28
「ああっ、ちょっとなんか血がついてる! ヴィー!」
ウッドデッキは、土汚れと一緒にかすかに血のしみがある。
よく見ると、ヴィーの毛皮も薄汚れていた。
当人は、フードボウルを鳴らすのをやめ、上目づかいでこちらを見ている。
「その足でクッションに乗らないでね?
あ、バイツェルさんもどうぞ、靴脱いで上がって下さい」
「履物を?」
「はい、お願いします」
戸惑いつつも靴を脱いでウッドデッキに乗った彼は、そのまましゃがみこんで床板を撫でたりしている。
「あったかくしてます。あとすみません、まとめて綺麗にしていいですか?」
「あたたかく……」
呟いているバイツェルと、床全体とクッションと、上目遣いのヴィーと自分、全部まとめて浄化をかける。
泡立つ感覚とともに、汚れが全て掃き出される。
これで安心だ。
何を作ろうか。
簡単に作れるものがいいだろう。
そう考え、紗良は部屋から三食入りの焼きそばと、冷凍庫から下ごしらえ済みのイカとエビを出す。
思いついて、じゃがいもを6個ばかり部屋のシンクで洗い、ラップで包んでレンジにかけておいた。
それから、野菜類と共に外に出て、かまどに火を入れる。
鉄のフライパンにごま油をひき、そこに四角く固まったままの麺を並べる。
焦げ目がつくまで、動かしてはならない。
野菜を切ったら、麺をひっくり返す。
いい色だ。
少し酒を入れ、ほぐしてから、また触らずに置く。
もうひとつのフライパンで具材を炒め、焼き目のついた麺と合わせて、オイスターソースとみりん、塩コショウで味をみて、うーんと唸ってから醤油を足す。
これでよし。
部屋に戻ると、レンジが止まっていた。
冷蔵庫のバター、それからアンチョビの缶詰とともにかまどに戻る。
焼きそばを三等分。
熱さに耐えながらじゃがいものラップを外して包丁で割り、そこにバターとアンチョビをちょいとのせた。
やばい、これはビールでは?
日はまだ高い。
しかし、だからなんだと言うのだろう。
いつ飲んだって、誰も何も困ることはないのだ。
「バイツェルさん、ビール飲みますか?
あ、そこのシンクで手、洗ってくださいね、ハンドソープ使ってくださいね」
部屋へと戻りがてらそう尋ねる。
答えはなく、怪訝に思って振り向くと、彼はじっと何かを見つめていた。
その視線の先をたどる。
我が家のドアがあった。
「……」
「……」
「……あんまり日常で忘れてました。変ですよね」
フィルは、はっとしたように紗良を見て、目をまたたく。
「ええ、まあ、その、変ですね。
しかし、女神さまの加護がある界渡り様という時点で、精霊にも等しい稀有なお方なのです。
見慣れぬ扉に入っては消えていくくらい、どうということはないのです」
そう言いながらも、フィルはドアを凝視している。
「あれ、私が向こうで住んでいた部屋なんです。
私、部屋ごとこっちに来たんですよね。だからまだ生きてるっていうか」
「なるほど。紗良様がご無事で、本当になによりですよ」
「あそこには私しか入れないみたいなので、いざとなったら籠城もできますしね」
どうやらちょっと入ってみたかったらしい。
隠してはいるが、がっかりした風のフィルに、部屋からとってきたビールを渡す。
そして、取り分けた食事を勧める。
「いただきます」
「ご相伴に与らせていただきます」
紗良は箸で、フィルにはフォークを渡しておいた。
食べ方が綺麗だな、と思う。
きっとご両親の躾が良いのだろう。
缶を物珍しそうに触っているので、開け方を教える。
「アルコールです。飲めますか?」
「ええ、たしなむ程度に」
プルトップを引くと、いつものいい音がした。
紗良は海鮮焼きそばの濃い味を、ビールで一気に流す。
「美味しいです。紗良様は料理もお上手なのですね」
「いえ、普通ですよ。でも、苦ではないです」
じゃがいもの皮を、箸でつまんでつるっとむいた。
ヴィーはといえば、まるごと口に詰め込んでいる。
じゃがいもはのどに詰まるのに。
案の定、飲み込むのに目を白黒させている。
紗良は、流水で出した水を、萌絵の真似をして玉にした。
ヴィーに向かって飛ばすと、心得たようにばくんと飲み込む。
そしてまた、じゃがいもをまるごとひとつ。
「学ばない魔物ね、あんたってば」
うぐうぐいっている口元に、もう一度水球を飛ばしておく。
「そういえば、街のほうは大丈夫ですか?
