26
少し前に焼いて、日がたって固くなったパンを、昨夜から卵液に漬けてある。
牛乳と砂糖をたっぷり入れて、ジッパーバッグに空気を抜いて浸してあるので、中までしっかり吸っていた。
継ぎ足ししていた一回目のりんご酵母は、これで最後だった。
今は二回目を仕込んでいるので、次回のパンは三日は先になりそうだ。
部屋からフライパンを持ち出そうとしたが、そういえば外にも調理道具を置くようにしたのだった、と思い直す。
朝の空気は、大分冷たい。
萌絵と再会してから一週間ばかり、紗良はひたすら森に入っては食べられそうなものを採っていた。
なんというのだろう、あれは。
ランナーズハイという言葉があるけれど、それに似ている。
森ハイ?
森ハイだ。
青草の匂いから、落ち葉の匂いに変わって行く空気、かき分けるほどに新しい発見がある木々の間を抜け、時に小さな池を見つけたりなんかすると、とてつもなくテンションがあがる。
「さすがに今日はお休みにしよう……」
お供えの件もあるし、萌絵の差し入れもある。
そもそも、リセットされる無限の食料があるのだから、あまり保存食に必死になる必要はないのだ。
かまどに火を入れ、フライパンをかけてバターをたっぷり落とす。
塊の端からじゅわじゅわと溶けていくそこに、甘い液をたっぷり吸ったパンをトングで入れた。
いい音と、いい匂いがする。
じっくり両面焼いて、皿に二個、フードボウル改に二個ずつ取り出した。
粉砂糖とクルミ、はちみつをかけて、コンテナから摘んだミントを添える。
コンテナ内のハーブも、大分少なくなった。
もうそろそろ、片付けてしまわなくてはならない。
四つあるコンテナのうち、ひとつはハーブ、ひとつはさつまいもが埋めてある。
残りのふたつは、森ハイで採取しまくった収穫物が入っていて、保存の魔法をかけてあった。
つるで作った買い物かごの形の仕切りがいくつかずつ入っている。
それももう足りなくなりそうだ。
ヴィーが、タッタッタッと軽快にやって来た。
ぺろりとひとつ食べてしまったが、もうひとつに手を付ける前にぱっと空を見上げる。
紗良も、チェアに座って食べ始めようとしていたが、つられて空を見る。
さっきまでいい天気だったのに、うっすら雲がかかっていた。
そういえば、今まで雨が降ったことがない。
こちらへきて二か月以上経つから、これは相当におかしな話だ。
まさか、天候も操っているとか?
とりあえず、雨が降りそうなことは分かった。
フレンチトーストを食べながら、どうしようかな、と考える。
前々から、タープのような屋根をつけたいなとは思っていた。
けれど、ウッドデッキはとても広い。
全体を覆えば暗くなるし、一部を覆っただけでは雨が吹き込んでしまい、屋根の意味をなさないだろう。
何かいい案はないか。
グランピングのように、ウッドデッキを囲む大きなテントを張るのはどうか。
いやそれでは晴れの日にもテント内になってしまう。
雨が降ったら出し、晴れたらたたむ?
