなってた。
魚持って来たから。あれ」
指さされたのは、さっき萌絵の後ろで浮いていた大きなカゴだ。
それが、ふわりとこちらへ飛んでくる。
紗良の横に着地したので、中身を覗き込む。
「あっ、白菜、すごい」
「白菜じゃないわよ、えーと……」
「……」
「白菜でいいわ」
「大根もある!」
「大根じゃ……ううん、いえ、それは大根よ」
何種類かの野菜は、この時期が旬のものばかりだ。
「やっぱり農業自体は栄えてるんだね」
「第一次産業のなかでも、この大陸はやっぱり農業だね。
王都自体が海の近くじゃないこともあるし、造船があまり発展してないから。
遺伝子操作ほどじゃないけど、優良な種同士を掛け合わせることくらいはやってるみたい」
「ちょっと小ぶりで固いけど、向こうの白菜と遜色ないもんね。
鍋が出来るね、鍋」
ごそごそと奥を探ってみると、驚いたことに、切り身になった魚が出てきた。
「うーん、これは、鮭だ」
「うん、鮭だ、それは鮭」
「切り身にしてくれたんだ」
「さばけるの、鮭?」
「やろうと思えばできると思う。【調理】スキルがあるし」
「そっか。まるのままのほうが色々心配なくていいし、次からそうしようか。
今日のもそうだけど、私が一応、鑑定して浄化もしてるから、新鮮だし安全だよ。
保存もかけてあるから、沢山あるけどゆっくり食べてよ」
「助かる。この世界の流通がどんなものか分かってないから」
萌絵はぐびっとビールをあおり、それからうなりをあげた。
「移動はね、馬車よ! 馬車! あの、お尻の痛い、恐ろしい乗り物……!」
「わあ。だよね。だって神官の人でさえ、ごわごわしたローブだったし」
「いえ、さすがに王都の神官はもっとつるっとしたローブよ。
この辺は大陸のはしっこだし、あまり予算もまわらないんじゃないかな」
ぽりぽりとキャベツをかじっている、つるっとしたドレスの聖女に、部屋から持って来たスナック菓子と、煎ったクルミを出す。
大騒ぎしながらお菓子を食べる萌絵は、なんだかちょっと涙ぐんでいる。
「くそー、やっぱりいいなぁ、日本。文明万歳だよ」
「だよね。王都ってどんな感じ?」
「んー、日常生きるだけなら、快適だよ。だって魔法があるから。私はね。
嫌な人もいないし、困ることもないよ。だって聖女だもん。私はね」
紗良の異世界の情報源は、この森と、フィルしかない。
ローブに剣を携え、森に徒歩で入る彼のことを考えれば、萌絵の言うこともそれなりに意味をおびてくる。
聖女は困らない。
でもきっと、普通の人たちは、色々と困りごとが多いのだろう。
「津和野さん、ずっとここにいるって決めたわけじゃないでしょ?」
紗良はびっくりした。
「え、どうして? 私はここにいるよ?」
萌絵は、変な顔をした。
それは少し、大学時代のことを思わせる。
「それってだって、津和野さんが決めた訳じゃないじゃない。
ここにいるって決めたんじゃないでしょ、ここから出ないことにしただけだよね?」
責めるでも諭すでもない、ごく普通の調子で言われ、しばらくの間その言葉を咀嚼した。
そして、じわじわと、理解する。
「ほんとだね!」
びっくりした顔をする紗良に、萌絵はまた、変な顔をした。