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萌絵は、まじめに聖女をしているらしい。
異世界のやり口にまだ腹立たしい気持ちは残っているが、紗良が萌絵のせいで呼ばれたと知ってから、下手なことを言うととんでもないことが起こる、と震えたとか。
日本に未練はあるけれど、嫌なことはされないし、勉強しながらお祈りをするだけで、下にも置かぬおもてなし、というやつをされるから、今では少しずつ諦めつつあるという。
「まあ勉強っていったって、日本の頃のに比べたら楽勝なの。
津和野さんのほうは、部屋ごと転移、リセット機能つき、マニュアルノートあり、魔力大、加護つきかぁ。
私の我儘を精一杯、補填してくれたって感じだよね……」
「うん、まあ、生きるのに困ってはいないよ。加護ってなに?」
「ごめんね……」
「いや、私も同じだよ、最初は泣き暮らしたけど、諦めたとこある。
諦めちゃえば、案外、悪くない気もしてくる。
加護ってなに?」
萌絵は、二個目のおにぎりを食べながら、紗良と並んで座っている。
「よく知らない、でも、女神さまの加護があると、なんかいいらしいよ」
「なんかいいのかぁ」
「梅干しも美味しいね」
「うん、お母さんが漬けたやつだよ。
こっちのお米、美味しくないの?」
「うーん、ううん、不味くはないけど、日本のお米じゃないから。
細長くて、ぱさぱさしてる。しかもめっちゃ遠くから輸入するから高いって。
梅干しはもちろん海苔もないから、こんな美味しいおにぎり、すごく久しぶり」
ペットボトルを渡すと、萌絵はそれを逆さにした。
こぼれ出る水が、しかし地面に届く前に球体になって浮かび、萌絵の口に吸い込まれていく。
彼女も魔法を使いこなしているようだ。
残った半分を返してくれる。
「こっちの神官からさ。聖域に人がいて、森の恵みを与えてくれるって報告がきて」
「フィルさんだね。そういえば、王都の偉い人に報告するって言ってたよ」
「うん、今、私が面倒みてもらってるとこだよ。教皇庁。
どうも界渡りっぽいって、それで、見た目とか聞いたら、日本人みたいだし、津和野さんだって直感して」
「それで、会いに来てくれたの?」
「会いにっていうかぁ、確認っていうか……やっぱり私のせいだったって分かっちゃったっていうか……」
萌絵は、口元をぬぐうと、もぞもぞと正座をして紗良にむき合った。
ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい。元の世界には帰れないみたいです。私のせいです。
何でもします。
一緒に王都に行って、お姫様みたいに暮らすとかもできます。
してほしいことがあったら、言ってください!」
許してくださいと言わない所が、彼女らしいと思った。
そう言われれば、許すと答えるしかないけれど、彼女はその言葉を言わせずにいる。
今、女子大生同士だった二人は、聖女と森暮らしの平民となり、彼女の妬みも全て消えたのだろう。
そうなってみれば、紗良の存在はもはや慰めにも腹いせにもならず、無意味、いやそれどころか、心の重荷になったわけだ。
紗良は自分の心に聞いてみた。
今の生活が嫌いかどうか、真剣に。
家族と離れたことさえ別にすれば、実は、悪くないと思っている。
何になってもいい人生は、まだ、何者でもなかった人生だ。
新しく何かを始めても、間に合う人生だということ。
「あ」
「なに! 言って!」
「ねえ、魚って、どのくらい食べる? 新鮮?