バイツェルさんの戻りを待ってるんじゃないですか?」
「紗良様が厨にお立ちの間に、伝言用の鳥を飛ばしておきましたので、問題ありませんよ」
「へえ、そんなものが。
でも、なら良かったです、私の勘違いでここまで連れてきちゃって……」
「おかげで未知の食べ物にありついていますからね、逆に役得でしょう」
「焼きそば、ないですか、こっちに」
「似たようなものはあります。それよりもこの芋ですね、このように甘い品種はありません」
紗良は、なるほど、と肯く。
この黄味の強いじゃが芋は、日本でもここ十年ばかりで拡大してきたもので、故郷以外にはあまり広がってさえいない。
母親が送ってくれるから食べられるようなものだ。
「種芋として多少、差し上げることはできますよ?」
そう言うと、フィルは少し考えこむ。
「うーん……いえ、そうですね……。
ありがたいご提案ですが、少し考えたいと思います。
色んな影響が考えられますから」
「そうですね、流通するに耐える量がとれるかもわかりませんし、そうなると変な輩がよってこないとも限りませんしね」
はい、とフィルは頷き、にっこり笑う。
うふふ、と笑い返しながら、この人は本当によく笑う人だな、と紗良は思う。
紗良が恵みをもたらす役割だから愛想がいいのか、それとも、こういう人柄なのだろうか。
女神様が森に入れてもいいと考えたのだから、後者なのかもしれない。
少し寒くなってきた。
紗良は、ファイヤーピットにたき火を起こし、ついでに、晴れてはいるがエアカーテンを展開した。
これで、暖かさがカーテンの中にとどまり、凍えずに済む。
「どのように暮らしておられるのか、少々心配しておりましたが、健康に害のない快適なご様子で安心しました」
「えっ、心配してくれたんですか」
「加護はあるでしょうが、若いお嬢さんでもありますし」
紗良は、思わず微笑んだ。
「誰も知らない世界で、誰かに心配されるのは、ちょっと嬉しいですねえ」
「やはりこちらにお知り合いはおられない?」
「いえ、正確には一人、同郷の友人が同じように呼ばれていますよ。
でもまあ、お互いに心配するような間柄じゃないので」
なにせあちらは聖女だし、こちらは現代マンションの一室をねぐらにしている魔力持ちだ。
お互いに心配などない。
焼きそばを食べ、じゃが芋のアンチョビバターのせを二個ずつ食べ、ビールを空ける頃には、辺りは少し暗くなってきた。
「わあ、大変、日が暮れる前に帰りましょう。送りますね」
「いえいえ、とんでもない、戻りが暗くなってしまいますよ。私は一人で大丈夫なので」
「でも、私がいれば、悪い奴は寄ってこないんです。
前も言いましたね、これ」
「はい、伺っておりますよ」
「だから安全なので」
「足元の悪さは、寄って来ないもののなかに含まれませんよ。転んでお怪我でもされたら大変です」
でもなあ。
紗良は、頑ななこの紳士ぶりに、送っていくのは難しいなと思いはするものの、一人放置するのも嫌だなあとも思う。
魔物も、それから普通の野生動物も、どちらも恐ろしい。
「あ、じゃあ、間をとって、ヴィーについてってもらいましょう!」
「えっ」
「ねえヴィー、この人、送って来てよ。安全に。
ちょっと、寝ないで。今度好きなもの作ってあげるから。
生姜焼き? おにぎり? 違うの?」
あれもこれもだめだ。
「あ、今まで作ったことのない美味しいものは?」
思いついて最後に提案すると、ヴィーはすっと立ち上がった。
思考がSNS女子、と思いながら、ありがとねと言っておく。
「え、あの、いえ、そこまでしていただかなくても」
「いえいえ、バイツェルさんが怪我でもして来られなくなったら、多分色々と困るので」
「そうですか……」
なんだか遠慮しているフィルになんとかヴィーの警護を受け入れてもらい、ではまた、と送り出す。
紗良がいつも通る草地ではなく、藪をかき分ける方向に行った気がするが、ヴィーなりの近道なのだろうとそのまま見送った。
毛皮に枯草をいっぱいにつけたヴィーが帰って来たのは、それからほんの十数分後だった。
随分早いね、と驚く紗良だったが、魔物は我関せずの顔で、いつものクッションにごろりと横になった。
スマホの警報は鳴っていないので、フィルは無事なのだろう。
紗良は、よかったよかった、と思いながら、ヴィーに浄化をかけた。
ヨシッ