そんな面倒な話はない。
「やっぱり魔法よね」
マニュアルノートを開いてみたが、何も新しい記述はなかった。
自分で考えなさい、ということだろう。
湯を沸かし、コーヒーをいれて、パジャマとカーディガンのままクッションにもたれかかる。
ひざ掛けも持って来た。
脇には、拾ってきた栗と、鉈豆とインゲンの間みたいなさやのある豆と、大葉のような香草。
今日はこれらの皮をむいたり筋をとったりして、下処理をするのだ。
と、さあとりかかろうというところで、ぽつりときた。
やはり雨になる。
後回しには出来ないようだ。
とりあえず屋根をつけるかな。
しかし、マニュアルノートが教えてくれないのだから、紗良ならでは、みたいなアイディアを出したいものだ。
ヴィーはといえば、自分用のクッションを枕に、腹を出して寝ている。
鼻息で、ひげが揺れている。
それを見て、ひらめいた。
エアカーテンだ。
大きなお店の入り口で、外気温を入れないために吹き下ろしているあれ。
あれの強い版を、てっぺんからドーム状に張る。
試しにやってみると、頂点から360度に均等に風を吹かせるのが案外難しい。
そこで、上から吹き下ろすのではなく、頂点の少し下あたりから上に向かって一度吹き上げ、そこから周辺に下降していくようにした。
噴水みたいなものだ。
と、丁度、ざっと雨が降ってきた。
しずくはエアカーテンに当たり、吹き飛ばされていく。
ウッドデッキはどこも濡れることなく、どうやら上手くいったようだ。
良いアイディアだった。
自画自賛し、紗良はさっそく、今日の手仕事にとりかかった。
地面を叩く雨の音は、とても優しい。
コーヒーを紅茶に変え、やるべきことを全部終える頃、雨が止んだ。
さあっと太陽が顔を出し、夕方の光がきらきらしている。
まるで新しい世界のようだ。
全てが出来たばかりのようにみずみずしく見える。
エアカーテンを取り払うと、途端に、雨の匂いがする。
しかしそれも、すぐに暖かな光に取って代わられた。
紗良は、スマホを取り出した。
萌絵とのトークルームを作った時に、一番上に来ていたのは、『家族』と名前の付いた部屋だ。
今は二番目になったそれを、そっと開く。
『紗良の新しい自転車、何色?』
『黄色!』
『いいじゃん』
『防犯ロックつけた?』
『お父さんがつけました。警察にもお父さんが行きました』
『怪我なくて良かったね』
いくつかのスタンプの応酬。
それが、最後のやりとりだ。
ゆっくりとトークをさかのぼり、頭の中、家族の声で再生する。
異世界に来て、初めてのことだ。
アプリを閉じて、写真を開く。
懐かしくさえある友達、家族、そして日本の景色が流れていく。
もう二度と会えない。
ぽたぽたと膝にこぼれる涙が、全てを滲ませた。
きっと、家族も泣いている。
どうか、みんなが私を忘れませんように。
そして、それでも、忙しい毎日の中で、いつか私が思い出になりますように。
何がなんだか分からなかった異世界転移の理由が、ようやく判明した。
そして今日から、その上で、紗良は新しい世界で生きていく。
悲しくて寂しくて泣くのは、最初で最後だと決めた。
だからこそ、紗良は萌絵を許す。
毎日バイトにあけくれていた彼女と、自分の境遇との違いが誰のせいでもないように、この現状も誰かの悪意ではない。
魔物がいる世界を、人が平和に暮らせるようにするために萌絵が必要だったのならば、呼ぼうとするのは当然だ。
この森の恵みをせめて得ようとしたフィルとその街の人々のように。
どすん、と重い音がして、紗良は目を上げた。
1mばかり離れたところに、ヴィーが背中を向けて寝転んでいる。
どうやら、テーブルの向こうからわざわざやって来たらしい。
手の届かない距離だけれど、その少しふさふさしたしっぽは、紗良の膝に届いている。
ちょっと触ってみると、手の中でぶるぶる揺れた。
なかなかの毛並みである。
紗良は、そのふさふさを、しばらくの間、熱心に撫でつけた。
紗良のお腹がぐうと鳴った。
もう夜がくる。
ヴィーのしっぽを放し、立ち上がって、部屋へと入った。
取り出したのは、母のレシピ本だ。
表紙にはいないけれど、ワンポイントアドバイスの吹き出しを添えた母の顔が、あちこちのページにいる。
さて、どれにしよう。
紗良の涙が一滴だけこぼれ、ページに染みを作った。
『もやしと豚バラのごま豆乳スープ』と書いてある。
「これにしましょう」
なんだか意識高そうなメニューだけれど、少なくとも、胃に優しいに違いない。
きっと、心にも優しい。
そしてきっときっと──ヴィーは物足りないだろうな。
フードボウル改の前で、スープが冷めるまでじっと待っているでっかい魔物を思い浮かべて、紗良は笑った。
そろそろフィルさんが来て異世界恋愛カテゴリで仕事してもらわないと困る