海の魚って、結構手に入る? 流通とかさあ、そんな発達してないよね、知らないけど、多分」
萌絵は、魚、と呟いた。
それから、変な顔をして、言った。
「そういう浮世離れしてるとこも、嫌いだったわ」
「そういうの、口に出しては駄目よ?」
「今は別に嫌いじゃないわよ。
なんだっけ、魚ね。食べるよ。殺生がどうとかないから、こっちの宗教」
「へえ」
「なるほど、この森じゃあ、生魚は手に入りにくいよね」
「うん。私、ここで暮らすから、今冬ごもりの準備してるの。
だから、唯一手に入りそうもない新鮮な魚が欲しいかな」
「そっか」
萌絵は、肯いて立ち上がり、膝についた枯葉をぱたぱたと叩いて落とした。
それから、胸元からスマホを取り出す。
「津和野さんもあるよね、スマホ」
「あ、うん。ネットは死んでるけど、こっちの地図と、ステータスアプリが入ってる」
紗良も立ち上がり、ポケットからスマホを出す。
「新しくアプリ追加なんて私できないから、もともと入ってるSNSアプリを繋げちゃうね。
二人だけのローカルネットワークだから、電波なくてもいけるようにする」
「へえ、すごいね、そんなこと出来るんだ」
「教育係のね、前の聖女様がめちゃくちゃ厳しいんだよ……」
二人分のスマホを並べ、緑のアイコンアプリを選び、トークルームを作る。
そして、萌絵が魔法をかけた。
試しにスタンプを送ると、ぽこん、と萌絵に通知が飛んだ。
「これでいいわね。
今日は、ちょっともう帰らなくちゃならないの。また来るわ。その時、魚とか持ってくるから」
「分かった」
「あとさ」
「うん」
萌絵は、とても真剣な顔をしていた。
そして、紗良をじっと見つめて言った。
「カレー食べたい」
「カレー」
「カレーの日があったら呼んで。変なスパイスから作る本格的なやつじゃなく、市販のルーのやつ。ある?」
「う、うん、スパイスからとか、私そんな料理上手くないよ」
「お母さんが料理学校の先生なのに?」
「うちじゃあ、お手伝いさんが作ってたから」
彼女は、かーっ!と大声をあげ、自分の額をぴしゃりと叩く。
そして、何やらぶつぶつと呟いている。
私は聖女私は聖女私は聖女、というように聞こえた。
「佐々木さんのほうが忙しそうだし、逆に来られる日を連絡してよ。
その日に合わせて作っておくから」
「ああ……今、私の中で、好きが嫌いを越えていったわ」
「それはなによりだね」
彼女は、左の耳に触れると、何かを取り外す仕草をした。
そのとたん、その手に杖が現れる。
紗良の杖が赤い石を抱いているのに対し、彼女のそれはどこまでも透明な石だ。
「私のに似てる」
「これ、女神さまがくれたものらしいよ。津和野さんのもそうなんじゃない?」
紗良のイヤーカフを指さし、そう言った彼女は、杖を構えてくるりと回した。
御神木が反応するように枝葉を揺らし、巨大な幹の一点が光り始める。
やがて、ドアの大きさの四角い光となり、萌絵は、じゃあまた、と言い残してその中に消えていった。
久しぶりにこんなに話したな。
まだ夕方までだいぶあるけれど、もう帰ることにしよう。
紗良は、今日の収穫はそこそこあることだしと、帰路に就く。
そういえば、この森には、神官のフィル以外は立ち入れないという話だったが、どうして萌絵は入れたのだろう。
彼女が訪れる直前、破裂音のようなものが何度かしていたが、あれは関係あるだろうか。
「あるよね、きっと」
おそらく、強引に結界をぶち破って入って来た気がする。
加護の話を聞くに、紗良を守ってくれているのはきっと女神様なのだろう。
その女神さまが張った結界を抜けてくるなんて、力のある証拠ではないだろうか。
つまり、この世界が萌絵を呼んだのは、正解だったということか。
聖女に向いている。
そう思う。
彼女がそれを、喜ぶかどうかは分からないけれど。
河原に戻って、まだ陽があるので、もう一仕事することにした。
採って来た無花果とりんごでジャムを作る。
それぞれの果物と、同量の砂糖でひたすら煮るだけ。
まだ残っていたレモンを絞り、魔法で火加減を調節しながら、形がなくなるまで火にかける。
いい匂いがする。
熱いうちに消毒した瓶に詰め、きっちり蓋をしてから、鍋に残った分を、パンでこそげて食べた。
熱々で、まだ甘味が尖っているけれど、だからこそそれが身体に染み渡って、元気になる気がする。
ヴィーがいないことにようやく気づいた。
どこかに出かけたのだろう。
いやそれとも、どこかに巣穴があるのかもしれない。
こちらが別宅である可能性の方が高い気がする。
そろそろ日も暮れる。
紗良は部屋に戻り、シャワーを浴びてから、パジャマ代わりの長袖ワンピースに膝までのカーディガンを羽織ってウッドデッキに出た。
ファイヤーピットに火を起こして、ぷしっとビールを開ける。
つまみは、冷蔵庫から出してきたチーズと、煎ったクルミ。
一本空けてから、思いついていそいそとカップラーメンを作る。
萌絵の話に引きずられたのか、カレー味にしてしまった。
残っていたチーズを投入し、溶けるのを待ってから、ずずっとすする。
今日という日は、きっと、折に触れて思い出す日になるだろう。
この世界に二人だけしかいない、同じ世界の人と再会した日だ。
それが良いことではないにしても、もうこの運命からは逃げられない。
見知らぬ星空を、彼女も見ているだろうか。
「勉強かぁ。私、しなくていいんだ……ヤバくない?」
物心ついてからずっとしてきたことを、しなくていいなんて!
それは悪くないなと思い、紗良は一人にっこりと微笑んだ。